3.預言者
――大砂漠の隊商都市バスラー。
網の目のように道が入り組む市場の最奥にある天幕の中に、ラズールはいた。
暗色の幾つもの布で仕切られた部屋の中は、一切の自然光がない。卓上のオイルランプの炎が揺らぎ、向かいに座る漆黒のヴェールを被る女を照らす。
高価な乳香の匂いが鼻を掠める。
「――予言は当たったんだろ、苦情は聞かないよ」
嗄れた声は、あからさまに拒絶を示した。ラズールは擦り切れてもとの模様がわからなくなった絨毯の上に胡座を組んで、背中のダマスク織の紅いクッションに背を預ける。
「アンタに言いたいのは苦情じゃない。質問だ。――この話、ジャファルに漏らしたのは何故だ?」
女――予言者バシャマは、沈黙で答える。
厳しい話し方をしているが、わざとだろう。案外若いかもしれないな、とラズールは思う。バシャマは有能だが、一切自分の素性に繋がる情報を漏らさない。
「茶はどうだい」
「貰おう」
彫りが施された硝子の小さな器を指で摘んで、薄荷茶を飲み干す。
爽やかな香りが鼻を抜けるが、同時に舌が麻痺するほどの甘みが口内に広がる。砂糖の堆積が底に見えるほど甘い茶はこの地方では日常的に飲まれていて、苦手なラズールのほうが珍しいのだ。
茶を飲み始めてからが交渉開始、茶が嫌いだとは言うようでは、この世界では何の話もできない。
「これも商売さ。金を頂いたら、私は予言するだけ。誰でも平等に扱うさ」
「なるほど」
「宝はアンタの手に入ったようだね。盗られないことだ」
「……」
「疑っているのかい?」
「女に、不自由はしてねぇ」
「おや、女だったのかい」
とぼけるバシャマに器を差し出し茶のおかわりを貰う。歓待の茶をたくさん飲むのがよい交渉相手なのだから、あと数杯は飲まないといけないと、内心ゲンナリする。
給仕にと伸ばされた女の腕を見る。オリーブ色の肌、手の甲は滑らかで、シミも皺もない。やはり見せかけほど歳を経てない。気配は掴みどころがなく、こいつは何だと、違和感が時折よぎる。だが次の瞬間には、奇妙な感覚は消え失せる。
昨年、偶然見つけた予言者だが、実に胡散臭い。だが遺物の出現を予言する力は確実で、重宝してきた。
――これまでは。
「何故ジャファルと競わせた?」
「わからないのかい。宝は競り合ってこそ手に入れる価値がある」
「アレは、何だ?」
「至宝だよ。大事にしな」
その簡潔な答え方は、これで話が終わりだと言っているようなもの。
最後の茶を飲み干して、床に器を置く。
「面倒事はごめんだ。宝であっても災いになるなら、容赦なく捨てるからな」
飲み干した硝子の器に、金貨を一枚、弾き入れて立ち上がり、ラズールは冷たく言い放った。
バスラーを出たのは、地面と太陽の両方が上下からの熱を弱め始めた午後。
沈む太陽より先に進み西に下ること二時間。その頃には太陽は橙色の帯を残して地平線に沈み、影が落ちた砂上の黒と、燃えるような橙と蒼の空とで三層を作り、幻想的な風景を目の前に描いていた。
この辺りは昼夜の寒暖差で収縮と膨張を繰り返し脆くなった岩石が崩れ砂となり、鋭利な岩がごろごろ転がる岩石砂漠となっている。
バアルは、その砂質に合わせて蹄鉄をはめてある。これがサラサラの砂地だと柔らかい足裏の駱駝のほうが歩かせやすいのだが、こいつは砂地でも器用に歩くから便利だ。
地平線上の三つの岩石を目印に、一つの岩山に近づくとバアルを降りて手綱を引き、そのまま岩石の狭間に入っていく。入り口の影に立つ少年に手綱を預けて、傾斜に従い下っていくと次第に肌に触れる外気がひんやりしてくる。
左右あちこちの枝分かれした道から覗いた顔を、目視だけで確認する。変わりはない、報告を聞くまでもない、異常はない。
ラズールは、通路を迷うことなく奥まで進んで、紗幕を持ち上げ一つの空間に入った。
穴倉は自然光がない。部屋の入り口付近には皿のオイル上に小さな炎が揺らいでいるだけ。
その弱い炎は、朧に中央に横たわる塊を照らしている。そして闇の中から見張りの少年が立ち上がる。
「ご苦労だったな」
「目覚めたのは昼。大人しくしてたよ。人間みたいだ。暴れもしてない。話かけてきたけど、俺は何も言ってない」
ラズールは頷いて、懐から一枚の銀貨を渡そうとしたが、ふと動きを止めた。手を伸ばさず眉を寄せて手をギュッと握る少年の様子を捉えて、黙って待つ。そして少年は一つ息を吐いて、顔をバッとあげた。
「あのさ。――俺も、そろそろ狩りに連れてってよ」
ラズールは少年を見下ろす。
温もりとは無縁の、冷ややかとさえ言われる眼差しで黙って見つめると、大抵の者が物怖じし、目を逸らす。だが、少年ハシムは堪えて訴えるようにじっと見上げてくる。
まだ体が小さいのは栄養が足りていないから。だが来年は十一歳になる、頭の回転も早いし、何よりも己の役目をわかっている。
「――いいだろう。次の狩りに同行しろ、ただし見張り役だ」
声に出さない代わりに、拳を握って歓声を殺す少年の肩を通路へ押しやる。
「トゥリーのところへ行って、女が何を話したか伝えろ」
「うん、あっ。見張り代は貰うよ」
目をくりっと回して手の平を上にし、差し出してくる。
「たしかにな」
交渉に長けているのはいいことなのだろう。声にだけ苦笑を滲ませ銀貨を落としてやると、一、二度跳ねるように駆け出したが、すぐに自制するように足を止めて、今度はやや早足で去っていった。