33.鼓動
穴からラズールの顔が覗いて、その手が伸ばされたときシャーラは迷わず手を伸ばした。
ラズールの腕が掴む。
「ちゃんと掴まってろよ」
少しずつ引き上げられていく。ラズールは天井からロープを伸ばしているようだった。
ラズールによって穿たれた天井の穴からは夜空が覗き、彼の肩越しに月が覗いていた。
「悪い、遅くなって。怖い思いをさせたな」
「いいえ……いいえ」
シャーラは月を見上げて、目を伏せる。また、守ってもらったのだ。
シャーラは彼の肩を支えにして、ラズールが天井にあけた穴から平面の屋根へと這い上がる。
月明かりに照らされてシャーラが建物の屋根にへたり込んでいると、すぐにラズールが上がってくる。
鋭く睨みつけるように見定める目。
「怪我は?」
シャーラは、ふるふると首を横に振って否定する。
「見るぞ」
無造作に彼の手が伸びて、腰の帯に触れようとするから慌てて押さえる。
「大丈夫、なんともないの。自分で見られるから!」
「シャーラ!」
ラズールは険しい目で、ざっと検分するようにシャーラに視線をめぐらす。
その眼差しに欲望はない。だから、何もされない、大丈夫だと自分に言いきかせる。
(ラズールは、怖くない)
隠すようにしていた腕を側に下ろす。それでも恥ずかしくて、顔がまともに見られない。
「痛みは? ひりついたり、熱かったりはないか? 口には、体内に入ってないか?」
「……たぶん」
「ミミズに噛まれていたら炎症をおこす。粘液を早く落とさないと、皮膚がかぶれる」
シャーラの顔にラズールが手を添えてくる。その優しい手つきに振り仰ぐと、視線が交わる。
「ジャファルに……やられたのか?」
不意にラズールが問いかけて言葉を途切らし、シャーラのこめかみの傷をなぞり、首に巻きついた黒い紐に触れる。
その手が壊れ物に触れるように優しい。
眼差しが後悔を滲ませて案じていてくれて、シャーラは泣かないように、瞬きをしないように堪える。
「平気……」
そう言って距離を取ると、ラズールが僅かに逡巡した後、シャーラの腰へと手を伸ばす。
「これはなんだ?」
ラズールが手にしたのは、蔦の切れ端だった。
シャーラのズボンの端にあちこちついているのは、蔦と葉だ。
それを見てシャーラは即座に顔を強張らせた。
――それは夢で何度も見る、シャーラを捉えようとする蔦に似ていた。
(ミミズじゃない……)
絡みついていたのは、ミミズに見えたのは幻だったのか。
それはシャーラを捕まえに来た、あの男のものなのか。
「シャーラ?」
首を振る、何度も何度も振って、打ち払う。
大丈夫だ、大丈夫だ。彼は――ここには、いない。
「平気、驚いただけ」
そう、だって、驚かないわけがない。
ジャファルに脅されて、穴に落ちて、ミミズに触れて――死体を見て。
ラズールの手が頬にふれる。なぜ、撫でられているの。
「泣いて……るのか」
彼がそう言って気がつく。どうして?
体が今更震えだす、足がガクガクする。
ヒクッと痙攣のように喉が鳴り、膝が足を支えきれず立っていることができなくて、屈み込む。突然だった、突然、笑いの様なものが込み上げてくる。
「ふ……う……ふっ、ふ……あは……あはは」
ラズールの驚いた顔、けれど止めることができない。
「こわ、こわかった……!こわかった」
喉が痙攣して笑いが漏れて、涙も同時にこみ上げてくる。
「なんだか、もう、ぜんぜん……わからな……私」
あれはなんだったの。
たくさんの出来事に、ついていけない。気持ちがわからない。
ぺたんとお尻を地面につけて座り込む。お腹が痙攣する、笑いも涙も止まらない。
「シャーラ」
「へいき……へいきよ、たすかったんだもの。……でも」
――怖かった。
涙を拭く手がベトベトで、頬に触れるのを躊躇う。そして声が、体が震えて、喉が変に痙攣して、笑いがこみ上げ止まらない。
ラズールが腕を伸ばしかける。けれど彼は口元をぐっと引き締めて、拳を握りしめる。
何かを堪える様な顔をして一度、顔を伏せる。
そしてラズールは唐突に何も言わず、シャーラを両腕で抱きしめた。
びっくりしたシャーラの笑いが、ピタリと収まる。
「えっ、ラズ……ル?」
「このまま……」
喉の奥から絞り出す様な苦しげな声。
彼の胸に、頭が抱え込まれる。強い力で、少し痛いほど。
伝わってくる彼の鼓動は、力強いが、とても速い。
「悪い、俺が悪かった」
「ラズール?」
「もう、手を離さない。――怖い目に、合わせない」
ぎゅうと抱きしめてくる腕、痛ましげな声は強い想いを伝えてくる。
「悪かった、遅くなって。次は必ず、守るから」
シャーラは困惑して、それでもまだ震える手を堪えるために彼の胸に手を当てる。
それからこみ上げてくる感情の望むままに、ラズールの胸に顔を押しつけて、何度も深く息を吸った。
温かさと聞こえる鼓動と、彼の力強さ、全てに包まれる。
それを実感するために、彼の胸元を掴んで、その感触を確かめて――目を瞑った。




