30.しかけ
シャーラを押さえつける腕は容赦がない。
まだ息ができるのは、ジャファルに殺す気がないのだろう。
喉が圧迫されて、咳でもなく嘔吐くようにウッウッと塞がれた喉で、空気を取り込むように鳴らすと、背後では笑う声が響く。
「ほら、苦しいだろ? それとも気持ちいいのか?」
(遊ばれて、いる……)
涙で視界がぼやける。目の前にはわからない“文字”があるだけ。
ぐいぐいとむき出しの肌が石壁に押し付けられて、肌をこする痛みが強くなる、全てわざとだろう。
目の前の“文字”は、わからない。けれど、シャーラは口を開いた。
「ちがう……」
「あん?」
「ここは、違う。ここじゃない」
「嘘を言うな!」
思わせぶりなほど広い空間、目の前の壁は装飾された半円状のアーチが掘られ“文字”が刻まれ、更に壁の中央から床まで伸びる溝。
まるでここが隠された扉であるかのような造りだ。何かをすれば、この溝が開いて扉になるのではないか、そんな風に思わされるけれど。
(……ここからは、月が見えない)
連れてこられたここは、月がどこにも見えなかった。だからこの部屋は“違う”のだ。
「押さえとけ」
左右の男が、それぞれシャーラの手首を抑えて掌を壁に押し当てる。
「指の何本目まで無くなるか、試そうぜ、なあ?」
「違う、聞いて……」
ジャファルの曲刀が指に触れる。
「何て書いてある?」
「わからない、わからないけれど!」
シャーラは、暴れて掌を外そうともがく。
右手の指が文字をひっかくと、ぼろりと壁が剥がれる。そして、壁に体重をかけていた左手が押さえつける腕ごと、がくんと沈む。
――ガガガ――ガン、ガン、ガツン。
ここではないどこかで、音が響いた。
そして何か大きなものを、引きずるような、こするような音がする。
それは終わることがなく、近づいてくる。まるで何かの仕掛けが作動したかのように。
「お前、何をした? ああ?」
シャーラは違うと否定する、何もしていない。
ジャファルの目は変わらず、いつでも殺してやると訴えている。
ズ、ズズズズズ――。
細かな振動が地面から伝わってきて、シャーラやジャファルを揺らす。
それがどんどん大きな揺れになる。
「はははっ! やっぱりな、仕掛けだっ、ここに扉が――」
壁の隙間が僅かに動く。
ジャファルがそれを見て笑いだし、シャーラは反対に振り返った先で、床の溝も広がるのを見た。
「危ない……!」
小さく叫んだ瞬間だった、床がいきなり空虚な口をポカリと開いたのだ。
嬌声が悲鳴に変わった瞬間だった。
次々に男が飲み込まれ、斜面と化した床から滑り落ちていく。
残っていた男も、われさきにと仲間を突き飛ばし逃げ出す。
壁の溝は開かない、多分偽物だ。反対に、床の溝が、下へと観音開きのように開いていく。
「落とし穴だ! 罠だ、逃げろ!!」
シャーラは思わず後ずさるが、後ろには壁しかない。
ジャファルは、忌々しげにシャーラを睨んで、「女」と叫んで、シャーラの腕を掴む。
「嫌――」
「クソが!」
ジャファルは迷わなかった。
シャーラを穴に突き飛ばし、その上に飛び乗ってシャーラを足蹴にして、穴を飛び越えた。
彼の足はあと一歩届かず、穴に落ちかけるが縁に掴まり、そこからよじ登っていった。
(落ちる……!)
一方でシャーラは、一瞬の浮遊感と直後の引き寄せられる重力で、奥底へと引っ張り寄せられる。
『シャーラ!』
ファリドが叫んで、シャーラの代わりに手を伸ばす。指が壁に触れるが、滑りそのまま落ちる。
指が、石壁を掻く。そしてつなぎ目にひっかかる。
『ちくしょ、ちくしょうっ』
シャーラの意識のままで、ファリドがシャーラの腕を操る。
なんとか右手だけで壁に捕まる。
彼はもう片方の左手を伸ばして壁を掴むが、その直後にボロリと壁がこぼれて、反動でシャーラの体は下に落ちる。
「きゃっ」
『ちくしょう、壁が脆すぎる』
「落ちたらどうなるの? 先程落ちた人たちは?」
『シャーラ見るな!』
その動揺に満ちた声に、顔を動かして思わず下を見てしまう。
――最初は何があるかわからなかった。ただ、暗い地面の底が動いている様に見えた。
「な……に?」
穴の底が蠢いている、何かの気配がある。
それは明らかに生き物の気配。うねりを上げて、黒い波が見える。
「ねえ。ファリド、何がいるの……?」
よく見えない。見えないけれど、何かがいる。
掴んでいる壁のくぼみは小さく、このままでは落ちてしまう。
登れない、落ちるのは時間の問題。欠片を摘む指先が痺れて、ジリジリと外れそうになる。
ジャファルの姿はもう見えない、逃げたのだろうか。
一番の脅威は去ったけれど、相変わらず危機的な状況だ。
ボロリ、と壁がこぼれて、下へとずり落ちる。
慌てて伸ばした爪が石壁を掴む、その繰り返しだ。
爪は赤黒く染まり血と土が混じり合っていて、じんじんとした痛みだけが頭に伝わる。
シャーラがまた下を覗き込むと、次第に黒いうねりの正体が見えてくる。
「これって……蛇? それとも……」
『ミミズだ……下は、大ミミズの巣だよ!』
ファリドの答えに、シャーラも悲鳴を堪える。
細長い何かがうごめいている。もはや、足先まで届きそうだ。チロチロと何かが触れる。
シャーラは足先を持ち上げて、足場を探すが、つっかかりに足が触れた途端に、そこが崩れてずるずるとまた落ちる。
「いやあ!」
埋まった膝まで何かがうごめいてぬめる感触に包まれる。けれど足がつかない。
ゾワゾワする、必死で壁に捕まっているけれど、もう限界だろう。
「――シャーラ!! どこだ?」
その時だった。天井から声がふるように響いてきてシャーラの胸を震わせた。
(ラズール!! まさか……)
「シャーラ!!」
「ラズール……」
声とともにラズールの姿が、穴の淵に覗いた。




