東京大空襲時における水のないナイトプール
日中戦争の泥沼化によって返上を余儀なくされた一九四〇(昭和十五)年の第十二回東京オリンピックだが、その開催に向けて建設された競技施設の一部は完成し大会や練習に利用されていた。都内某所に建てられた大型プールも幻の東京五輪が残した遺産だった。ただし、このプールが競技会で使われた日数は多くない。太平洋戦争の戦局悪化により国内でのスポーツ大会の開催が軒並み中止されたからだ。その短い存在機関の大半は競技のために利用されるより、むしろ防火用水を溜める貯水槽として重宝されることが多かった。アメリカ軍による本土空襲が激しさを増し、爆撃による火災が発生する頻度が増していたためである。
一九四五(昭和二十)年三月十日にアメリカ軍が実施した東京への夜間空襲いわゆる東京大空襲の際も、発生した大規模火災の消火のために、このプールの水が使用された。しかし東京の大部分を焼け野原に変えた猛烈な火災とあって、消火用の水は尽き果てた。それでも、そのプールに水があると思い込んでいる被災民は炎に追われ施設へ逃げ込んだ。避難者は次から次へと水のないプールへ向かい、そこで立ち往生する。そこを猛火が襲った。立錐の余地もないプールにいた罹災者たちは必死に逃げようとしたが、おしくらまんじゅうからの将棋倒しで動けなくなるばかりで、逃れるすべはない。多くの者は焼死した。
戦後まもなく、そのプールは解体された。跡地には幽霊が出るとの噂があるけれど、それが東京大空襲の死者の霊とは限らない。その場所では大正期の関東大震災でも多くの犠牲者が出ているからだ。