37.図書室での出来事
シャーラと別れたラズールは、図書室で積み上げた資料を前に、険しい顔をしていた。
資料の劣化を防ぐために、窓は小さく織物で採光を最小限にしている部屋は、木工細工に金の塗装のされた棚、ガラスの透かし彫りのランプなど、資料の閲覧よりも部屋の装飾の鑑賞のほうが目的にされているかのよう。
それなり蔵書量は誇っているのだが、ラズールの求める情報はなかった。
(ジャファルの玩具の資料は、やはりない)
シャーラの首に施された拘束具。
ジャファル率いる盗賊団の『黒蛇』の名は、そこに由来する。ジャファルお気に入りのその玩具は、数年前に門から現れた死体が持っていたものだ。
ラズールの投擲に使う小刀と同じで、付加作用の機序は不明だ。
ラズールは拳を握り締めた。自分の迂闊さに吐き気がする。そのせいで、シャーラを取り返しのつかない目に合わせた。
(シャーラは門から現れた。シャーラが望むイラムは、門の先にあるのか?)
イラム行きは、可能であればという条件付きの話だった。だが遺物の出処――ジャファルの拘束具の外す方法がそこにあるなら……。
(いっそ、イラムにいるジンに願えば――)
イラムには、ジンを操る宝があるという。そこでジンに『黒蛇』を外すことを願えば――。
ラズールの胸に苦さがこみ上げる。
――ジンとの取引。
胸に痛みが呼び起こされる、二度とジンの類とは関わるまいと決めたのに。
(だが、イラムに行って手段がなければ、それも仕方がない)
ラズールは、遺物の調査資料を思い出す。
(まずは、イラムへの行き方だ)
帝国にいたときに、イラムの探索に関わり、ティナム遺跡も調べた。だが今回のような仕掛けも作動せず、結果、価値なしと報告をあげた。
(シャーラのせいか?)
彼女がいたから仕掛けが動き出した。
やはり彼女はイラムの関係者で、遺跡はその道に通じているのだろうか。
(もう一度、調べ直す必要があるな)
帝国に行き、資料の洗い出しを徹底的にしたほうがいい。窓の外を眺めてそう思った時、声がかけられて、シャーラが姿を現した。
光源を求めて窓枠を背に資料を読んでいたラズールは、目を凝らす。
くびれた腰の巻き布は、淡い紫色で金刺繍が施されている。細身の体のラインに沿った薄い長上衣は、手首まで覆われているが、胸元は大きく開いている。
長い髪はそのまま腰まで垂らして、形のいい額を出して、後ろで細い金の鎖で留めている。
化粧をされて、大きな目がより目立つ。不安げに潤んだ目。何度も瞬きをするから睫毛が揺れている。
――綺麗だ。
呟いた声は掠れていた。
シャーラ、と手をのばしかけると俯いていた顔があがる。伏せ目がちな眼差しがこちらを見た時、ラズールは息を飲んだ。
「アミナ……」
長い髪から覗く白い顔がこちらを見据える。勝気な眼差し、紅く細い唇がこちらを糾弾するように動く。
「……ラズール?」
訝しげな声にラズールは我に返り、飛び退るように、シャーラから距離を取っていた。棒立ちになるシャーラが、自分の腕を抱きしめて唇を震わせている。
「ラズール、私、こんなにしてもらって。どう返したらいいの」
「――気にしなくていい」
シャーラの顔を見ることができない。視線を振り切り、背を向ける。
「でも」
「お前の面倒を見ると最初に決めた。その約束を一度反故にした、悪かった」
「けど、それは……私が、あなたに浴場でおかしなことをしたから」
ラズールは口を開きかけて、だが何も言わずにシャーラの横をすり抜けるように、戸口へと歩き出す。
「待って!」
今は駄目だ、あの目が、あの唇が、責め立てる。あの声が、聞こえる。
(早く離れなくては)
後ろに気配を感じたと同時に、それを勢いよく振り払っていた。
(しまった……!)
シャーラはラズールに向かい手を伸ばしていただけ、触れてもいない。
なのにラズールの腕は彼女を払い退けるようにしていた。
バランスを崩すシャーラが、よろけて痛そうに顔を顰める。堪えようとして、不自然に足が崩れる。
「っ、おい!」
腕を取り、完全に転ぶのを防いだが、その途端にシャーラが小さく呻くのを耳が捉える。
「見せろっ」
シャーラを引き寄せて片腕で拘束する。
驚いて、逃れようとするから腰を掴む。
追いかけてきたくせに肝心な時は逃げる。苛立ちと焦りで、丁寧にしていられない。肩から薄布を引き剥がす。
青黒いあざが残る上腕、シャーラは迷うように口を開いて、首を横に振る。
「なんでもない」
「足もか」
「今のは、少しよろけただけで……」
迷わず腰を持ち上げて、両腕に抱きかかえて運ぶ。小さな悲鳴は無視だ。
「いつやった」
窓際の長椅子に、横たえる。サンダルを外して先ほどよろめいた足首を持つと悲鳴はないものの、息を飲んだ気配が感じ取れた。
薄暗い中でも、足首が腫れあがり、熱を持っているのがわかる。
「遺跡の中で転んだの」
ラズールが、シャーラに目線を向けると、必死で首を横に振る。
「自分で真横に転ぶ奴はいない。押されでもしない限り。――ジャファルか、それとも別のやつか」
「……私が、もっと鈍くなければ」
「どうして庇う! ジャファルはアンタに危害を加えたんだぞ!」
ラズールは唐突に悟る。
(こいつは、誰でも彼でも庇うんだ)
第三者のせいにはしない、自分のせいにして、黙っている。
(ならば、あれも)
シャーラを追い出す原因になった不自然な振る舞いを思い出す。
時々一人で話をしているのは、浮遊しているジンと話しているのかと思っていた。相手をすると、ジンは力を持ってしまうから、無視していた。
取り憑かれている感じはないが、庇っているのか?
「ダリラたちは何をしてたんだ、手当を命じたのに」
「――もちろん承知しております」
ラズールが慌てて顔をあげると、戸口で光の差さない暗闇に紛れるように、ダリラとスレイカの非難する眼差しに見つめられていた。
「……いたのか……」
「ええ、最初から」
「あとは、お任せいたします、ラズール様」
「こちらがお薬です」
「あ、あぁ?」
「顎とこめかみにもお使いください。――ところで。誤解されますよ」
ラズールが見返すと、シャーラは際どいところまで衣装を降ろされて、胸は半分近くが覗いている。
「これは違っ」
ラズールは誤解を解くべく声をあげ、シャーラは慌てて体を起こす。だがラズールに足を支えられていたから、うまく起き上がれなかった。
小さな悲鳴にラズールが振り返ると、シャーラはあられもない格好で、長椅子に埋もれている。
「シャーラ!?」
「私、ごめんなさいっ」
シャーラを起こすべきか、この状況の誤解を解くべきか、一瞬判断が遅れる。それはラズールにしては珍しいこと。
――なぜ思考が止まったのか。
赤い顔をしたシャーラのラズールを見上げた目が縋るようで、視線を奪われたから。
必死で布地を引き寄せ、起き上がろうと困っている仕草が、可愛かったからだなんて。
――ラズール自身も信じられなかった。
呆然として反論する間も無く小さな軟膏壺を渡されて、シャーラの体勢を直す頃には、部屋には二人きりになっていた。




