32.月の問いかけ
モザイク柄の床に敷かれた絨毯の上で、頭を上げる。男が顎をつかみ問いかける。
“――は、何だ?”
(何を、聞かれているの?)
わからない。何を言われているのか、何を聞かれているのか。
わかりません。
口がそう動いた。
“わからぬか、ならばお前は私に――は言えぬか”
冷えた口調。けれど悲しい響きだ。
わかりませんが、お姉さまならば、お伝えできたはずでしょうに。
“ならば。お前にも猶予をやろう。お前の数だけ”
美しい男が腰の花を撫でて、ふいに突き飛ばすように手を離す。
慌てて足を翻して走り出す、月夜に照らされた宮殿を、回廊を走り抜ける。男が追ってくる、ただし余裕のある足取りだ。
追いつけることがわかっているからだ。籠の鳥は逃げられない、逃げても籠の中だ。
羽はもがれている。印がつけられているから。どこに逃げても、捕まえられてしまう。
“私に――を教えてみせろ、アルヴァーン”
「シャーラ!! 口を塞げ、絶対開けるな」
上から呼ぶ声は、本当に近かった。
かろうじて目だけを上に向けると、青い瞳だけが、暗闇に浮かびあがる。
(ラズール!!)
幻ではなかった。ラズールの青い目がシャーラを捉えて、手を伸ばす。
『ちきしょ、舐めんな』
ファリドが壁に掴まりなんとか身体を伸ばしていた。ラズールの腕がシャーラの手首を掴む。
「シャーラ」
「……ラズール」
ラズールがロープを片手で操り上る。
少しずつ出口が近くなる、穴も閉まりかけて、その隙間が迫る。
細い間隙を二人で抜けて、ラズールに続いてシャーラの半身が出口を抜けたところで、不意に、シャーラの足を何かが掴む。
「きゃああ」
シャーラの手がラズールの腕から抜ける。
「シャーラ!?」
穴の上からラズールの叫ぶ声。
「ラズール!? だめ、こないで」
もう間に合わない。穴は――人が通れる隙間じゃない。
ぐいっと左足がつかまれて、腰にまで誰かがシャーラの上に上ってくる。
男だ、それも頑丈そうな。
容赦なくシャーラをまるで縄のようにグイグイと掴んで、踏んで足がかりにする。
「逃げ…ん……な、おんな」
「あ……」
穴に落ちた先程のジャファルの仲間だ。
「俺は死なねえ」
ロープを掴んで激しくもみ合うが、男がシャーラの手を掴んで容赦なくロープからひきはがす。
一旦はロープからはがされた手を再度掴みなおしたシャーラだが、滑り落とされて掌に灼熱のような痛みを覚える。
そのすきに男は、シャーラを踏み台にして穴に上る。
――男の頭が、消える。
閉まる出口に男は必死で潜り込む、けれど胴体が抜けない。
男の足先がシャーラの肩を頭を蹴飛ばす。
シャーラは片手で頭をかばい、なんとかロープに掴まっていた。
「――ぬけない、ぬけない! おい、なんとかしてくれっ」
男の叫びが上で響く、焦った声は本気だろう。
けれど、シャーラにはどうすることもできない。
押して上げることも間に合わず、容赦なく扉の石壁が閉じた。
――男を挟んだまま、生肉を潰したような鈍い音を伴って。
『シャーラ、見るな!』
ファリドの静止が頭の中で響くが、シャーラは目を外すことができなかった。
だらり、と男の胴体がシャーラの上で宙吊りになっている。彼はロープを持っていないのに。
ほんのわずかな時間だった。シャーラは息を詰めて、ただ動かない男を見上げていた。
「あ……」
シャーラは呻く、その声だけが響く。
暗闇に一人取り残されて、ロープだけ離さないように掴まっている。
「……ラズール」
この先にラズールがいるのに。お願い、会わせて。
「……ラズール、ラズール!!」
助けて欲しい。やっぱり行かないで。お願い、置いて行かないで。
今度こそちゃんと掴まるから。
「……シャーラ。今、助ける」
その声は幻聴ではなかった。
ラズールが、仕掛けを作動させたのだろうか。
音がゆっくりして、先ほどと同じように僅かずつ穴の出口が開く。
先程の挟まれた男の身体はシャーラの横をすり抜けて落ちていった。音はしなかった。




