5.シャーラザット
「……ラズール……?」
女が訝しげな顔で、心配そうに見ている。
「ごめんなさい、私。混乱して。あなたこそ……大丈夫?」
ラズールは口を引き結んだ。女に心配をされているのがわかり、今度は自分に腹が立った。
だいたいこいつはなぜ、捉えた相手を案じる?
自分の身を心配するのが先だろうが。
「……なんでもない。嫌なことを思い出させて悪かった」
息を吐いて、気を落ち着かせる。女から手を放し、離れて座る。
女はこちらを見つめたまま、自由になった腕を使って起き上がり、布を胸元に引き寄せて身体を隠す。不自然な仕草はない。怯え方も警戒も通常の反応だ。
一つ一つ、女の様子をあえて数えて確認し頭を冷やす。
「――俺達の仕事は、遺物狩りだ」
その眼差しに理解の色がないから、ラズールは説明を付け加える。
「この大砂漠は、遥かな昔、高度な文明があったらしい」
女がじっと見つめてくる、その聞き入る様子にラズールは続ける。
「それがどのくらい高度な文明だったか俺達はわからないが、世界で最も古い大海原と呼ばれるこの大砂漠からは、その遥か昔の文明の遺物が見つかる。それを頂くのが俺らの仕事だ。遺物は地面から掘るが、時には空から降ってくることもある。ジンの仕業らしい。アンタはそうやって、予言されていた門からきた」
「門?」
「遺物の現れる門だ。行くことはできない、一方通行に送られてくる」
「私は、この時代の……人間じゃないの?」
「俺にはわからない。……けど……アンタは、人間だ」
門からは、魔物が現れるときもある。ジンが寄こすのか、自分で来るのか、または古代の遺物に影響されて、生物が異形化するのかは、わからない。
――だが、この女は人間だ。
何をどこまで考えているのかはわからないし、ラズールにしても気休めは言えない。ただ感じたことを伝えることはできる。
「私、人間、でいいのね。そう思うのね」
「ああ」
「よか……った」
先程触れた肌は温かくて、息遣いも瞬きも人そのもので、それ以外ではない。過去の人間なのかはわからないが、今ここにいる。
そう言うと、女は僅かに眼差しを緩ませる。瞳が何かを言いたげに潤んでくるから、視線を外す。
「大きな問題は、アンタが王のものだということだ。アンタの主人が生きているのかは知らないが、どこかの後宮から逃げてきたなら、見つかれば言い訳はできない。俺達のところにいる時点で、俺達は王の女を盗んだことになる」
女が何か言いかけたのを手で遮り、そのまま続ける。
「まだある。アンタが門からの遺物である以上、他の奴らも狙っている。そいつらに俺らが遺物を拾ったことはバレているから、ここも狙われる。そして最後に、遺物は帝国に告げなきゃいけない。俺らは帝国に遺物を売って商売をしている」
「そう……なの」
「――アンタは予言で宝といわれていた。思い当たる節は?」
「わからない」
首を振る答えは、予想の範囲内。記憶がないのだから、それだけわかっても変だ。
(嘘は……ついてねえな)
だが、予言者が遺物を宝と呼んだことはこれまでにない。その理由があるはずだ。
――宝と言えば、例えば全てのジンを制する指輪なんかが伝説にはあるが。
(まさかな。こいつはただの人間の女だ)
「アンタを帝国に売るのは簡単だが、売っちまってアンタの主人が納得してくれるかも不明だ。かといって他の奴らに渡すのも最善とは思えない。だから、しばらく大人しくしててくれ」
女は当惑していた、たしかに一度に理解はできないだろう。保護してやると安心させてやるのが一番いいとは思うが、そう簡単に約束もできない。
自分の心が揺らいでいるのに気がついて、ラズールはらしくないと舌打ちする。早々に女から離れたほうが良さそうだ。
立ち上がり、出しかけた足を止める。
――やっぱり立ち去れない、見捨てるようで気まずい。
「口、開けろ」
懐からを出した親指ほどの大きさのものを、かがみ込んで口に含ませてやると、訝しげな顔が驚き、ついで表情が輝く。
「甘い……! 黒砂糖?」
「棗椰子だ。気に入ったのなら、やる」
このデーツは、口内でホロホロと崩れる。
幾つか手の平に落とすと、慌てて受け止める小さな手。
その顔は無邪気に喜ぶ少女のようで、記憶にある面影を呼び起こす。胸が傷んでラズールは顔を逸し離れた。水袋も足元に置いて立ち上がる。
その背に、覆いかぶさるように声がかかる。
「あの、待って!」
出口の紗幕を前にしたラズールに、声が畳み掛ける。
「一つだけ……気になる名前があって。その言葉だけ覚えているの」
嫌な予感がした。思いつめた表情、女が話を最後に付け加える時は、大抵ろくなことじゃない。
「……イラム、という名を知っている?」
女は躊躇いながら、ラズールを見上げる。だがその名を聞いた途端、急速にラズールの感情が冷える。この女に抱いた同情もかき消える。そして代わりに湧き上がる怒りと苛立ち。
(――すべて、演技か)
やはり、という思いが胸を満たす。演じて、いたのか。
「『イラムへ』と。誰かが言って……」
あまりのことに反応できなかった。顔を強張らせ固まるラズールは、頬を上気させて思い出した単語を伝えることに必死な女をじっと見つめる。
「あの、ラズール?」
「イラム、だと?」
――円柱の都イラム。
金銀が土塊のように転がり、樹木には宝石がたわわに実る豊かな地。治めるのはジンを自由に使役し、一千もの宮殿を建てさせたという強大な力を持つ王。だがその奢りから神の怒りに触れて滅びたという有名な物語で語られる都市だ。
最後にその名を聞いたのは、あの夜。
その楽園に連れていけと言った顔は泣いていたのか、笑っていたのか覚えていない。
「――私、イラムに行くと、誓ったことだけは確かなの。イラムに行かなきゃ」
今まで感情がないのかというくらい、虚ろだった瞳が、今は思いつめて炯々としている。
女を凝視してラズールは唐突に悟る。
(この女は嘘を言っていない。だが――)
「アンタ、正気か?」
問い返す自分の声は、相変わらず平静でいつも通りだ。だが心臓が早鐘を打っていた。
この女は、何を言っている。お伽噺に出てくる都市を本気で口にするなど、からかっているのか?
何が目的だ。
「――ラズール、いいか?」
声と同時に紗幕を上げてトゥリーが顔を覗かせて、目の前のラズールに驚き、軽く仰け反る。
ラズールが脇に避けると、ひょろりとした身体が低い天井を窮屈そうに潜り、奇妙な雰囲気に嫌そうに顔を顰める。
「話はまだか? 仕掛けが済んだぞ」
「……今、行く」
ラズールは、先程の女の発言を流す。本気にするわけにはいかない。
部屋を出ようとしたラズールだが、なぜかトゥリーは足を止めて、女に目を向ける。
「な、アンタ、名前わからないって?」
「――ええ」
すでにハシムから報告を聞いているトゥリーが、笑みを見せて気軽に声をかける。重い話題でも、大したことがないとカラリと笑い飛ばす気性は好ましいが、あっさりした様子に女も拍子抜けしたようだ。
躊躇しながらもおずおずと返事をする。
「ラズール、決めてやったのか?」
「なぜ――俺が?」
肩を竦めれば、「そうだろうな」と口を駱駝のようににんまりさせて、頷かれる。
「じゃあ、ザハラでいいか?」
「……」
ザハラ――花。
背中に描かれているからだ。トゥリーの単純さには、時々気持ちが救われるが、大抵足も掬われる。
ラズールが考えたのは一瞬。
「――シャーラザットだ」
女が息を呑み、トゥリーが目を見張る。
「それってさ、なんで?」
「イラムに行きたいそうだ」
「え? まあお姫様の名だし、似合ってるけど……イラム? 伝説の? まじで?」
「えっと、その……ええ」
トゥリーは事態を飲み込めず半信半疑で、女は戸惑い躊躇いながら頷く。それらを振り切るようにラズールは踵を返す。
「おい、ラズール!」
何も言うなと背中で拒絶を示して、ラズールは、仄暗い部屋から、光の差さない通路へと足を踏み出した。
女は驚いてはいたが、傷ついた様子も、怒りも見せなかった。
(知らないのか?)
イラムなどという物語上の名を本気で口にする女に、嫌味を込めてつけた名前。なのに困惑だけを見せていた。
――シャーラザット。
千と一夜、王に作り話を聞かせ、欺き続けたお姫様の名前だ。
*『千と一夜物語』または『千一夜物語』:実際に千一夜(または千一話)はありません。
*シャーラザット:バートン版『千夜一夜物語』に出てくる姫。シャへラザードと訳されていることもあります。
*イラム:『コーラン』にも記載がありますが、この物語は宗教とは一切関係なく、解釈も関連していません。
*花押:この物語上では、花の絵のように装飾された王の署名としています。実際は、スルタンが使用するアラビア文字によって装飾された署名で、花の絵を描いているわけではありません。