26.砂漠の像
『お願い。……イラムに』
――駄目、死なないで、お願い。
『ねえ、イラムに行ってね。お願いよ』
不意に背後から黒い闇が迫る。巻きついて闇の中に引きずりこもうとする。
けれどいつもと違うのが、闇が消えないこと。しっかりとシャーラに巻き付いて拘束している。
「いやっ! 放してっっ!!」
***
――自分の叫び声で目をさます。
心臓が煩く高鳴り、背中を汗が伝い落ちる。シャーラは起き上がり、額の汗を手の甲で拭う。
日が沈んで星がでている、出発の時間だ。夢の残滓が纏わりつく。
迫る闇の感触に身震いする。記憶を振り払い、忘れようとする。……怖い。これ以上は、考えたくない。
シャーラは岩陰から這い出て、空の星を見上げた。指示の通り星を探し、それを目印に歩き始める。
***
休憩を挟みながら、ずっと歩き続けると低木が増え始める。
やがて建造物が月光に照らされて、巨大な影絵のように、存在感を伴い現れた。
角柱の門は崩れて左右の長さは異なっている。シャーラはその柱を撫でる、黒ずんだ石は風化して、模様が何を示しているのか理解できない。
門には、左右に伸びる崩れた外壁の残骸がある。門を通り列柱廊を進むと、大岩壁を掘りだして作った建物が現れる。
八本の柱も、三角形の屋根も、洞窟のようにぽっかり口を開く入口への階段も全て彫られたもの。
当然、建物の全容はわからない。さらに入口付近は崩れた瓦礫が散乱している。
(ここが……オアシス?)
どうも違うような気がするけれど、中で休めそうだ。
『待て、待てよ、シャーラ!』
(ファリド。起きたの? よかった……ここで休めそうよ)
ファリドは、常に存在を示すわけではない。時々寝ているのだろうか?
出てきてくれてよかった。一人だったら、耐えられなかっただろう。
『そうじゃない! 警戒もせずに入るな! 夜だぞ。何がいるかわからないだろう』
(何がいるの?)
途端に、ぐっと詰まり、低く抑えた声。
『それは……』
(トゥリーが地図に示してくれたんだもの、安全なんじゃないかしら?)
『わからないだろ、お前は砂漠に捨てられたのだぞ!』
(そう、だけど)
地図というが、本当はオアシスと星の位置しか示していない。
深読みすると、信じていいのか、わからなくなる。
――入口の瓦礫は、石像が壊された残骸だ。
顔や手足が石屑の中に見え隠れして、台座だけが残っている。
丁度、頭部が入口を塞ぐように転がっていて、シャーラは顔の砂を払う。
男性の顔だ。見開かれた眼は前を見据えていてなんの感情も宿していないが、穏やかな表情に見える。
『崩れた石像は砂を被っていない。それに、入口に砂も堆積していない』
ファリドの指摘にシャーラもしゃがんで、通路を見る。
入口は開いていて、砂が散乱している。その上にはたくさんの足跡。
『誰かが来たんだ。しかも、一人や二人じゃない。旅人が休息のために寄ったならば、石像を壊す必要はない。そんな労力を使わないだろう』
(じゃあ誰が? なんのために?)
『魔物だ。きっと魔物がここを襲ったんだ』
ファリドの恐ろしげな声にシャーラは入口で足を止める。石造りの通路は、ひんやりとした空気を伝えてくる。
(魔物ってどんな姿なの? 私は見たことがないから、わからないわ)
『見たら食われている!』
(でもジンならば助けてくれるかも)
『ジンなど余計にタチが悪い! 馬鹿、馬鹿者っ』
ファリドの怯え方は尋常じゃない、シャーラが訝しむとファリドは怒る。
『ジンなんて二度と言うな!』
(わかった。なら入口付近で夜を明かしましょう。すぐに外に逃げられるように)
その提案に一応納得したのか、渋々とファリドは黙る。シャーラは、
もう一度像の元に帰り、膝をついて像の額に唇を寄せる。
『何をしてるんだ?』
(私、知っている気がして。加護を与えてくださいって……)
『何の像だ?』
シャーラは、わからないわ、と首を横に振った。
それでもこの像は、シャーラに優しい眼差しを向けてくれているように思えたのだ。