40.つながる思い
ラズールは、思いを込めるかのようにシャーラの両椀に手に置き引き剥がす。
怪我の場所に触れてしまったのか、小さく上がる悲鳴は少年じゃない、慌てて手を離す。
目を瞬くシャーラは呆然としていて、もう襲ってくる様子はない。
それどころか、首を傾げて、下敷きにしたラズールを見て小さくない裏返った声で叫ぶ。
「ら、ラズール!?」
「――戻ったのか」
ラズールは息を大きく吐く。脱力して、肩を落とす。
「悪かった、痛かっただろう」
「わた、し……?」
ラズールは、その眦に滲んでいる雫に指を伸ばし、拭う。
泣きながら、襲ってくるなよ。
シャーラじゃない奴も、どうやら複雑らしい。
ラズールは、自分が悪いような気分に襲われて、けれどシャーラが戻ったことにホッとする。
そして当たり前だが、シャーラは自分の格好を見下ろし、強張った顔で千切れた寝間着を引き寄せ胸元を隠す。
「ここ……は、ラズールの部屋?」
「あぁ」
頷くが夜半、寝台の上に男女二人というこの状況。
何もしていないが、女にとっちゃ目が覚めたらこの状況じゃ、怖がらない方がおかしい。
――なんとか傷つかないような説明をして、トラウマにならないように、部屋に帰してやらなきゃいけないだろう。
「……何もしていない。俺じゃ、ない」
こんな状況下では言い訳じみている、と思ったが、シャーラは震える肩を腕で抱きしめながら、しっかりと頷いた。
「……そう、だと思う」
その目は答えを知っていた。
シャーラは怖がっていなかった。
怯えて、叫んだり泣いたりしてもおかしくないのに、それよりもしっかりとした口ぶりで、何が起こっているのか納得しようとしている。
(この落ち着きは……知っているのか?)
シャーラに取り付く誰かが、引き起こしたことだと。
「私が……自分でここに来たのでしょう?」
「――あれは、誰だ。迷い込んだジンか?」
目は戸惑いを浮かべていた。ラズールは目を合わせて覗き込み、言葉を重ねる。
「話してくれ。あれは、アンタじゃない」
「どうして……そう思うの」
そう答えるのは、別の誰かがいるということをすでに白状しているようなものだが、まだ口を開くには躊躇いがある。
「アンタらしくない。アンタの行動じゃない、それに」
丸みを帯びた目は、いつもまっすぐに見つめてくる。話を聞こうと真剣な顔で、人の話を受け入れる。
憎しみや恨みを見せることがない素直な瞳。こんなに澄んだ瞳は、シャーラの時にしか見えない。
「アンタとアイツが同じとは思えない、それだけだ」
「――あの子、ファリド、というの」
ぽつり、と口を開く。
「頭の中で声が聞こえて、……ただ実際に外に出てきたのは浴場が最初で」
「いつからだ? アイツも記憶がないのか?」
「街にいる時に初めて声が聞こえて。少し混乱もしていたみたいだけど。多分私よりファリドのほうが、色々知っているみたい」
「何も話さない、か?」
シャーラは首を横に振った。
「訊けば教えてくれるかもしれないけれど」
「――訊くのが怖いか」
シャーラの浮かない顔に思う。確かに、シャーラは質問してくることが少ない。
「どうしてアンタは、俺にも訊いてこないんだ? 知るのが怖いのか?」
シャーラの瞳の色は、黒く沈んで見えた。
「訊いていいのかわからないの。でも……知ることが怖いのかもしれない」
「俺に訊きたいことは?」
シャーラが見つめ返してくる。
でも口は開かない。
ラズールは気がついて、寝台から降りて椅子にかけてあった服を、シャーラの肩にかける。
「気が利かなくて悪い」
それを引き寄せ、胸の前で合わせるシャーラ。その仕草に胸が騒ぐ。まるで、その服に包まれようとしているみたいだ。
嫌じゃないのだろう、頼られていると思っていいのか。なら――踏み込んでも、いいのか。
「ファリドは、何をしたの?」
「俺に襲いかかって……」
最初は武器で傷つけようとした。
そのあと、別の意味で襲いかかって来た、とは言えない。
口を濁したが、不自然すぎた。じゃあなぜシャーラの服が破けているのか、その説明ができていない。
だが、シャーラはそれを聞くなり顔をあげて、必死な顔を向けてきた。
「――ごめんなさい! 怪我は?」
「謝る必要は無い。防いだから怪我はしていない、むしろアンタの足を悪化させたと思う」
足を挟み込んだ。怪我を悪化させたのは確実だ。
あとで、足を再度見なきゃな、と頭の隅に書き留める。
「本気で狙ってなかった。多分、警告だろう」
「警告?」
「帝国に近づくなって」
長くなりそうな話に、ラズールは立ち上がりランプに火を入れる。わずかな動作だけでシャーラが緊張を高めるのを感じて悪く思う。
シャーラはもぞもぞと寝台に座り直す。
ラズールは少し距離を取り、その前に椅子を引き寄せ座る。
「俺は、帝国の元軍人だ。帝国に貸しはあるが、借りはない。だからアンタを売ることもない。……それじゃ信用できないか?」
「ファリドは、帝国に恨みがあるみたい」
「帝国は、三百年程度しか歴史がない、イラムはもっと昔だ」
ファリドとやらは、イラムから来たのではないのか。それともシャーラとファリドは、出自が違うのか。
「――これ、私が、ファリドがやったの?」
「え、っ、あぁ。そう、だ」
帝国の話をしていたら、いきなりまずい話になった。
気まずい思いで頷く。シャーラは千切れた寝間着を見下ろし、再度ラズールの服で前を隠しながら、俯いている。
「ファリドは、何がしたかったのかしら」
(……それは、俺が聞きたい)
でもシャーラは俺に聞いている、なんだか説明義務を感じる。
「えっと、その」
……襲って欲しかった、まさかな。
(が、妊婦が死んでいた、まさかとは思うが……妊娠させることを、誰かが企てているのか)
「ファリドは何か言っていた?」
じっと見つめてくる目に、息が上がる。言える……わけがない。
(シャーラが望んでいる、とかな)
シャーラの自分への好意は、あるだろう。
それぐらいはわかる。だが、肉体関係を持ちたいと望んでいるかというと、多分違う。
そこにはファリドの何らかの意図を感じる。
シャーラが目を伏せる、肩が落ちる。
「私が、ファリドにさせたのかもしれない」
「シャーラ、あのな」
「私が。ラズールに……!」
シャーラの潤んだ目がランプに照らされる。
ちきしょう、なんであんな位置に俺は灯りをおいたのか、扇情的すぎるだろ。
息を飲む。
しっかりしろと、自分に言い聞かせる。
手を伸ばしたらお終いだ。歯止めがきかない。
欲望を止められなくなる一線が男にはある。
「シャーラ、もういい」
肩を掴む。ああ触れたらやばいだろ、そう思うのに。
「でも、ラズールに!!」
(それ以上、言うなよ!)
「シャーラっ」
「――押し付けようと、したのかも。ラズール、面倒見がいいから!」
「……は?」
「責任、押し付けようとしたのでしょ、罪悪感とか持たせるために……ちがう?」
シャーラが首を傾げる。その肩の艶かしさとか白さとか、動くたびに胸の谷間が見えて煽られる。
(は? 何だ?)
「違った?」
「いや……」
(えっと、何の?)
珍しく思考が停止している。シャーラの発言を訂正したいが、えっと?
「……私が、望んだから」
シャーラが唇を震わせる。
「身勝手なのも、ラズールに迷惑をかけているのもわかってる」
(ちょっと待て、どういう話だ?)
「でもたぶん、ラズールに。私が……」
「シャーラ!」
思わず名を呼んだ、制止しようとしたはずなのに。
シャーラが顔を上げて、それが逆効果だった。
眉を寄せて、泣きそうな顔で、シャーラが喉を震わせて言うから。
「私が、惹かれているから。ラズールを……好」
全部言わせなかった。
先に言わせたら駄目だと思った理由はわからない、たぶん男としてのプライドとか、ちっぽけなもの。
「ラ……」
突然に奪った唇、少ししょっぱいのはシャーラの涙。
目が驚愕でより大きく開かれる。
最初はただ重ねて、それから少しだけ唇を離して、目を合わせて苦笑する。
シャーラの顔が赤くなる、それを見て眼差しを閉じて角度を変えて喰むようにより深く。
シャーラが喉を鳴らす。
肩に置いた手を背中に回して引き寄せると、素直に体が寄せられる。
「もう、黙っていい」
合間に早口で囁き、薄く開いた唇を再度重ね合わせる。
(――ああ、もういいさ)
踊らされてやる。誰かの手の平にのってやる。
唇を何度も貪れば、シャーラの喉が上下して、身が仰け反る。
「アンタが、好きだ」
見開いたシャーラの目から、大粒の涙が溢れる。
指で頬の涙を拭い撫でる。耳に唇を近づけて、囁く。
「もういい、全部、俺が負うから。――アンタの安全も、命も、この先何があっても」
(起こりうる危険も、待ち受ける運命も、全て――引き受ける)
だから、その企みに乗ってやる。貰えと差し出されたのなら、貰う。
(だが、返しはしない。もう――俺のものだ)




