15.ひよこ豆のコロッケ
「――何を、話していた」
青い目は、闇の中だと更に深く、吸い込まれるような藍色になる。じっと見ていたくなるのに、鋭い眼差しは怖い。
「あの……独り言を」
ラズールは「あまり相手にするな」とだけ言った。
「え?」
何を言われたかわからず聞き返すが、流されてしまう。
“誰と話していた”ではなく、“何を話していた”だ。
誰もいないことをラズールは知っていた。けれどおかしいとは思わないのか。
(――疑ってはいても、言わないだけ?)
シャーラが怪しいのは既存の事実。だから、そのことは問わない。そういうつもりなのか。
(まさか、頭の中で誰かが話しかけてくる、なんて言えない……)
シャーラは気落ちしたように、俯いた。また手が震えている、寒くもないのに――握りしめた指は、血の気を失い黄色を通り越して白い。
それに気づいているようなのに、無視しているのか。ラズールは紙に包まれた何かを卓の上に置く。匂いからして食べ物のようだった。
「飯だ。食べたら出かける」
飯? 気が抜けたが、ラズールの視線に改めて緊張して背筋を伸ばす。
どこへ行くのだろう。まさか、売り飛ばされるはずはないと思うけれど……。
ラズールも一緒に行ってくれるのだろうか。どこかに預けられるのだろうか。
「――地味だったな」
ラズールが見つめるのは、シャーラの格好。
黒いヴェールに、前髪を含めて髪は全部まとめて隠している。黒の羽織は膝までの長さ、サテンの襟元には、黒い刺繍。その下には首までしっかり覆うボタン付きの黒い上衣と、帯で結ぶ裾が窄まった紺のズボン。
地味というよりも、全身が黒。まるで闇そのもの。これがこの辺りの標準の服装なのか、よくわからない。
――自分は、過去はどういう格好をしていたのだろう、と思う。
シャーラは戸惑い、ラズールを見返す。
必ずしもラズールが満足をしていない口調なのでシャーラは慌てて口を開いた。
「ううん! そんなことない、全然!」
青い目が無言で見返す。
(これでいい。だってせっかく買ってくれたのに)
でも、全く信じていない目。その無表情な顔を、何とか崩したい。
「好きなの、これでいいの」
「本気か?」
「私はこれが好き! 好きだからっ」
必死で服を押さえると、ラズールが珍しくあっけに取られたように見ている。
「――別に取りあげやしない」
ラズールは、引き気味に頷き、わずかに顔をゆがめた。苦笑したようだぅた。
街は夕食時のようで、灯りの下で賑わう声が聞こえる。
ラズールがくれたのは、粉をつけ揚げた団子のようなものと、トマトやナスやきゅうりの野菜を薄いパンで包んだもの。野菜は冷たく、酸味のある白いヨーグルトソースと赤くて辛いチリソースが混ざって、香辛料の独特な刺激がして、噛むと全部が混じり合って美味しかった。
赤いパウダーは辛いかと思えばそうでもない。聞けばパプリカパウダーだという。胡椒とナツメグが臭みを消している。
揚団子はひよこ豆のコロッケだと聞いた。
美味しいと言うと、彼は少しだけ口角をあげて声に出さずに笑ったように見えた。
(作り話と疑われてもいい)
気にかけてくれるだけで、有り難い。
(それに……ラズールが、笑ってくれると嬉しい)
そう思うと、胸の中が温かくなって、頭のなかで『阿呆』という突っこむ声が響いた。
***
街の奥まで歩くと、繁華街を外れた人通りのない一帯に出る。
家はあるが灯りはついておらず、戸が壊されていたり、落書きがされていたりと荒れた印象だ。
何もわからないシャーラでも、早くここを去りたくなる。
一人で歩くのは勇気がいる場所だ。
ラズールは半歩後ろを歩いて、道順を指図する。ラズールは足音を立てないから、何度も不安になり振り返る。
すると彼が興味深そうにシャーラに目を向ける。
視線をこちらに向ける時、闇の中でラズールの瞳は深い藍色から黒にも見えることに気がついた。
「どんな街でも、足を踏み入れちゃいけない所がある」
「ここは、足を踏み入れていい場所?」
尋ねて振り返るシャーラの腕をラズールは掴んで、道の中央へと引き寄せる。
「……俺といればな」
シャーラはその行動の意味を聞こうとして小さく声をあげた。気がつかなかった。今、横を通り過ぎた路地からは、目つきの悪い男がこちらを睨みつけていたのだ。
「私だけだと足を踏み入れてはいけないのね」
「アンタはどこも一人で歩くなよ」
ラズールは珍しくおどけたように言う。
「アンタは馬鹿じゃない」
そしてポツリと付け足す。
「頭の回転は悪くないし、気配にも敏い。だから言っておく、勝手なことはするなよ」
(一人じゃ何もできない、何をすればいいのかわからないのに――)
何かするわけがない。
でも、これは――裏切るな、という脅しだろう。シャーラは思う。自分は信用されていないのだ。
何も思い出せない、すべてがぼんやりと霞んでいて、何も伝えることがない。
でも――どこまで信じてもらえているのだろう。
それに――。
(私は、本当に誰にも危害を加えないの?)
何かから逃げたのであれば、それは、また追いかけてくるのだろうか。
逃げたことは正しいのだろうか。
――彼らに、ラズールに迷惑をかけなければいい、そう思う。
(もし、そうなるのであれば――、出ていく……しかない)




