19.茄子のマリネ
『能天気め』
頭の中で悪態は続く。
(そうなのかしら。でも……私は、ラズールを信じる)
繕い物の進み具合は順調だ。
頭の中で響く声にはすっかり慣れて、最近は声に出さなくても会話ができるようになっていた。
『そうじゃない。――お前、怖いんだろ?』
(……怖い?)
『思い出すのが』
自分は何から逃げてきたのだろう。イラムという言葉は、どう関係があるのだろうか。
(イラムに行かなきゃいけない、その気持ちは確かなのだけど)
理由がわからない。
(あなたは、イラムを知っている?)
『――聞いたことはある。幻の――冒険者が探す都市だ』
――幻、伝説、ラズール達もみんなそういう。自分もそれで知っているのだろうか。
ただ“約束”した気がするのは、どうしてだろう。
『あんな男たちを信用して。知らないぞ、どんな目にあっても』
突き放す声。シャーラは、繕い物を握りしめて大きく息をついた。
――繕い物ぐらいしか自分にはできない。
ハシムはこれを見て感嘆の声をあげてくれた。
その後だった。仲間の男達が立ち寄っては繕い物を頼んできて、終われば相応だという額の硬貨を渡してくる。いらないと断ると、今度は果物や菓子、ヴェールや貴金属、または靴まで持ってきた時もある。
どう考えても、繕い物にふさわしい値段とは思えないし、仮住まいの身で物が増えても困る。けれど財産は全部身につければいいという理屈までつけられる始末。
「みんな、誰がシャーラを一番着飾らせるかで競争してるんだよ」とハシムに言われたが、ある日パタリとそれが止んだ。
「ラズールがちょっと言ったんだよ。勿論みんなそれで引き下がるわけじゃないけど、まあラズールに遠慮してね……」
妙に面白がる笑みをハシムが浮かべるし、ラズールが何を言ったのかも気になる。けれどラズールに代金を渡しておくと言われたから、そうしてもらうことにした。
(自分一人では、イラムに行けない)
助けてもらわないと生活さえできない。だからできることを精一杯したいのだけど、これでいいのだろうか。
シャーラは、もう片方の空の寝台を見つめる。
同室者はいないが、夜は隣室にラズールがいるし、昼はハシムを含む仲間が建物内外に控えている。自由に過ごさせて貰っているから、不満はない。本当に感謝している。
でも……何もしてないことに気が引ける。
(料理とか、させてもらえないかしら)
『できるのか? 記憶もないのに』
食事は誰かが差し入れてくれて、部屋の中で済ませる。
一回だけ、ラズールと下の食堂で食べたけれど、ヴェールで顔を隠しながら食べるのは不便で、止めてしまった。
(ナスのマリネ、クスクスとパセリのサラダ、ぶどうのサラダ、白いんげん豆のサラダ、とかなら作れると思う)
繕い物もできたし、料理も作り方が想像できる。多分、以前もやっていたのだろう。記憶が無くても身についたことは自然にできるということだろうか。
『サラダばかりだな』
苦笑が返ってきたけれど、それはバカにされているというよりも仕方がないな、というどこか親しみ深いものだった。少しこの声の主とも打ち解けている気がする。
(ナスのマリネは、おいしいのよ)
ナスを揚げて、オリーブオイルとニンニクで炒めたトマトや玉ねぎを詰めて煮て、冷やして食べるのだ。暑い日の夕暮れの食欲がない時でも、美味しく食べられる。
(……誰かに、作っていたのかしら? 家族とか)
そうだったらいいのに。




