52.満天
ラズールに腕を掴まれて外に出る。
腕を掴む力は強いのに、強張って固い表情の横顔は遠い。
どこに行くのだろう。彼なりの叱責だろうか、これからどういう話になるのだろう。
腕から伝わる熱を感じながら、ぼんやりしていたら、外門まで来てしまった。
門を守る警備兵が、シャーラを見て片眼を瞑って笑いかけ口笛を鳴らす。反応に迷っていたら、ラズールが強く肩を抱いてきて、警備兵達が使う小さな通用口に押しやられる。
振り返ると、ラズールが貨幣を握らせているところだった。閉門後は外に出られず、通用口を通るにはお金がいる、そんなことも知らなかった。
「――俺の女だ、構うな」
「わかったって、そう睨むな」
ラズールはずっと無表情だ。瞳は冷え冷えとしていて、怖くもなるけれど、わずかな言葉や動作に心が揺さぶられる。
(……私、本当に好きなんだ)
離れたくないって、常に思ってしまう。
門の外では、ハシムがラズールの黒駱駝のバアルを準備していた。
「報告。ジャファルが逃げたって」
「――わかった。後はなんとかする」
ラズールは表情を変えなかった。
ジャファルはまた来る。ラズールと決着をつけるために、シャーラを利用しに来る。
ラズールはシャーラには何も言わず、バアルの上に引き上げる。
バアルの背に揺られて、夜の砂漠を行く。
ラズールの駱駝は、他の駱駝よりも一回り大きく、体格も立派だ。このバアルのおかげで、夜でも魔物に出会いにくいというのも、ラズールから聞いた。
黒光りする体躯は、いつも精力的で、他の駱駝のようにダニが巣食ってないし、綺麗にしてもらっている。とても気位が高いのだとか。
(そういえば、乗る時も脚を折ってくれたことがない)
騎乗する時に、初心者は、駱駝をしゃがませて乗るものらしい。けれどシャーラはいつもラズールに引き上げられている。
(ラズールは、どうするつもりなの?)
さっきから何も話さない。気配は穏やかだから怖くはないけど、これからの話が怖い。
「上を見てみろ」
俯いていると、ターヴァンを外される。髪の毛が落ちてくる。慌てて髪を押さえ見上げると、ラズールの両手が頭を持ち上げてくる。
仰け反る不自然な姿勢、なのに青い目に見惚れていると、唇に柔らかい感触。下唇を甘噛みされて、キュッとお腹が疼いた。
ラズールが、フッと笑い、顔が離れる。
「ラズール!」
「空、見てみろ」
「……!!」
空は光が溢れ出していた、まるで巨人が水瓶をこぼしてしまい、そこから光の粒子が一面にばらまかれたみたい。
粒子は集まり、広大な光の道を作る。たくさんの光の点が端から端まで光の帯を作り、黒い闇を、青白く染めあげている。まるで光の粒に包まれているかのような、星空。
「これって……星なの?」
「今日は晴れたな。見せられて良かった」
「月のない新月の夜はもっとすごいけどな」とラズールは言う。
シャーラは、半分ほど月の欠けた夜空を見上げる。これよりも、さらに凄い星空はどんなものだろう。
ラズールの話を背中越しに聞く、囁くような声は心地いい。
「――最後だから?」
そして自分の声。普通に聞いたつもりなのに、湿っぽく未練がましい。
頭を小突く拳は全然痛くない。
「アンタは、そんなに俺と離れたいのか」
息を飲む。ラズールにそんなこと訊いてどうするつもりだったのだ、自分は。
ラズールに言われて、離れる決意が揺らいでいる。
黒駱駝は砂を蹴り軽快に進む。この辺りは、障害物がないから走りやすみたいだ。
あまりにも星が多すぎて、なんの星か見分けがつかないシャーラとは違い、ラズールには方角が容易にわかるようだ。
ラズールが一つため息を零す。
答えないシャーラに何かを思ったのか、ラズールは淡々と自分から話し始める。
「――アミナに、憎まれていた話は前にしたな」
ラズールは、振り向こうとしたシャーラを留めて、背を引き寄せ腰を強く抱きしめる。顔を見られたくないのだろう。
シャーラは、彼が話しやすいように力を抜いて寄りかかり、お腹に回された手に、自分の手を重ねる。
「根拠がないわけじゃない」
淡々としていつもと変わりない声。だけど時折震え、挟まれる間が言葉を探している。
話すのが、彼にとっては容易なことじゃないのだと感じられる。
「俺は最初、知りたかった。アミナが本当は助けを求めていたんじゃないかって。調べて調べて、そのうちに助けられなかったことを悔やんでいるうちに――おかしくなった」
ラズールの声が、震えている。シャーラは彼の手を掴んで自分の頬に当てる、ぎゅっと握りしめる、大丈夫だと伝えたくて。
「俺は……アミナを生き返らせようと、ジンを呼び出した」
ジン。シャーラに印をつけたのも、もとはジンという存在だとラズールは言う。
「結局そいつは、ジンなんてものじゃなくて、もっとタチの悪い、魔神で。そいつに願いを持ちかけたら、何かをよこせと言われた」
シャーラは、ギュッとラズールの手を握りしめる。魔神は狡猾だ、いつだって人を陥れるのだ。
――怖い。ラズールがどんな契約をしたのか、何を差し出したのか。
ラズールが、ぐいと肩を引き寄せて、シャーラのそこに顎を乗せる。
「そんな顔をするな、別に命も何も、やっちゃいない。いや……貰ってもらえなかった」
「まさか!」
ラズールを振り返り凝視する。宝石のような何処までも美しく青い瞳が、シャーラの顔を覗き込んでいる。
「当たり。俺は、目ん玉をやるって言った」
「ラズール!!」
自嘲の笑みは、泣きそうな表情だった。いつも無表情なのに、傷ついているのがわかる。
(でも、どうして)
「貰ってもらえなかったったろ。先約済みだったんだ、俺の目は……」
ラズールの声が詰まる。
「すでに、担保になって、たんだ。他の奴が、願いを叶えるために、俺の目を別の魔神に捧げていたと……」
ひどいと思った。けれど声に出せなかったのは、シャーラにはそれが誰か、わかってしまったから。
「アミナが。アイツは俺の目を、魔神への願いの代償にしていた」
シャーラは振り返り、ラズールに抱きつく。抱きしめる。
もういい、なんて言えない。傷ついている、話すたびに、思い出すたびに、この人は傷つくのだ。なのに、話さないともっと壊れてしまう。頭を抱きしめて、何度も何度も背中をさする。
「幸い、アミナは死んで、その願いは果たされなかったから、俺の目は担保のままだ」
「ラズール」
「ジャファルと俺がアンタを手にするよう選ばれた理由な、わかるんだ。俺もジャファルも、イラムにはジンを操る宝がわんさかあるって執着してた。不思議な力を手に入れたくて、おかしくなってた」
ごめん、とラズールはシャーラを見下ろして謝る。
「――結局お互いイラムには行けなくて、俺は諦めて、ようやく正気に戻った矢先だった、アンタが現れたのは」
ラズールはシャーラを身体から離して、見つめる。
「悪かったな。アンタを最初冷たくしたのは、そんな理由だ」
「そんなの、いい……」
慰めなんて言えない、涙だけが溢れてくる。
「そんな目をするな」
「でも!」
「アンタの目、涙は透明なんだな……」
眉を寄せたシャーラに、ラズールはふっと笑う。
「最初、涙も銀色かと思ってた」
その唇が、シャーラの涙をすくう。
「アンタの目が一番綺麗だ」
そんな切なそうな目で、見つめないで。
「いいこともある。俺の目はその見たことのない魔神が所有権を主張しているせいで、俺自体に、他のジンが手を出せないらしい」
そんな何でもない風に、微笑まないで。
「だから俺がアンタに取り付く魔神の生贄になることはない、安心しろ」
バアルを向かわせたのは、ティナム遺跡だった。
どうしてかと問うと、ラズールは声を低くして、呼びかけた。シャーラにではなく、別の人物――ファリドに。
「ファリド。お前、あの遺跡の文字、読めたんだろ」
ファリドの口ごもる気配にシャーラも悟る。
たぶんラズールの推測は、当たっているのだろう。遺跡での出来事は、ラズールに話してある。そこから思い当たったのだろうか。
「あのな、シャーラ。アンタは奴隷じゃない。花の印をつける魔神の話が遺書にある。それからするとアンタは姫様か、いいところのお嬢さんだ。それに、労働していた手じゃない」
「でも!」
「それに、シャーラ。俺が何か覚えてるか?」
「――ラズール? ラズールは、ラズールだけど、何かというと……」
彼はコツンとシャーラの背に額を預ける。
「ほら、アンタはそういうとこがある。抜けてて、ほっとけない」
「……ごめんなさい」
「そうじゃなくて。俺は盗賊だ、世間じゃ悪党だ。だからアンタが何者だろうと、気にしないし……」
そこで、ラズールは言葉を一つ区切る。
「――アンタの呪いを解いたら、ここに戻ってこようぜ。一緒に暮らそう」
答えられない。何も言えない。頷いていいの? そんなこと許されるの?
「答えは今じゃなくていい。ほら、ファリド、なんか言いたいだろ、出てこい」
ファリドが出てこようとするから、頭がクラクラして、シャーラは彼に意識を渡した。
「一つ聞きたい」
突然の強い口調が、目の前の華奢な体から発せられる。ラズールは、警戒するわけではないが、ややガッカリ感を覚えながら返事をする。
心持ち抱き寄せていた腕の力を抜きかけて、いやいやシャーラの体だから落ちたら大変だと思い直す。駱駝は揺れるし、かなりの高さなのだ、下手に落ちると骨折する。
無言のラズールに肯定ととったのか、ファリドは妙に気合を込めて質問を続ける。
「お前、シャーラを何でイラムに行かすんだ? お前がお宝を欲しいだけじゃないのか」
ラズールは嘆息して、シャーラの頭に手の平を乗せ軽く叩く。
「なんだよ」
柔らかい髪の感触はシャーラなのに、可愛くない。
だがその華奢な体躯を引き寄せて、頭に顎を乗せる。
どうも――構いたくなるのはなぜだ。シャーラの身体だから、なのか。
「離せよ」、「やめろよ」と暴れる体。やっぱり可愛げはない。そのままで口を開く。
「シャーラが行きたがってるからだ。約束だか何だかを果たしてやりゃ、記憶が戻るかもしれねえし。宝はいらねえよ。分不相応の力は身を滅ぼす。ましてや魔神は狡猾で、命を奪うからな」
「じゃあ、シャーラが囚われてもいいのか!?」
「何らかのリスクがあるのはわかる。けど、具体的なことはわからないだろ。お前が聞きたいのはこの言葉だろ。――シャーラは、絶対に守る、誓う」
ファリドは黙る、そして突然低く唸る。
「どうした?」
「もういい、もういいよ、わかったよ」
「俺にはわからねえ。何がだ」
「お前が。お前が、それでいいならいい。遺跡に連れてけよ」




