48.好きと変化
ジャスミンの診療所を出た所で、ラズールがシャーラを振り返る。
その顔を見て、シャーラは胸を押さえた。
夕方の強い残照、逆光で顔がよく見えない。シャーラよりも背も高く体格もいいから、彼が目の前に立つと陽の光も遮り、全てから守ってくれるのじゃないかと錯覚してしまう。
「どうした、シャーラ」
言いようのない気持ちを説明できなくて、無言で答える。
「疲れたか? 市場に連れて行こうかと思ったが、やめとくか……」
最後の方は、独り言のよう。それが少し残念そうな響きに感じたのは気のせいだろうか。
「疲れてはないの、何もしてないもの」
ラズールに連れていかれた街の診療所、ジャスミンは帝国の出身でラズールの昔馴染みだという。
胸もお尻もボリュームのある身体、背も高くて、男性はこういう体が好きなのじゃないかと思う。
「……もしかして。ジャスミンのこと、気にしてるのか?」
ぽつり、と訊かれて、胸の中にモヤモヤと重いものが立ち込める。肯定したくないけど、そうだって言ってやりたいような、でも少し違うような。
「アイツとは何もないぞ。……少し休むか? そうだ、アンタが好きなデーツを買いに行くか? それとも、菓子屋に行くか? 好きな菓子を選べばいい」
首を横に振る。顔が見られない。少し一人になりたい。
「あのね……ここで、待ってる」
「シャーラ?」
「その、デーツとか……嬉しいけど、少し休んでる」
ラズールが何かを言いかけるのを、微笑みで返す。
ちゃんと笑えていたかどうかは、自分の心が落ち着かなくて、頼りなくてわからない。
でも、心配そうな顔をなんとかしたい。
「中にまだ二人がいるから、一緒に中で待ってる」
顔を上げて、服の裾を掴んでちょっと笑いかける。先ほどよりはちゃんと笑えていたと思う。
ラズールは何かを言いかけて、けれど軽くかがんで、シャーラの額に唇を寄せた。
「ラズール!」
「買ってくる。ちゃんと待ってろよ」
シャーラのヴェールを直して、ラズールはシャーラの体を建物の中に押しやって、背を向ける。
一度だけ振り向く姿、見送った背中は人ごみに紛れてすぐに消えた。
――アンタ、優しくなったよ。
ジャスミンの言葉に、なんだか嬉しさよりも胸が痛い。
(私も、わかっていたもの)
――青い目は、優しく緩められていた。
最初の頃には、冷えきった眼差ししか向けられなかった。でも、今はあんなに優しい。
――それが、どうしてか、少し落ち込んで、胸が痛くなった。
ジャスミンの診療所は、かなり混んでいた。
診察が終わった自分が居ては邪魔になるだろう。シャーラは、建物を出て周囲を見渡し、角へと足を進める。
庇の下で待つことにした。
まだ日差しの強い午後は人通りが少ない。もう少し肌を隠そうかとヴェールに触れようとして、シャーラは手を下ろした。
(ラズールが直してくれたから)
そんな些細なことが嬉しいのに。なのに、少し気分が落ち込んでいる。
(――優しくされると、落ち着かなくなるのはどうして?)
これが、ずっと続いていいわけがないと、思ってしまう。
――美人に裸で頼まれたら、死んでも断らねぇわ。
トゥリーの言葉が胸を刺す。
自分は何者で、どうしてここにいるのか。ラズールを利用していいのか?
……そんなことしたくないのに。
地面を見下ろす。
干からびた大地だけれど、砂漠じゃない、人が生きていける場所。
けれど、ここにこうしていられるのは、ラズールのおかげだ。自分じゃ何もできない。
警戒をしていなかったことに気がついたのは、目の前に人が立ったから。
見たことがない顔に、ニヤリと笑いかけられ、相手の擦り切れたぼろ布を纏う乱れた服装に、ようやく警戒心が湧いた。
踵を返そうとして、目の前に現れた別の男性にぶつかりそうになり、シャーラは悲鳴をあげた。
(ジャファル!)
けれど、手の平で悲鳴は塞がれて、誰にも届かなかった。




