4.銀髪の少女
少年を見送り、ラズールは片膝を立てて地面に座った。
背を向けて横たわっているのは女。
現れたときのまま裸だが、布が掛けられている。
だが前で両手を縛られているため、自分ではむき出しの肌を隠せない。肩の動きが不規則だ、呼吸が早いのは緊張しているのか。
ハシムに話しかけたと言っていたが、彼からはその内容はあえて聞かなかった。先入観を持たないためと、ハシムと自分へ話した内容の違いを後で確認するため。
暗闇の中で女の銀の髪が闇夜の月のように光源を作り出している。
ラズールは、冷静に観察する。
顔は、悪くなかった。頬は柔らかな曲線を描いていて、幼いというより童顔なのだろう。細身で、くびれた腰は艶かしくスタイルがよい部類に入る。尻は小ぶりだが、腰の細さによって強調されて扇情的だ。小さくもないが、大きすぎず手の平に収まる胸は多くの男に好まれやすい。
つまり、どこかの後宮にいてもおかしくはない容姿だ。
ラズールは立ち上がり、灯りを持ち女の前に座り直す。
女は目を見開いて、驚いたように顔を見つめた後、口を開いては躊躇い、結局閉ざす。
その唇はまだ乾いていない。髪は艷やかで、皮膚も乾いてない、脱水の兆候はない。
(砂漠を逃げてきたわけじゃない。どこか屋内から……来た)
腕を縛ったときに見た指先は滑らかで、労働をしていたようにも見えない。
(やっぱり鳥籠の中で暮らしていたか……)
「俺はラズール。アンタを、砂漠で拾った」
女は、水銀のようなトロリとした濃さを持つ瞳を呆然と見開いて、ラズール、と呟く。その頼りなげでいながら、妙な艶めかしさにラズールは胸騒ぎを覚える。
「覚えてないか」
女は子どものように素直に首を縦に振る。その瞳に宿るのは困惑と怯え。それを見て、頭の中で警鐘がなる。
(この女は、嘘をついたり、騙ろうとしていない)
それは、かなりまずい。
「俺が聞きたいのは、アンタの名前とアンタの主人――どこの王のものかだ」
「……スルタン?」
反応はかなり悪かった。女は目を見開いたまま、呆然としているばかり。その様子に嫌な予感は増していく。
予言者に噛み付いたのは王の後宮の女だとわかったから。その根拠は、はっきりしている。背部側にまわり、女の腰に目をやれば、見間違いようもなくしっかりと肌に刻まれた印が、目に飛び込んでくる。
「アンタの腰に彫られた花押。それは、どこかの王のもの。アンタが王の女だという印だ」
目の前の女の背中から腰にかけての優美な曲線には、鮮やかな紅い蕾模様が描かれている。この国には珍しい雪花石膏のように白い肌に刻まれた、腰の婉曲さえ活かしているかのように美しい花の蕾で模した署名――花押。
「俺は王の花押に詳しいわけじゃない。だからお前が、どこの誰のものなのか判らない」
肌に所有印を刻むなんて悪趣味の極みだが、確実な主張だ。
「あの……ラズール?」
そう困ったように躊躇いがちに名を呼ばれ、心が揺れる。つい聞き入りそうになる柔らかい声。
「……あの、その」
「なんだ」
先程からの女の反応で大体予想していた。でも、当たってほしくはなかった。いや、ここまでとは思っていなかった。
「私……ってだれ?」
自分を守るように必死で縛られた腕を引き寄せて警戒を見せ、悲壮な顔をしている。強張った顔で、こちらを頼ることを躊躇っている。演じているわけじゃない、嘘じゃないとわかった。
「名前も、どこにいたのかも、わからない。……ラズールは、私の事――」
「俺はアンタとは初対面だ」
「そう……」
気落ちしているようにも見えるが、そう答えられることを予測していたとも見える。
(頭はまともらしいな)
予想をしていたからか、自分が割に冷静なことに気がつく。
「状況を整理しよう。覚えていることを話してくれ」
女は、首をゆるゆると動かす。不思議なことに、混乱もしていないし、泣きそうでもない。
だがその目は、諦めを宿していた。散々考えて、それでもだめだったという顔だ。
「覚えていないのか?」
「ごめんなさい……」
全く覚えていないというのは、どういうことか? 思考と記憶は連結している。では思考ができないということか? ラズールには記憶がない状態が想像つかない。
「全て、靄がかかったようで。たまに何かぼんやりとした光景を思い出すのだけど、全然わからない」
「思い出す光景とは?」
詰問口調になるラズールの視線から逃げるように、女は顔を俯けて辿々しく言葉を紡ぐ。
「……本当に、朧げなんだけど」
強く握りしめる拳、緊張を堪えている。
「水の中のよう。私は何かからたぶん逃げて……私は……っ……」
女が不意に怯えたような顔になり、息を大きく飲む。手が震えだす。ひきつけのように喉を鳴らす、瞳孔が開く。ラズールは冷静に立ち上がり女の両肩を持ち、目を覗き込む。
「おい!」
「や、……いやっ」
(……恐怖か。直前に、何かされたか?)
途端に吐き気がこみ上げてくる。
それから頭が沸騰するように熱を持ち、ラズールは怒りを鎮める。
目の前の状況に集中して、目に力を込めて、女の肩を揺さぶる。
「戻ってこい! ここには誰もいない。お前を誰も傷つけない」
「いやあ、っやめて……おねがいっ……」
「何も、しやしない。いいか、息を吐け、――ゆっくり、息を吐いてみろ」
「……殺さないで!!」
「――殺さない。だから息をしろ」
声を抑えて目を覗き込むと、次第に女の瞳に焦点が結ばれる。
「……い、き?」
「そうだ、まずゆっくり息を吐く、吐ききったら自然に息は吸える。落ち着けばできる」
頼りなげな顔。
素直に息をしようとする様子に、急激にラズールの中の女に対する警戒心が薄れる。
「……わ、たし」
「そうだ、お前を傷つけない。約束する」
ラズールは腰から短剣を抜いて、女の両手首を結ぶ縄を切る。
「水、飲むか?」
微かに頷く仕草。
ラズールは腰に下げた水袋を取り外し、口を縛る紐を外すと一口先に自分が飲む。女の頭を持ってやり「見ていたか? 毒は入ってない」と証明して、袋を女の口に当てる。
唇を開き、水を含む遠慮がちな動作を見て、改めて考える。
この女は、嘘を言っていない。なのに、もう一方では頭がそれを受け入れない。
――疑え。信じるな。嘘をついているかもしれない。
(簡単に信じるな)
本能がこの女は嘘を言っていないと告げる。なのに理性が疑えと訴える。
――違う、この女は、嘘をついていない。
相反する感情。
判断ができなくなる、まだ頭を冷やす必要があるようだった。
怒りがとけない。
それが誰に対する怒りなのかは、自分の中でも判別できなかった。
今後、明日からはネトコンに間に合わせるためだいたい毎晩21:30に更新になります。
7月22日で完結します。よろしくお願いします!ゆっくり読んでくださいね~。