20.ファリド
シャーラは、ラズールのことを考える。
今は、ラズールは浴場に行っている。
浴場は社交場であり情報収集の場だ。曜日により男性専用、女性専用になるらしい。シャーラも女性専用の日に行くか、と訊かれた。
背中に模様があるが、相応のお金を払えば浴場を貸切りにできるらしい。
……でも、辞退した。
(そんな贅沢なこと……できない)
今でさえ、こんなにお世話になっているのに。
『何で遠慮する。浴場くらい堂々と行け!』
声が意見を述べてくる。
(贅沢は合わない気がするの。私は、やっぱり後宮のお姫様じゃないみたい)
『さっぱりするだろ。汗を流して、柘榴のシャーベットを食べて! お前は女なんだぞ』
シャーラは微笑みを浮かべた。
(ありがとう。でも、あとで水をもらうわ。部屋で水浴をするから)
『浴場が贅沢? もっと贅沢なことを望めばいい、あの男に貢がせろ!』
(あなたは王様?)
『その……そういうわけじゃ』
悪態をつくが、憎めないのだ。シャーラを心配して照れ隠しに悪い言葉を使う。そんな風に思ってしまうのだ。
『――ファリドだ』
改めて、耳を澄ます。
『いつまでたっても名を訊かないから!』
(ファリド……教えてくれてありがとう)
『普通訊くだろう!』
(名前があるのね。よかった……)
しみじみ言うと、突然黙ってしまう。気を遣わせてしまったのかもしれない。
(あなたも自分の名前を忘れたのじゃなくて、よかったと思ったの)
それに自分とは別の人だと確信できてよかった。名前を教えてくれたことも嬉しいし。
『別に……そんなの。少し思い出したんだ』
(あなたも記憶がないの?)
『今は、曖昧なだけだ! 忘れてるわけじゃない……たぶん』
(どうしてかしら?)
『どうしてここに、お前の中にいるのか。何か大事な用があったはずなのに、急がなきゃいけないのに――でもそんな気がするだけで――』
同情が湧いてくる。不安げな声に、彼は自分より年下の、まだ成人していない少年のような幼さを感じた。
『だから! お前は、他人の心配をしてる場合じゃないだろ!』
口は悪いけど、こうやって指摘して助けてもくれる。
『聞いているのか? アイツだよ、あの男! 信用するなって言っているだろう』
(どうして?)
『アイツが持っているの、見たんだ……』
事情を話すことに口が重い彼が、初めて理由らしきことを言う。驚いて繕い物の手を止めて、会話に集中する。
『あの男の腰にあるだろ?』
シャーラは記憶を辿る。
ラズールは、いつも大きくて長い上衣を羽織っているから見えなかった。何かあっただろうか。
『だから何回も、あの男に触れただろう! 抱かれていただろう!』
「抱か……って!! 人聞きの悪いこと言わないで!」
まるで、何か関係をもっているみたい。そんなこと全然ないのに。
顔が熱くなる、確かに駱駝に乗っていた時は、距離が近かった。けれどあの時だけ、抱かれたことなんてない。
左手を頬にあてて、熱くなったそれに驚く。手で仰いで慌てて熱を冷ます。
『――あの男に惚れるな。アイツは信用できない』
惚れる、云々に、シャーラは肩を落として苦笑した。そんなことあるわけがない。記憶がなくて、自分が何者かもわからないのに。
(…人を好きになることなんて、できるわけがない)
でも、ファリドがラズールを頑なに信頼できないと言い続けるのは、どうして?
『あの男、腰に短剣があるだろう』
ズボンは帯を幾重にも巻いて留める形式。その帯の間に、確かに柄らしきものを、無造作に差してあるのを見たことがある。
『お前の縄を、それで切っただろう』
(よく覚えてるのね)
感心して思い出す。
ラズールの武器は、投擲に使う小刀だ。投げるのを見たことはあるが、それ以外の武器は印象が薄い。
『意匠を見たか?』
訊かれて首を傾げる、なんだろう。
『柄にあっただろう、紋章が!』
(もんしょう?)
『あれは帝国のものだ。炎に舞う大鷹は帝国の印!! そして、アイツの剣は鷹の羽の意匠、あれを持てるのは将軍だけ!! ジャファルが言ったアイツの二つ名を覚えているか? 青鷹のラズールだ!! 鷹は帝国のシンボルなんだよ!』
(……詳しいのね)
シャーラは言葉に詰まる。
『助けるなんて言って、お前を帝国に突き出す気だ。奴らは、世界の監視者だ、法律だと言って、あちこちで奪い侵略する盗賊以上の悪党集団だ』
(でも、私を突き出さないって言ったし。それに、みんなも帝国の人? 帝国の人が盗賊を自称する?)
『密偵なんだよ!』
シャーラは、眼差しを自分の膝に落とす。
(帝国の人でも、みんなが密偵でもいい。いずれ突き出されても――だって――)
――だって、なんだろう?
自分でも何を言おうとしたのか。
『――だって、なんだ?』
……ラズールと居られるなら……。
無意識に出そうになった言葉に慌てる。そうじゃない、それは考えなしのただの願望、説明にならない。
よく考えて、口を開く。
(ラズールは、ラズール、だもの。優しい行為に意図があっても、その行動をしてくれたのは変わらない)
『だから、全然っ、わかってない!』




