38.触れては離れる
「あの、ラズール?」
「見せろ」
長椅子のシャーラの前に片膝をついて跪き、まず足の手当をする。
灯りを持って来させて、包帯で添え木を固定する。捻挫で骨折はしていないと思うが、一人で歩かせるのは無理かもしれない。
――じゃあどうするのか、それを考えるのは、保留にした。
そして腕は炎症を鎮める湿布をする。
ロープを掴んでいた掌は酷い、皮が剥けている。
なぜシャーラは何も言わなかった? ひどい傷で、かなり痛いはずなのに。
軟膏を塗ると、微かに顔をしかめたシャーラは、やはり何も言わない。
丁寧に包帯を巻いて、しばらく何も持つなと言い放つ。
「慣れているのね」
「簡単な手当ぐらい自分たちでできる」
「みんなは……」
「知らせは出した。しばらく待機だ」
シャーラはまだ聞きたそうにしていたが、ラズールは気づかないふりをした。
そして、顎に手をかける。横に顔を向けると、こめかみに擦り傷ができていた。
「もう自分で、できるから」
シャーラが困ったように俯く。その頬が上気して桃のように赤くなっていく。
「緊張しなくていい」
「そうじゃなくて。あまり、見ないで……」
「見なきゃ手当ができない」
シャーラは諦めたのか黙る。けれど更に耳の方まで赤くなっていた、まるでプラムのようだ。
怪我をしていないはずのシャーラの耳朶に触れそうになった手を、ラズールは意思で押さえつける。
たぶん、シャーラに意識されている。
どこまでの好意かはわからないけれど、シャーラは混乱しているように見える。
じゃあ、自分は何だ? 今何を思う?
「……ラズールからもらったヴェール、落してしまったの、ごめんなさい」
「ああ」
「せっかくもらったのに、ごめんなさい」
「あれは、アンタには暗くて似合わなかったな」
今、こうして品がありながらも、くびれた腰や胸を盛り上げる体型を強調する衣装に身を包むと、控えめな性格なのに色気が十分に放たれている。
「わたしは、あのヴェール好きよ。あれだけじゃなくて、もらった服も全部」
「……変わってるな」
黒ずくめの衣装は、引退した長老達が着るようなもの。若い女が好むものじゃない。
けれど、ラズールの返答で彼女が気落ちしているように見えるのは、気の所為だろうか。
「この衣装のほうが、似合っている」
「……ありがとう」
ふと髪を一房手に取り、唇に当てると、シャーラの顔が真っ赤になる。
何となく触れたくなった、したくなった、それだけのこと。
「シャーラ?」
「……いいえ。何でも、ない」
「悪い」
ラズールは何もなかったかのように、髪から手を離し軟膏を指先に取る。
白い肌に浮かび上がる痛々しい赤。腫れている傷を指先でなぞる。
瞼を閉じたシャーラがまつげを震わせる。赤くなった顎先と、こめかみにも薬を塗る。
シャーラはこの地方には珍しい肌の白さだ。銀の髪と銀の瞳から色素の薄い北方の民族ではないかと推測するが、わからない。
そのまま手を滑らせて、顎から細い首へと触れる。
シャーラの首に巻きついた黒紐。弾力があり柔らかい、ざらつく表面は蛇の鱗のよう。しかも、継ぎ目がない。
切る試みはしていない。
この生きている代物が、防衛反応でシャーラを絞め始めたら困るから。
――遺物だ。
そして帝国の研究施設にもない。唯一無二のジャファルの玩具。
ラズールの小刀もそうだが、遺物の中には、命を持つかのような物がある。これらは持ち主と離れている場合、動く心配はないが……こんなものは窮屈で怖いはずだ。
「怖いだろ……こんな、もの」
「ラズール?」
「俺はジャファルがこいつを持っているのを知っていた。なのにそのままにした。そしてアンタがこんな目にあった」
シャーラは黙った後、口を閉じて笑みの形をつくる。そしてラズールの指に手を添える。
「ラズールのせいじゃない、だから責任を感じないで」
「怖いなら、怖いって言ってくれ。いいや、言えないなら、せめて――泣いてもいいのに」
嫌だと、本音で、言って欲しい。助けてと。
どうして縋りつかない?
シャーラはラズールの言葉に、「ありがとう」と言う。
「怖かった、恐ろしかった。それは本当、でも今は――そうでもないの」
ラズールは忌々しげに、シャーラの首輪のような物を見つめる。
まるでジャファルに、シャーラを所有物だと主張されているようだ。
怒りと腹立ちがこみ上げてくる。
それを自覚して、この感情はなんだとギョッとする。
(……馬鹿な。シャーラは、もともと王のものだってのに)
「ラズール、訊いてもいい?」
シャーラの遠慮がちな声に、意識をこちら側に戻す。ああ、と返事をしたが、少し動揺が表れていたかもしれない。
「私は自分の腰の模様が見えないのだけど。ラズールは蕾に見えるって言ってたでしょ? 今日ダリラ達は花が咲いているって」
「花……? っ悪ぃ、シャーラ見るぞ!」
「え、それは……」
ラズールの切羽詰まる様子に、シャーラが驚きで身を竦める。
返事を待つ前に、シャーラの腰を抱いて、回転させあっさり後ろ向きに座らせる。
薄布の腰巻きを捲くろうとして、伸ばした指先がさまよう。
(……迷っている場合じゃない)
「ラズール?」
「すぐ済む」
緊急時だと誰かに言い訳をしながら、素早く布をめくり、目の前の問題だけに目を向ける。
事実、その花押を目にして、それだけが目に焼き付く。
腹が、頭が怒りで熱くなる。
――何で。俺は、気がつかなかった。
「ラ、ラズール?」
「……ちくしょう」
ラズールはシャーラの腰を見て、言葉を失っていた。出てきたのは悪態。不安げにシャーラが振り返る。
「――明日、俺は帝国に行ってくる」
顔も上げずに告げたラズールは、一度目を閉じて、開けた後、苦しげに絞り出す。
「アンタの主は、王じゃない」
「どういうこと?」
「――腰の模様は、まだ途中だったんだ。花が咲いたんだ、大輪の花が」
ラズールは震える声で続ける。
「変化していくようなのは人の仕業じゃない――呪いだ。ジンの、所有の証だったんだ」
「ジン……?」
「いや、ジンの中でも力のあるモノ、魔神だ。模様が完成した時、アンタは魔神のものになる。イラムに呼ばれているのはそのせいだ」
「ラズール。思い出したことがあるの。誰かが私を呼んでいたの――アルヴァーンと」
ラズールは口を閉ざして、大輪の花を見る。
アルヴァーン――四十。
「そう、描いてあるのね」
「花の中に飾り文字で、そう読もうと思えば――」
花と四十の飾り文字、どういうことだ?
「アンタをそう呼んでいたのは誰だ?」
「わからないの。でも私は――それから逃げて、来た。夢の中で逃げていたの」
シャーラが不安げな顔をしている。瞳の銀色が深くなり、黒色に見える。閉じた唇が震えている。
シャーラを見て、ラズールは尖らせた視線を和らげる。
「帝国の保管庫の資料を、もう一度確認してみる」
「……帝国って」
「あぁ」
シャーラの困惑の表情に、おそらく何も知らないだろうと推測する。
「この大砂漠の外にある帝国はシスールの都から、早けりゃ飛空艇で二日。帝国には遺物の保管庫がある。だからアンタはここで待っててくれ」
「……」
(なんで、そんな顔をしているんだ)
「この館の警備は、保証する」
シャーラの顔は曇ったまま。それに落ち着かない感情に支配される。
このままだと自分の口は止まらない。ラズールは立ち上がり、長椅子から距離を取る。
「怖がらせて悪かった。夕飯まで少し眠ったほうがいい」
「あの、ラズール!」
シャーラがラズールの服の裾を掴む。ラズールは振り返り、言葉を呑む。
(まただ……)
見上げてくるシャーラの瞳。それに言葉を失う。何を考えていたのか、わからなくなる。
(振り払え!!)
――なのに、動けないのだ。
迷ううちにシャーラの方で、手を離す。
掌に巻いた包帯は血が滲んでいた。動かすなと言ったのに、動かすから――。
でも、手を掴んでやめさせることもできない。
抱き寄せて安心させようとしない自分に苛立ちがこみ上げ、けれどどうしても動けない。
「……気をつけて、行ってきてね」
「っ」
手の平を握りしめ、彼女に伸ばしたくなった手を堪える。
「七日もかからない」
背を向ければ自然にシャーラの視線を振り払える。あえて顔は見ない。必死で瞬き一つしない眼差しが脳裏にありありと浮かぶ。
抱きしめたかったとか。
腕の中に閉じ込めて、安心させてやりたかったとか。
――そんなことが、あるわけない。
シャーラは、ラズールを見送って拳を握りしめる。
(……アルヴァーン)
四十と、あの男は、シャーラを呼んだ。
腰にまで数字が掘られていたら、まず間違いはないだろう。
ジャファルがつけた拘束具は怖くない。
怖いのは――あの夢の中の男に掴まること。
ラズールの言う通り、魔神なのだろうか。
確かに人には見えなかった、美しく力に溢れていた。
“猶予をやろう”と言っていた。
あの夢が本当ならば、シャーラの数だけ、猶予が与えられているということだろうか。
それは、自分の数――四十。
四十の数だけ猶予、ということは。
(日にち……かしら)
何を教えろと言われたのだろうか、言えれば許してくれるのだろうか。
ラズールには言えない。言えば気にする、行くのをためらうかもしれない。
――ラズールに、行ってほしくないと思ってしまった。
だから引き止めたらいけない。
ラズールはシャーラが触れた瞬間、顔を強張らせた。
触るなと思ったのだろう。
ラズールが、シャーラの頬に、こめかみに、顎に触れるから――髪に触れるから。
(どうして、あんなことをしたの)
シャーラは緊張して、そして何か期待をしてしまうのだ。
期待するのはいけない、ただ助けてくれるだけで十分。
いいや助けて貰うことさえも、――いいのか、わからないのに。




