56.魔神
深く口を広げる穴はまるで地獄の深淵で、二人を飲み込んでしまう。
「シャーラアアアア!」
穴が閉じ始める、ラズールは小刀を仕掛けの石壁の際に投擲する。ガッという音を立てて、穴がそのままで仕掛けが止まる。
全身に巻き付いていた黒蛇を引きはがすと、ラズールは穴の中に身を躍らせた。
滑る生き物を掻き分け前へと進む。
シャーラはどこだ。
見え隠れするシャーラの銀色、頭髪の色だ。ただそこを目指す。
ただひたすらミミズの海を泳ぎ、シャーラを抱えると、下へ下へと引きずり込む凄まじい力に抗う。
ラズールは負けじとシャーラを抱きしめて、空を見上げる。爆発で崩れた天井から、夜空が覗く。
半月が見え隠れしていた。
「ちくしょう、頼む。月の神よ、頼む、アンタの力を貸してくれ!! シャーラを助けてくれ」
(アンタはずっと助けてきたんだろ、このままじゃ死んじまう!)
月の神が聞き届けてくれたのかはわからない。
だが不意に抵抗がなくなり、その隙にラズールはシャーラを抱えなおして、うねり滑るミミズの海を泳ぎ壁際に辿り着く。
何をどうしたかは覚えていない。
ただ急いでミミズの巣穴から這い出したラズールは、シャーラの顔を仰向けにした。
シャーラの瞳は閉じていた。
肌も、唇も白い。息をしていない、鼓動もない。生体の反応は何もなかった。
ラズールは肩を揺さぶる。何度も名前を呼ぶ、ピクリとも動かない身体。息をしていない。
「なあ、シャーラ、シャーラ!! ファリド、いないのか? シャーラって」
喉には、赤い索条痕。まるで血のように皮膚に沈着している。
そして黒い拘束具はない。
どこにも、ない。
――拘束具『黒蛇』は、死ぬまで外れない。その言葉が頭を掠める。
死んだ。だから『黒蛇』が解放した。
「シャーラ、うそだろ……」
シャーラの手を取る、力無い手は反応しない。ぐにゃぐにゃとしてて、重い。
(……嘘だ。うそだ、うそだ、うそだ)
シャーラの頬を何度もこする。赤みが戻らない。
死体を見たことがある、死体はもっと枯れ木のような土色だ。
シャーラはただ眠っているだけのように見える。なのに、血の気は戻らない。
死んだなんて嘘だ。少し、息を止めただけだ、また戻る。
気がつけよ。息を早くしてくれ。
「シャーラ、シャーラ!! 早く息をしろよ、早く、早く、早くっ」
頬を撫でる、手をさする。シャーラの身体はぐにゃぐにゃと動くだけだ。頼りなく皮膚が揺れてゼリーのようだ。
――死んだ。だから『黒蛇』が解放した。
(ちがう、ジャファルが死んだからだ。だから俺も黒蛇から解放された)
そうだろ、シャーラ。
見上げると崩れた天井からのぞく半分よりも欠けた月。
「なあ、シャーラを、シャーラを助けてくれ!! なああああ」
声が震える。バカな、俺が泣いているのか。息ができない、嗚咽がもれる。
みっともなくわなないて、視界が滲んで、息ができなくて喘いで。
「なあ、月の神よ! 助けてくれ、なあ」
シャーラはピクリとも動かない。
再度空を見上げると、流れてきた雲が月を隠そうとする。
「待てよ、待ってくれ!! 行かないでくれ、消えるな、消えるな、消えるなよ!!」
ラズールは、視線を茫洋と彷徨わせる。シャーラの足に絡みつく蔦を摘まむ。
まだ死ぬわけない。まだ四十日じゃないだろ。
「四十日……って」
(いつからだ……)
シャーラが夢を見て魔神に告げられた日から、まだ日はあったはず。
だけど、そこから数えてなのか。
(シャーラが来たのは満月だ)
「シャーラが来てから、明日で……四十……日」
四十日? シャーラが満月の日に現れてから、明日で四十日目だ。
「……うそ、だろ?」
ラズールは呟く。シャーラの身体をそっと持ち上げて横に向かせる。
ラズールはシャーラの服を下ろして、腰の花押を眺める。大輪の立派な薔薇が咲いていた。
「夢、蔦……花……」
花を操り、夢を行き来する誘惑を司る悪魔。
「……悪魔ロシエル(ROSIER)?」
いいや、ちがう。そんな小者じゃない。どいつだ?
(シャーラは、王宮があったと言っていた)
円柱の都、イラムはジンが作らされたもの。
シャーラがいた王宮も、ジンが――魔神が王に命じられて作ったものならば……。
(どこかで聞いた、その話はなんだ?)
悪魔を使役し、壮麗な宮殿を作らせたソロモン王。
その宮殿を作ったのは悪魔――アスモデウス。
別名、魔神アエーシェマ。凶暴、残忍、狡猾の名を冠されるもの。
月はもう見えない。助けは期待できない。
助けなんて――いらない。
必要なのは、助けじゃない。
やつを殺す、倒す。――取り返す。
「出てこいよ、魔神の王、アエーシェマ――!! シャーラは、やらないっ!!」




