64.名前
シャーラは美しい男を見上げて、唇に笑みを上らせた。
「決めたのか、アルヴァーン」
そして、シャーラは指輪を抜いて彼と自分の間に翳す。
「そうか、そう決めたのか」
「――いいえ。あなたを倒さない、指輪は使わない」
シャーラのそれは、自分への宣言だった。誓いだった。
アミナはラズールにと託したのだ。指輪の持ち主のラズールは指輪の力を使ってしまった。
けれど、この手にある、シャーラの手に。
「――私の名が、アルヴァーンなのは、なぜ?」
秀麗な眉がひそめられる。
「それに、あなたの名前は何?」
「私の――名だと?」
「私はあなたの名前を知らない。きっとここの女性達も知らない。でも――あなたも忘れてしまったのでは?」
「馬鹿な!私は――私は偉大な――王だ! 秀麗でこの巨大な王宮を作った巨大な力を持つ王だ」
「それをしたのはあなたなの? それをしたのは魔神だわ。私は、あなたが王には見えない。私は――魔神をみてきたわ。それと同じよ。魔神に操られた、乗っ取られたものと、同じ目をしている」
アミナの目を通して見た王弟は、人には見えなかった。すでに魔神そのものだった。
魔神を操るうちに、自分が魔神になってしまうのか。
それとも魔神に入れ替わってしまうのか。この目の前の王と名乗る男も、そう見える。
彼は、もう人ではない。
「いつの間にか、あなたは魔神になってしまったのよ」
「だからなんだ!――私は魔王だ。なにが悪い」
「――だからよ。あなたは、大事な物をなくしてしまった。忘れているからよ」
訝しげな男に畳み掛ける。
「私が四十なのは、なぜ? ここの他の女性たちは花押がないわ。なぜ? 私が最後だから?」
「最後だと? 思い上がるな。お前がいなくなれば次の女がいる」
「いいえ。あなたにとって、――四十は特別だった」
「言うな!」
「お姉さまたちから聞いたわ。そして私は遺物の本を読んだ。四十は、最初のお后様が病気になり寝込まれてなくなられた日。あなたが最後に愛した方よ」
「言うな!」
「四十は、そしてあなたが泣き暮らした日々。あなたが最後に愛を思い出にした日」
「お前など、ただ四十番目に来ただけの女だ!」
「あなたはこれで終わりにしたいのよ。思い出して、数字の意味を」
「--何のつもりだ、小娘」
爪が喉に食い込んでいた。今度こそ喉を潰されるかもしれない。
「これで終わりならば、私は自らを捧げるわ。けれど――」
ビルキースお姉さまでも、王を変えることができなかった。
シャーラの頭に記憶が蘇る。
ここにくるまでの記憶はなかった。けれど、姉たちと過ごした日々。美しい彼女たちからたくさんのことを教わった、美しい歌、美しい踊り、悲しい歌、悲しい踊り。
王からの呼び出しを待ちながらいつもみなが怯えていた。
腰に花が咲くことを怯えていた。
シャーラは思い出していた。
ラズールを思い、だからこそこの目の前の男から出された難題を思い出すことができた。
「あなたは、『愛を教えてみせろ』と、私に言ったわ。どんなにたくさんの女を娶っても愛せない、最後は殺してしまう。だから、自分が愛せるようにしてみせろと命じるのよ」
彼はいつも女達にその課題を出す。そして叶えられないと殺すのだ。
「――そうだ」
「あなたは愛という感情を取り戻したいのよ。そうでしょ?」
「お前にできるのか!?」
「教えてあげるわ。そうしたら、私を帰して」
「私に条件を出すのか? 不遜な小娘が!!」
シャーラは男に哀れみと悲しみの眼差しを向けて頷いた。もう唇は震えていない。
信じていた、自分を。ラズールの元に、帰るのだ。
彼はシャーラの生を願い、自分を犠牲にした。ならば、ずっとそばにいる。
彼の――目に、なる。
シャーラは、男を見上げて口を開いた。その声は思っていた以上に力強く、それに一層シャーラは勇気づけられた。
「あなたは女達に求めていた、自分を愛させてみせろと」
「あやつらは、それができなかった。だから、殺した!!」
「――違う!」
シャーラが叫ぶと、男がシャーラの喉を掴む。喉の骨が押されて咳がこみ上げて来る。
「煩い! 私は偉大な王だ。魔王なのだ、お前に指図などされぬ。お前を殺してやろう」
「そうしたら、あなたは答えを永遠に得られないのよ?」
シャーラが言うと、男の目に憎しみといら立ちの色が宿る。
シャーラは悲しみの湛えた眼差しで見つめ返す。そして続ける。
「教えてあげる。あなたはもうとっくに気づいているのに、気づかないふりをしているから。見えていても、見えていないふりをしているから」
「なんだと?」
「あなたが、彼女達を愛せなかったのじゃないわ。あなたが女達に――愛されなかったからよ!」
喉が絞められる、足が浮く、喉を押さえて宙釣りにされている
「女達は仕えても心がなかった。いくら権力があっても、魔法で縛っても、女達はあなたを愛することがない。最初のお后様以外は。あなたは知っていたんだわ」
「馬鹿な。私は王だぞ。女には私しかいない、私を愛するしかないのだ!」
「あなたは自分が愛せないから殺したんじゃない。愛してもらえないから――殺したの」
シャーラの身体が衝撃と共に、壁へとめり込む。
シャーラは息をかほっと漏らし、頭を項垂れた。
全身が痛いのに、声だけが出る。
痛いけれど、もう少し最後まで言う力を。ラズールあなたの強さを、私に――頂戴。
「あなたのお后様は、あなたを心から愛していた。――それじゃだめなの?」
シャーラだったら、ラズール以外の人から愛されたくない。
他の人の思いはいらない。
たとえ、彼と離れても、一生会えなくても。それでも彼以外の人から愛された記憶はいらない。
「――黙れ」
その声は力なかった。壁に押し付けるほどの力は全然なかった。
「私は、ラズール以外は愛さないわ。それでもあなたがいいなら、私は永遠に――あなたに仕えます」
「……だまれ」
「あなたはもう、愛を知っているわ。だから――あなたは、お后様以外は、愛せないのよ」
「だまれだまれだまれ!」
「思い出すのよ、それだけでいいの。大事な思い出があれば、生きていけるわ。愛された記憶、愛した記憶。あなたは誰? 名前は何?」
「私は、わたしはわたしは――千の宮殿を造りし、偉大な力を持つ――魔神の王――」
「違う、それはあなたではないわ。あなたの名前よ、愛した人が呼んだその名は!?」
「黙れ、――黙れ黙れ黙れ!! 言うな言うないうなああああ!!」
男の手が、シャーラから離れる。黒い影が立ち上り、男から離れて天井近くで渦を巻く。
残されたのは強靭な体躯の男。けれど、怯えたようにうずくまり、頭を抱えている。
銀の指輪がシャーラの手から離れて、石床に跳ねて転がって行く。
それを拾うのは、オリーブ色の肌の女性。彼女が見上げると、黒い影は次第に薄まり、そして消えた。
「お姉さま……?」
微笑む彼女の姿は半透明、でも、とても美しかった。
彼女は首を振って、唇に指を当てて何も言うなという仕草をする。
シャーラの手に指輪を握らせ、そして扉の向こうを指す。
シャーラはよろよろと立ち上がる。そして足を踏み出す。
振り返ると、ビルキースは、頭を抱える男の肩をそっと抱き、慈愛に満ちた微笑を浮かべていた。




