61.兄妹
"――辛いだろう。三つ目の願いを言うがいい"
「アイツは殺せない。どうしても逃げられないわ」
アミナには夫を殺すことも、害することもできない。でも、逃げることもできない。
「アンタって、ジンのクセに役立たずよね。主人の私を守れないんだもの」
"小娘。お前が死なないのは、なぜだと思う"
「……どういうこと」
"我と契約しているうちは、死ぬことは叶わない。お前がここまで痛めつけられても、回復するのは、私の魔力のおかげだ"
「魂を貰うから、勝手に死なれちゃ困るってわけね」
アミナは気だるげにため息をつく。
"傷つけられない体を願うか。痛みを感じないようにするか?"
「願わないわ、アンタに魂はあげない。それに傷つかない体なんて怪しいわ。アンタのやり口はわかってるのよ」
"聡いな。だが、わかっていない"
「……」
"契約条件を変えてもいい"
「どういう、こと」
"あの男の目。青い目を私にくれるのならば、お前の魂は取らない"
「まさか、何を言っているのよ! ラズールの目のこと!?」
"あの目は、天藍石。魔力を秘めた運命を手繰り寄せる奇跡の目。あれなら私も最高級の魔神になれる"
アミナは、起き上がり、叫ぶ。
「アンタ達みんな、アイツの目がいいって言うのね。あの青い目が」
"そうだ、憎いだろう、いつもあの男ばかりが優遇される。頂いてしまえ、おまえが望めば、あの目をおまえの魂の代わりに貰う。おまえは、願いを叶え、命が助かるのだ"
「……私のものじゃないのに、代償にできないってことぐらい知ってるわ」
"おまえが望めばいい"
「だから!」
"おまえがあの男に頼めばいい、欲しいと。くれたのならば、おまえのもの"
「くれる……そんな」
"あの男はおまえの兄だ、おまえが頼めば、望めば、くれるだろう"
「そんなこと、そんなこと、ない」
"頼んでみるがいい"
ラズールと再会を果たしたアミナだが、酷い罵りでラズールを追い返す。けれど今晩、ラズールはまた訪れた。アミナを救いに。
(どうしよう。私は何もできないの?)
シャーラはずっと見てきた。けれど見ているだけの自分がもどかしかった。
「アミナ、本当のことを言ってくれ。おまえは本当に幸せか? お前が望めば、俺はどんなことをしても助ける」
必死な目で、ラズールは妹を説得する。
アミナはヴェールを被り、怪我などしていないかのように、たおやかに気だるげに寝椅子に転がり、暗い目でラズールを見据えている。
けれど、アミナの心の中は、嵐が吹き荒れているのをシャーラは知っていた。
(助けて欲しいって、叫んでいる)
――たすけて、たすけて、おにいちゃん。昔みたいに、救い出して。
シャーラには、アミナの声が聞こえてくる。声に出さない叫びが伝わる。
「おまえ、ここから逃げたいんだろ」
――でも、ここからは逃げられないわ。
「足を用意してある。おまえを担いでここを降りて、城外へ出る。砂漠に逃げ込めば、追っ手は来ない」
アミナの瞳が微かに揺らぐ。その動揺と、縋るような眼差しは、小さなオイルランプの炎が写り込んで揺らぎ、隠されてしまう。
――風のない夜だった。珍しく空気が澄んでいて、雲もなく月の光が眩しいくらい明るい夜だった。
「おまえを追いかけて来る奴ら、全てを相手にしてもいい」
「――無理よ」
冷ややかな声が、撥ね退ける。
「私は、王弟殿下の妃なのよ。帝国軍全てを相手にするつもり?」
「そうだ」
「それに」
アミナは綺麗に化粧をした顔で、表情を変えずに一歩も動こうともせずに、続ける。
「私は、全てを手に入れたの。あなたとはもう違うの。二度と、私に関わらないで」
――おにいちゃん、うそ。たすけて! ……でも、もう遅いの。
「アミナ! 行こう」
「触らないで!!」
――触らないで。期待させないで。連れ出して。……でも、できない。
アミナの腕を掴んだラズールが、初めて厳しい目で見下ろす。
「おまえは嘘をついてる。わかる」
「――そうよ。夫を愛してはいないわ、愛されてもいない。けれど、この生活は捨てない」
「アミナ!」
「身体を売るのは、もうごめんよ!! アンタは何も、何もしてくれなかった!!」
ラズールは、絶句して立ち竦む。
――ごめんね、おにいちゃん、あんなに止めてくれたのにね。
「そうよ、それしかなかった。どんなことでもしたわ、詳しく聞かせてあげましょうか? ラズールも男でしょ、興奮するんじゃない?」
「アミナ! いい加減にしろっ」
「離して! アンタは何もできないわ、誰も守れやしないっ」
「……」
「笑わせないで、今更。だったら――昔、約束したイラムに、楽園に連れて行ってよ!」
「イラム……?」
「……覚えてない? そうね、忘れたのね」
アミナは窮屈そうに笑った。
「逃げてどうするのよ。それとも逃げた先で、私が身体を売って稼げばいいの?」
ラズールの瞳が、暗闇の中で一層暗く陰る。
――止まらない、傷つけている。けれど、もっと傷つけばいい。二度と戻ってこないように。
「それとも、アンタが身体を売る? そうだ、アンタの目」
――今は黒く沈んでいる目。私は、何を言うの?
「その目頂戴よ。さぞ高く売れるでしょうよ」
「アミナ……」
「私のために、なんでもしてくれるんでしょう。ほら、えぐり出してよ」
――ほら、帰りなさい。アンタを憎んでいる妹。そんなの見捨ててしまいなさい。
「できないでしょう。自分が大事でしょ? 私のために死んでみせて。そうすれば、私は幸せになれる」
肩を落として沈んでいる兄。偉ぶっているくせに、傷つきやすい所は変わってない。
「――わかった」
「え」
「おまえにやるよ。そのかわり一緒に来いよ」
突然、闇の中白い光がきらめいた。短剣を抜いて、躊躇いなく己の青い瞳に刃を向けるラズールの手。
"よくやった、その瞳、おまえのものだ"
闇の中でジンの声が囁く。
「やめて! いらないわっ、やめなさい」
アミナは自分の服を引き裂き、大声で叫ぶ。
「誰か! 誰か、曲者よ。来てっ」
ラズールが、一瞬動きを止める。呆然としている眼差しに指を突きつける。
「この痴れ者が、私を襲ってきたの。早く捕まえて!」




