7 VS第一階層守護者『百足の妖精(タオゼント)』
偽装空間という名の洞窟に立ち入ってから一時間程度過ぎたところ。
蓮華さんの制止を促す声に足を止め、何があったかと前方を確認してみると、そこにいたのは奇怪な全姿をした人型の何か。
「百足の妖精。この階層を牛耳っている主です」
タオゼント。その風貌に僕の身体は勝手に後退してしまう。
胸部から下は人間と同じ。しかし上半身の、左右の腕からは多足類の生き物、百足が生えており見るも悍ましい姿だった。それらは細長い全身と無数の脚をギチギチと拗らせながら今にもこちらへ噛みついてきそうな姿勢。
更に首から上、何もなかったその場所から不快な奇音を立てながら、左右のものよりも一回り体躯の太い百足が現れた。
その顎肢からはボトボトと粘着性の高い毒液が垂れ流されている。
「あ……れ、んげさん」
「どうしました煌生?」
怖い……なんで、なんで僕は今更になって気付いたのだろう。僕はただの人間だ。こんな異類異形の生き物とどうして戦えると思ったのか。ゲームの世界とは違う。攻撃を受ければ僕が痛い。最悪命を失う。最悪じゃない高確率で死ぬ。愚かだった。浅はかだった。なぜ——
「しっかりして下さい! このままだと本当に死にますよ」
「でも……怖いですよ。しかも、よりにもよって百足なんて……。昔、噛まれたことがあってそれ以来苦手で」
手足が激しく震え出す。
心臓もバクバクと騒がしい。
そんな僕に諭すような目で蓮華さんは告げる。
「怖いのはわかります。しかしもう後戻りはできません。覚悟を決めて下さい」
「大丈夫です。あなたには精霊の加護を与え——」
蓮華さんの言葉が届くまでの転瞬、こちらへ向かって何かが伸びてきた。
蓮華さんはすれすれでかわす。僕は尻もちをついてしまう。
恐る恐る、伸長してきたものへ目を向ける。
僕との距離僅か1メートルもない空裏で渦輪を描きながら体節を踊らせている毒虫。少しでも動けば噛みついてきそうで逃げる事ができない。だけどこのままだとただ殺されるだけ。
「はっ——」
そう思い悩んでいると、視界に極細の白い線が走り、細かい物体が地面に落ちていった。一瞬何が起こったのかわからなかったけど、蓮華さんの構えを見て状況を知る。
彼女が腰に差さった刀を抜いて百足の歩肢を数本切り裂いたようだ。
しかし、下に落ちた歩肢たちは動きがまだ止まっておらずうねうねとしていて。瞬間、蓮華さんに飛びかかった。
「蓮華さん、危ない!」
「——っ!」
僕の身体は勝手に動いた。
蓮華さんの肩を突き飛ばして襲いかかってきた歩肢たちから遠ざける。ほとんどの歩肢は蓮華さんの身体に当たらず飛んでいったけど、僅かに残った数発が僕の手足を掠った。
「痛っ……」
右腕と右足に鋭い痛みが走る。その攻撃は制服を切り裂いて肌まで届いていた。ほんの少し当たっただけでこのダメージ。もしあのデカい毒牙に噛みつかれたらどれほどの激痛だろうか。
僕が逃げ出したいほどの恐怖にとらわれていると、強く地面を踏む音と共に叱声が飛んできた。
「何を、何を考えているんですかあなたは! 何故、私を庇ったんです! 馬鹿じゃないですか!」
「馬鹿って酷くてないです? それに仕方ないじゃないですか。無意識のうちに身体がそうしていたんですから」
「無意識のうち、しかし、いえ、あなたは、そんなことするよ……なんで、おかしいです」
蓮華さんも先程の攻撃で気が動転しているのか、いつもの円転自在な喋り方ができていない。もごもごしながら、言葉をつまずかせながら何かを呟いている。
しかし、すぐに一呼吸するとこちらへ厳しい視線を送ってきた。
「すいません取り乱しました。ですがこれからは私を庇うような真似はやめなさい。そもそも私は精霊です。あなた達人間よりは身体の作りが頑丈にできています。さっきの攻撃程度では大した怪我にもなりませんよ」
「ですけど——」
「助けてくれた事には感謝します。言いたいことはあるでしょうけど今はこんなことを協議している暇はないですよ」
蓮華さんの警告を受けて僕はタオゼントへと眼球を向ける。
今しがたの襲撃は右腕を伸長させたものか。タオゼントは首元から伸びている一体を使い、千切れた箇所を気持ちの悪い泡音を立てながら舐め回している。それは蓮華さんに切断された部分を修復しているようだった。
「あれは『化粧行動』ですね。百足が持っている習性の一つです」
化粧行動……確か体についた寄生中なんかを掃除するための動作だったかな。ただ目の前で、タオゼントが行っているものは従来のそれとは異なる。自身の体を舐めて治療する百足などかつて聞いたことはない。
僕が状況を考察していると、蓮華さんは補足して説明し始めた。
「あれは妖精魔法の一つ。ああやって自身が本来持っていた特性を活かして、より強化させた形で活用することができる。さっきの、歩肢を使った攻撃も同じ——百足が持つ習性『自切』をベースにして構築された妖精魔法です。あと、妖精魔法と精霊魔法は同じものだと思っていて下さい」
本来、自切とは歩肢を切り外してそれを囮にして逃走するためにするもの。その行動をレベルアップ、進化させた技ということか。
そうなると妖精化しても百足としての性質は変わらないということになるけど——。
「蓮華さん、百足は確か目が退化している生き物です。だから触覚を使って……」
「……どうかしましたか?」
「いえ、もしかしたらですけど」
「何か落想があるのなら言って下さい」
百足は死んでいるものや動かないものには基本的に反応しない。それは触覚に頼って生きているからでそれに触れた『動くもの』へのみ瞬時に反応する。
第一撃目の時、蓮華さんは僕を奮い立たせるため大きな声を出していた。僕も恐れおののき後足を踏んでいて……つまりは動きを見せていた。
今現在、体の修復を終えたタオゼントは大きな動きを見せておらず僕たちに何かを仕掛けてくる気配はない。5メートル以上離れているだろうこの距離なら、初手の百足を伸長させた攻撃をすれば有利なはずなのに。
この反応と百足の先天性を考えれば、あくまで可能性の一つだけど『動きたくても動けない』と推察ができる。
「確かに。タオゼントは襲ってくる気配はないですね。何かを探っているような雰囲気はありますけど……。それにしても煌生、あなた随分と冷静になってきましたね? タオゼントを初めて見た時は随分と怯えていましたが」
少しずつこの光景に慣れてきたのか、あまりの恐怖に開き直ってしまったのかわからないけど、蓮華さんの言う通り僕の拍動は静かになっていた。手足の震えもいつの間にかおさまっており、落ち着いて状況を把握し分析ができている。
更には身体の中から力強い何かが溢れている感覚にもとらわれていた。
それは絶大なオーラに守られて、自分の全てが強化されたような今までに経験したことがない神秘的な感触。
「微小ですが、あなたの体内から魔力を感じます。『太陽の精霊』の効力が現れ始めたようですね」
「この感じが……すごい……。これが精霊の加護ですか」
洞窟に入って一時間以上は過ぎた頃だろう。少し遅いかなって気もするけど異能の力が僕の中で目覚めたようだ。
胸底から湧いてくるパワーに気持ちを押されて、今ならなんでもできそうな気がする。目の前にいる化け物に対しても現在の自分なら倒すことだって可能、そんな自信に僕は満ち溢れていた。
「蓮華さん。この後はどうすればいいんですか? 魔法の扱い方とか全然わかりませんよ僕」
「精霊の加護を受けたなら然程難しい事はしなくて大丈夫です。具象化などは精霊の魔力がやってくれます。あなたはただ唱えたい魔法を頭の中でイメージするだけで大丈夫です」
「わかりました。やってみます。——で、どんな魔法をイメージすればいいんですか?」
「……あ」
「どうしました? セクメトの加護を受けると一体どんな力が扱えるようになるんですか?」
「……ねつ?」
僕の問いかけに歯切れが悪い返事をしてくる蓮華さん。きまりが悪そうにしながら目線をキョロキョロさせている。あれ? この反応以前にも見たような気が……。
その疑問は具体的な内容を想起したことにより胸騒ぎへと変換された。
「あの……蓮華さん? 想像するにも『何を』すればいいか教えてくれないと……ファミレスで僕に似たようなことで注意しましたよね?」
「わかりません」
「えと」
「五月蝿いです。わからないと言ったのです。セクメトのコアは知り合いから譲渡されたものなのでわかりません」
嫌な予感は当たっていた。詳しい話を聞いてみないとわからないけど、恐らくこのコアを渡してくれた相手に具体的な説明を聞かなかったのだろう。
……なんてポンコツな精霊。
——そんなやりとりをしている合間もタオゼントは、体躯を空中で泳がせながら獲物を探している。
悠長に構えている暇はなさそうだ。なんとか解決策を探さないと。