35.砂漠の邸宅
シャーラがラズールに連れていかれたのは、黒駱駝を一時間ほど走らせたところ。
少しずつ岩石が減り木々が増えてきて、さらに進むと高い桃色の壁に囲まれたオアシスの前に来た。壁の向こうから椰子の木が覗いている。
アーチ状の街の入口には、警備兵が立っていてラズールの顔を見ると一人は敬礼し、一人は慌てたように街へと走っていく。
「ラズール様、お疲れ様です」
「――親父は?」
「シラズの町へ商談に。しばらくは戻られません」
シャーラはラズールの胸に顔を埋めて、彼の上着を頭から被って、顔も髪も隠していた。声しか聞こえないけれど、ラズールは敬意を示されている。一体どういうことだろう?
ラズールはそれからも、行く先々で丁寧な対応をされている。
広場を抜けて、突き当たりの一際大きな館の前に立つ。金で塗装された立派な門、塀は繊細な石膏細工が施されている。
随分と静かで落ち着いた雰囲気の邸宅だ。
駱駝から降りて門を抜け、塀の中に入るが、まだ顔を俯き気味にして歩く。ラズールに顔を上げていいと言われ、そうした途端シャーラは歓声を漏らした。
「綺麗……」
広い中庭の中央には、水を滔々と湛えた長方形の水盤がある。青みがかかった水面は目前の建物を映し、水鏡となっていた。
最奥に座する建物は平屋建てで、広大な敷地に圧倒的な存在感を示している。壁面は青と桃色で星と花を描くモザイク模様から上に上がるにつれて白いレースのような繊細な石膏細工へと移り変わり、屋根は美しい彫刻が施された木工細工だ。
ラズールに促されて建物に入ると、入口の左右に立っている美しい女性が水差しを傾けてくる。手を差し出すと薔薇の水をかけられる。また別の女性が床に薔薇の花びらを巻く。
屋内は柱があるだけで壁がなく、外へと吹き抜けになっている。床には水路があり、邸宅内の池へと繋がり、池の水面には淡桃色の蓮の花が咲きみだれ、爽やかな風に漂っている。
とても砂漠の中にあるとは思えないほどの、贅沢な水の使い方だ。
「ラズール様、おかえりなさいませ」
薄い黒のヴェールを被った女性が、深く頭を下げてくる。
「久しぶりだ、サルマ」
「マスルール様は留守でございますが」
「いい。とりあえず彼女を綺麗にしてくれ。俺のせいで遺跡の罠に落ちたんだ。毒性はないと思うが、ミミズに触れた。かぶれや怪我がないか慎重に見て、手当を頼む」
サルマと呼ばれた女性は、そこでようやくシャーラに目を向ける。彼女はとても上品な雰囲気だが、同時に厳しそうでもある。感情を宿さない目でシャーラを一瞥し、こちらへと踵を返す。
「あの、ラズール?」
「何か用があれば、サルマに頼めばいい」
そこで、ラズールは言葉を切り、シャーラをまじまじと見る。そうか、と呟いた。
「俺は言葉が足りないのか」
「え」
「ここは、親父の家だ。俺は母親の連れ子だから血の繋がりはないが、害を加えられることはないから、安心していい」
シャーラは大きく目を見開いて、返事に窮する。
「絡まってる」
困惑の表情を読まれたみたいで、ラズールが苦笑して手を伸ばして、シャーラの髪に触れる。その動作に驚き固まるけれど、同時に身じろぎしないように気をつける。
(だって、もし動いたら)
――ラズールはやめてしまうかもしれない。
シャーラは自分の思いに気がついて、また固まってしまう。
そんなシャーラの動揺には気がついていないのか、ラズールは髪を指で梳いて、離す。
「あ、ありがとう」
顔がまともに見られない。視線を逸らせば、サルマが無表情でこちらを見ていた。
ラズールはシャーラの背中を叩く。そして通路の反対側に行ってしまう。
「ラズール、あの! あなたの上着を……」
「持ってろよ」
ラズールが背を向けたまま、片手をあげる。その様子は少しだけくつろいでいるよう。背を見送り、それからサルマを振り返る。シャーラはただじっと見つめて待っていたサルマに、お願いしますと頭を下げた。
連れて行かれたのは浴室だった。
ラズールの上着を脱ぐのを躊躇い、しっかり抱き抱えるように着込んでいたシャーラに、「洗って、お返ししますから」と淡々と告げるサルマ。その顔を見返して、シャーラは頭を再度下げる。
(わかって、くれている)
自分がこれを大事にしていることを。
「ありがとうございます、私はシャーラです」
「おやめください」
だがピシャリと注意を受けてしまう。
「ラズール様との関係は知りませんが、客人であることには変わりありません。ですから私どもには、気安くなさらないように」
「……はい」
迫力に押され、すごすごと服を脱ごうとすると、それさえも制止される。ただ腕を広げて脱がせてもらうのを待つ、恥ずかしくて顔を伏せてしまう。サルマは裸になったシャーラの腰の模様を見ているはずだが、何も言わない。
だがサルマはシャーラの身体を一瞥して、近くの女性に耳打ちをする。サルマは幾人か連れてひっそりと下がり、ほんのわずかな間に、浴室には二人の女性だけが残っていた。
「ダリラです、お嬢様」
「スレイカです、精一杯磨かせていただきます」
サルマよりも二人は若い。控えめながら親しみやすい笑みを浮かべてくれて、シャーラはホッとした。
けれど、二人の「磨かせていただきます」の意味をシャーラは理解していなかった。