過去―――出会い
懇願とも言える銀の鬼の言葉。
その言葉に解き放たれる、心の奥底に閉じ込めていた記憶。
そしてその記憶が蘇らせるは、捕らわれた日から殺し続けてきた思い。
やめて、やめて、やめて。
お願いだから思い出させないで。
声にならない叫びが、胸の中にこだまする。
それを嘲笑うかのように、すべての始まりであるあの日が鮮やかに色づいた。
* * * * * * * * * * * * * * *
どんよりと灰色に曇った大空。
足元から這い上がってくる冷気。
きっと今日は雪が降るわよ、と窓の外を見て母さまが言っていた。
「早く摘んで家に帰らないと…」
一面に咲き誇る赤い花の中に身を屈め、一本ずつ丁寧に摘み取っていく。
此処は森の奥深くにひっそりと隠れるようにしてある花園。
森の中を歩き回っていたら偶然見つけた、秘密の場所。
甘い匂いが鼻を擽る。
「母さま、喜んでくれるかな」
甘い甘い匂いのするこの花は、母さまの好きな花。
たくさん摘んで早く持って帰ろう。
雪が降りだすその前に。
「こんなもんかな…」
両手いっぱいに花を摘み取り、立ち上がる。
我ながらよく摘み取った、と思わず笑みがこぼれる。
その瞬間、ふと後ろの方から視線を感じた。
「…誰?」
振り向いた先は、木々がさわめく緑の森。
人影なんて見当たらない。
けれど確かに感じる視線。
間違いない。
誰かが、そこにいる。
「…誰?」
もう一度声をかけると、音もなく気配もなくそこに視線の主が現れる。
短くも長くもない銀色の髪に、海のように青い瞳。
圧倒されるような美貌と雰囲気。
かなり力のある鬼だと、一目でわかる。
「鬼…」
そう認識して、慌てて身を屈める。
両手いっぱいの花は脇に置き、丁寧に地面にひれ伏す。
この世界は鬼が人を支配する。
鬼の中でも階級のようなものがあるらしいが、どんな鬼でも身分は人よりも上ということは変わらない。
よって、出会ったその時は人がひれ伏すのがこの世界の礼儀。
それに加えて、私は人と鬼の間に生まれた禁忌の『間の子』。
髪は黒、瞳は紫という異彩のこの容姿はすぐにそれを明かしてしまう。
普段出かけるときは、鬼である父さまに術をかけてもらって瞳の色を黒く変えてもらい、普通の人の子と変わらぬ容姿にしてもらう。
けれど今日に限って父さまは出かけていて、その術をかけてはもらうことはできなかった。
本来ならば、そういう日は出かけてはいけないと言われていたのだが、まさかこんな森の奥で鬼に会うとは思いもせず、ほんの少しのつもりで家を出てきてしまった。
迂闊だったと苦々しく思う。
瞳を見られてしまえば、きっと『間の子』だと気がつかれる。
気がつかれてしまえば殺される。
だからひれ伏すことでさり気なく顔を隠したのだ。
さっきの一瞬で、この瞳を見られていないことを祈りながら。
「…お前、『間の子』か?」
祈りは空しく、鬼の言葉が絶望を告げる。
心臓がどくり、と大きく脈打った。
冷たい汗が一筋、まるで涙のように頬を滑る。
――――私、ここで殺されるの?
花を潰す微かな音が聞こえる。
鬼が近寄ってきているのだ。
私を、殺すために。
「…ああ、やはりお前は『間の子』だな」
すぐ傍にしゃがみ込むような気配を感じた瞬間、伏せていた顔を片手で掴まれ、上を向かされる。
白に近い灰色の空を背景に、銀の鬼が青い瞳で私を見つめる。
鬼は人よりもはるかに強い生き物。
圧倒的な美貌と雰囲気はその強さを惜しげもなく露わしている。
なのに雪のように白い肌と銀の髪のせいか、間近で見るこの鬼はひどく儚い印象を受けた。
「…私を殺すのですか?」
『間の子』は禁忌の子。
それは生まれてはいけない命。
だから本来ならば生まれてきたその時に葬り去られる存在。
それがこの世のならわし。
逃れられぬ定め。
「…お前は、死にたいのか?」
銀の鬼の問いかけに、胸の中に怒りがこみ上げる。
それはずっと我慢し続けてきた怒り。
鬼と人の間に生まれたというだけで、問答無用に殺されなければならない理不尽さへの怒り。
「死にたいことなどあるものかっ!!」
鬼の手を振り払い、勢いよく立ちあがる。
二、三歩下がって鬼との間合いをとり、恐ろしいほど表情のないその顔を思いっきり睨みつけた。
「鬼と人の間に生まれただけで、何故殺されなければならないのっ!?それほど軽い命でもないというのにっ!!」
人と鬼という種族の違いを超えて、思い合って結ばれた母さまと父さま。
本来ならば生まれた瞬間に葬り去らなければならないこの命を守り、隠し、今まで私を愛して育ててくれた優しい両親。
私達は誰にも迷惑をかけぬよう、そして誰からも干渉されぬよう森の中でひっそりと暮らしてきた。
なのに人と鬼の間に生まれてきたというだけで、何故普通に生きられない?
「殺すというならそうすればいい」
懐から小型のナイフを取り出し、いまだしゃがんだ状態のまま私を見上げる鬼に向かって刃を向ける。
護身用に父さまからもらったこのナイフ。
まさか本当に使うことになろうとは。
「けれど、簡単には死んでなどやらない」
『間の子』は人と鬼の両方の血を受け継いだ者。
普通の人の子よりは丈夫な体をしているが、さすがに純血の鬼に叶うほど丈夫なわけではない。
だからこの鬼が本気で私を殺そうと思えば、いともたやすくそれは叶うだろう。
これははじめから勝機の無い挑戦なのだ。
「えらく威勢がいいな、『間の子』よ」
ゆっくりと立ち上がった鬼の顔は相変わらずの無表情。
何を考えているのかさっぱり分からない。
けれどその体から伝わってくる威圧感は圧倒的なもので、思わずもう二、三歩後ずさる。
「私の命は私のものよ」
この刃は私の心。
両親が大切に守ってくれた命。
だからこそ勝機の無いこの挑戦でも敗れるその瞬間まで、私は気高くありたい。
鬼に屈してなどやるものか。
「…そうか」
そんな呟きが聞こえた次の瞬間、鬼の気配が間近に迫る。
その気配に小さく息を呑んだその僅かな間に、私の挑戦はあっけなく終わっていた。
いつの間にか鬼に向けていた刃は、その相手の手によってこの手から抜き去られていて、私の喉元に突きつけられていた。
ひやりとした刃の感覚が、突きつけられた喉から恐怖と共に全身へと広がる。
「お前はなかなか面白い娘だ」
私を見降ろす海のように青い瞳を微かに細め、ほとんど色の無い形の良い唇をほんの少し持ち上げ鬼は笑った。
ずっと無表情だった顔に浮かんだその笑顔は、本当に微かなものだったけれど思わず喉元にナイフを突き付けられている今の状況を忘れて見惚れてしまったほど綺麗なものだった。
「殺すには惜しい」
喉元からナイフの冷たさが消え、そのことに気がついた時には銀の鬼はもう背を向けてすでに森の中へと歩き出していた。
瞳と同じ青色に銀の刺繍が施された着物を風に靡かせ、去っていくその後ろ姿はまるで一枚の絵画のようだった。
「私…助かった、の?」
放心状態で見上げた灰色の空から、静かに雪が舞い落ちる。
まるで助かったこの命を祝福するかのように、それは静かに私の頬に落ちては溶けた。
灰色の空。
赤い花。
白い雪。
銀の鬼。
幻想的なその景色が、眠れど醒めぬ悪夢の始まりよ。