67.目を覚ましたさき
「ここ、は……」
瑞々しい緑の匂いでラズールは目を覚ます。どう進んだのかはわからなかった。ただ水路を進むと、次第に水嵩は増し、そして顔まで埋もれるほどになり、それでも進むといきなり流されて、そうしてここにたどり着いた。
ラズールは、周囲を見渡して驚く。鮮やかな緑の絨毯のような芝生。そして、小高い丘には凸凹した岩が立ち並び、背後には透明な水を湛えた沢がある。
「見えて……る?」
ハッと顔をこわばらせて、ラズールは抱きしめたままのシャーラを芝生に寝かせる。
まるで眠っているかのように、穏やかな顔つきのシャーラ。動かない、皮膚も冷たい。
ラズールはシャーラの頬に触れて、愛おしげに見下ろす。なぜか頬も唇も赤みが戻っているかのよう、温かそうだ。
シャーラの硬く握りしめた拳を包み込む。何を握っているのか、まるで赤ん坊が拳を必死で握りしめているみたいだ。
指で、シャーラの唇をなぞる。
この唇に、何度も口づけした。
何度しても、足りなかった。きっと足りることなんてない、これからもずっと。
「――ずっと、好きだ」
――唇を重ねる。
顔を上げて、小高い丘を見上げる。ここは、イラムなのだろうか、それともシャーラが来た都か。ただ風化しつつある巨石が並ぶばかりで、住居らしき建物さえない。
指でなぞったシャーラの唇は暖かい気がした。
ラズールは眉を寄せて、何かを感じて顔を上げる。
視線の先に、白い服の女性が佇んでいた。目を見開いたラズールに女性が指を伸ばす。
その指し示す先は、地面のシャーラ。もう一度シャーラを見下ろすと、わずかに開いた唇が震えている。
「シャーラ?」
(まさか……)
ラズールはシャーラを見つめて、それから慌てて彼女に手を伸ばす。肩に手を触れて揺すろうと伸ばした手を、一度息を吐いて気を落ち着けて、そっと触れる。
「……シャーラ?」
半信半疑、だった。けれど、間違いなくシャーラの華奢な胸が、上下している。
「シャーラ? おい?」
肩を揺すると、突然シャーラが咳き込む。まるで幽霊を見たかのような気分で、でも必死で横を向かせ、背中をさする。まだ血の気が薄い唇が、息をケホッと吐き出す。
……生きて、いる?
「っ、シャーラ、シャーラ!!」
「……?」
生理的に出た涙を浮かべて、潤んだ銀色の瞳が、ラズールを見返す。
「ラ……ズール……?」
することは、ただ一つだけだ。
――抱きしめる。
シャーラを強く胸に抱きしめる、何がどうなったのかなんてどうでもいい。何でもいい。魔神の仕業で、この後何が待っていてもいい。何の代償を求められてもいい、ただ、本当に、シャーラがいれば。
ラズールは一度シャーラを離して、見つめ返す。
手の平に伝わる感触、確かに胸が動き、目がラズールを見つめている。幻でも、白昼夢でもない。
シャーラは生きて、ここにいる。
そのシャーラがラズールに手を伸ばして、そっと頬に触れる。案じる眼差しだ。
「ラズール、目は見えているの?」
「ああ、確かに」
シャーラがどうして自分が目を失ったことを知っているのか、と思ったが、シャーラの手が目に伸ばされるから、目を閉じて瞼に触れるままにされる。
「ラズール、目の色が――変わっているの」
ラズールは瞼をあけて、再度シャーラを見つめ返す。
視界は全く変わりがない、シャーラの銀の瞳、銀の髪も、可愛らしい顔もそのままだ。
「茶色に……みえるわ。瞳の色が」
ラズールは首をかしげて、困惑して困ったような顔のシャーラに手を伸ばす。
「どうでもいい、シャーラが見えれば」
ラズールはただ子どものように微笑んで、シャーラを抱きしめて、その胸に顔を埋めて深く息を吸う。
「どうでも、よく……ない。だって――」
「いいんだ、見えてる。アンタが、それだけでいいだろ」
「そう、ね」
シャーラは唇をかみ締めてラズールの頭を見下ろし、手を伸ばして抱きしめ返そうとして、手の平を広げる。
その手の中には、銀製の表裏一面に文様が刻まれた古めかしい指輪があった。
「ラズール、これ」
ラズールは顔をゆるりと億劫そうにあげて、それから指輪を手に取る。その目が驚愕に見開かれる。
「アミナさんに会ったの。アミナさんは……あなたを憎んでもいないし、とても思っていた。これをあなたに託されたの。そして目も」
「アミナが……?」
「アミナさんの目の色、だわ」
ラズールが、半信半疑でそっと手を上げると、シャーラがその手を包んでラズールの瞼に触れさせてくる。わからないが、そうなのかもしれない。
「そして、ビルキース姉さまが私を助けてくれた」
「ビルキース? 誰だ?」
シャーラからでてくる名前は思い当たらない。よくある名前だ。
ただシャーラが生きて、口を開くからそれだけで満足だ。
「黒髪のオリーブ色の肌の姫様。ビルキース姉さんが、門を作ったの。私達を逃がすためにずっと、見守っていてくれたのね」
「黒髪でオリーブ色の肌? バシャマか?」
「え?」
「予言者バシャマ。アンタがあらわれると予言した女だ。最後に会ってから行方不明だ」
彼女がシャーラの守り手だったのであれば、救うようにラズールをけしかけたのもわかる。むしろ、バシャマに選ばれたのだとわかり、ラズールは礼を言いたい気分だった。
だが、彼女はもう二度と姿を見せない気がした。
そういえばとラズールは、周囲を見渡す。
いつの間にか白い服の女性は消えていた。目を眇めたラズールは、ハッと慌てる。これまでの呆けていた顔から一転、険しい顔でシャーラの腰を掴んで、後ろを向かせる。
「ラズール、なに!?」
ラズールはシャーラの混乱の声を無視し、躊躇なく彼女の濡れて張り付いた衣装を引き摺り下ろす。そして白い肌を見つめる。
「消えた……」
「え?」
そこには、蕾も、花も、数字も、模様などなかったかのように、ただ雪のように白く透き通る肌があるだけだった。
「『――魔王の印は死ぬまで、なくならない』」
「え」
ラズールが再度シャーラを抱きしめて、肩に顔を載せる。
甘えた仕草に、シャーラが顔を赤らめる。
「やっぱり、アンタは一度……死んだのか? だから花押が消えたのか」
シャーラは考え込むようにしばらく黙った後、いいえ、と首をふった。
「たぶん、私は許されたの。もう王様は大丈夫よ、ビルキースお姉さまがそばにいる」
「そいつの名は……?」
「名前? 王様の? わからないわ」
キョトンと首を傾げるシャーラ。
魔神の名前を知ることは一定の拘束力が働くから、駆け引きに有利になる。
まだシャーラの呪いが解けていないときのことを考えて、名を知っておきたいと思うラズールだが、彼女は終わったことだと朗らかに笑う。
「魔神はいなくなったわ。王様から追い払われたの。だからいいのよ」
ラズールも息をついて、それから苦笑した。
シャーラの笑みで、不思議と気分は晴れやかだ。
多分、本当に大丈夫なのだろう。終わったのだろう。
「そうだな……シャーラ。――それにしても」
ラズールはシャーラの肩越しに、目の前の緑色の芝生を見つめる。
「ここは、どこ――」
「――お前たち、誰だ!」
鋭くも甲高い声が響いた。




