0.序――月
目の前には滔々と水を湛える、白い石材の浴槽があった。
水面には、空の白い月が写り込んでいる。
そして正面の鏡は、揺らぐ水面の月と、永遠に続くかのように水路を写していた。
空を見上げると、明り取りの窓に、朧月が差し込んでいた。
衣装を床に脱ぎ落として、石段を三段ほどあがり、水面に足先をつける。
冷たい、そう思いながら体を沈める。
水面の月が揺らいで消える。
体に染み込む冷たさに、微かに身震いをして、静かに体を起こす。
浴槽からあがると、周囲の女性たちが体の水分を拭いさる。
裸のまま髪の毛を整えられて、一部を冠のように編み込まれる。
「綺麗ですよ」と髪の毛をいじる女性から言葉をかけられた。
首だけをそちらにむけると、鏡には銀の髪の少女が腰を捻るように、こちらを見ていた。
(――これは、誰? これは、私?)
そして、思う。
(――私は、誰?)
腰の曲線には、大輪の花が一輪、絵のように染み付いている。
けれど、湧いた感情はすぐに消え去る。
感情のない瞳で一瞥し、関心を失ったように視線を戻せば、控えた女が軽く薄い透き通る衣を肩に羽織らせ被せてくる。
足を進めると、閉ざされた扉の前には俯いて頭を下げる女性がいた。
白く長く重そうな衣装を着て、錫杖を持った彼女は顔をあげる。
どこかで見た顔なのに、わからない。
ただひどく――懐かしい。
「あなたは……誰?」
掠れた声は、自分のものかどうかよくわからなかった。
ただ、この中の誰よりも歳を経ているだろう女性は、わずかに肩を震わせ、目を伏せた。
(なにか、いけないことを……言ってしまった)
「ごめんなさい。私――わからないの」
罪悪感が胸を占める。そしてこの感情に当惑する。
首を横に振る女性は立ち上がると、私の額に唇を寄せた。
「あなたに――月の神のご加護がありますように」
彼女が離れると、目の前の扉が開く。
無表情の少女に先導されて石の回廊を進むと、石柱の間から高い塔がいくつも見えた。
そして、闇夜に黒く浮かび上がる城の狭間胸壁から、何かが吊るされて揺れていた。
人形のように見えた。
豊かな大河を分断するように渡された広い石橋を進む。
河岸にそびえ立つ城は、漆黒の水面に更に濃い影を落とし、月の白さだけが揺らいでいる。
通されたのは広間だった。モザイク柄の床に敷かれた絨毯、
その先の壇上にある、きらびやかな宝石を散らしたクッションに座るのは美しい男だった。
鋼色の肌、逞しい胸筋、上半身は裸で、青みがかった黒髪は腰まであった。
赤みを帯びた目は満足げに細められて、見つめられると鼓動が早まった。
口角を上げる男の笑みは魅惑的だった。
そして、男の横には不自然に空間があった。
そこに誰かがいてもおかしくはない、人が一人座れる場所。
――宝石が散りばめられた見事な織物がされた大小様々なクッションが、背もたれとして置かれている。
わずかな違和感が、胸をチリチリと焦がす。
“こちらに来い”
何も考えられないし、何も思わなかった。
ただ男に呼ばれて足を動かし、当然のように男の足元に頭を垂れた。
銀の髪が一筋、頬の横に滑り落ちる。
(私は、今日、この男と――結ばれる)
そして、この男の横に座る。この王の、妃になる。
すんなりと頭にそれが染み渡る。疑問を挟むことなどない。そのために自分はいるのだ。
“顔をあげよ”
男の指が顎に掛けられる。目を覗き込まれる、美しいな、と男が呟いた。
赤みを帯びた魔物のような眼差しに、目が奪われる。
ジンっと、体がしびれるような感触が走り、意識も体の自由も全てが囚われる。
男の手が肩に触れて薄物を払い落とすと、するりと衣装が全て床に滑り落ちる。
手を軽く振るう男に促されて、立ち上がり背を向ける。
男の手が、肌を撫でる。爪が、腰の花の絵をなぞる。
“お前は――私の、ものだ”
その声に、身体が震えた。それは、――恐怖だった。
そんな感情を覚えた事が不思議で、天井を見上げる。
天窓から覗く夜空に月が浮かんでいた。
何かを求めるように顎を上げて、月の光を受け止めると、額に月明かりを感じた。
そこは、白い衣装の女性が触れた場所。
(――月の神の加護を、とあの人は言った)
――あの人は誰?
閉じた瞳の奥で、女性の姿がちらついた。不自然な空間、あそこには誰かが居た痕跡。
(ああ――王の隣には、お姉さまがいた)
黒髪でオリーブ色の肌の美しい人。柔らかい手、優しい笑い声。前の――王妃。
(――お姉さまは、どこに行ったの)
狭間胸壁に吊らされた黒いもの――人形のような――あれは、人だ。
(お姉さま!! あれは、お姉さまだ)
ドキリ、と心臓が跳ねた。背中を撫でる手から逃れようと、身体がぴくりと動いた。
(あれは、私だ。未来の――私だ。そして――この少女たちも)
周りに額づく少女たちを、存在を初めて気がついたかのように、見下ろす。
彼女たちも――同じだ。未来の――自分だ。
「離し……て」
声が出た。触れていた手が離れる、わずかな間。
その瞬間、足が駆け出していた。
驚き、立ち上がる少女たち、けれど彼女たちはただ呆然と見つめるだけだった。
(いや、いやだ――死にたくない。婚姻など、王の妃になど――なりたくない!)
いきなり湧いた感情に戸惑う。恐怖、どうしてこの感情を忘れていたのだろう。
先程の部屋に戻ると、女性が驚いて立ち上がる。
何も言えない、何を言えばいいのだろう。
扉を閉めて薄暗い中でただ見つめ返すと、彼女は顔に緊張をのぼらせて、ただ頷いて「こちらへ」と、私の手を取る。
足音が聞こえる、男が追ってくる。
ゆっくりと足を動かし、顔には笑みを浮かべているのだろう。
逃げられないとわかっているのだろう。逃さないと思っているのだろう。
女性に先導されて、先程の浴槽に足をつける。
「そのまま真っすぐ進みなさい。迷わず、何があっても、ただ進むのです」
ザブザブと水を切るように足を進める。
先程の凪いだ心とは全く違う、今は恐怖しかない。
壁が近づく、目の前の鏡には恐怖に目を見開いた少女が写っていた。
「あぁ!」
小さな叫び声に振り向くと、女性が杖を振り上げて、扉の前に対峙していた。
その足元の床は動いていた、いや足元には何かがいた。
扉の隙間から入り込むのは、たくさんの蔦。
それが彼女の足元に絡みつき、そして今や浴槽にも触手のように先を伸ばしていた。
腰までの水の中で立ち尽くす私に、女性が振り向く。
「行きなさい!! そのまま真っすぐ! 目を閉じて飛び込みなさいっ、けして立ち止まってはいけません。さあ、早くっっ」
彼女の目の前の観音開きの扉が開こうとしていた、少しずつ隙間が大きくなる。
私は、声に背中を押されるように背を向けて、そして水の中を走り出す。
ざばざばざば――。
足がもつれる、それでも水を蹴る、膝をつく、転んだ、壁にぶつかる。
そう思ったが、水の中に沈んでしまう。
なぜか、足がつかない。地面がない、深く深く沈んでいき、水面が遠くなる。
最期に見たのは、水面に浮かぶ白く丸い光だった。
まるで月のような光が揺らいで、そして、意識が遠くなった。
*ヒロインが溺愛されますが、話の途中まではその展開はありません。
*現実の国・宗教・物語などとは、一切関係ありません。
*話中に出てくる一部の用語は、この物語上においての解釈としています。