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準備する時間も何もなかった。
ツンドラ少将は自動車をぶっ飛ばしてきたに違いない。
何分もたたないうちに、地下プールへとつながる階段のハッチが開く音が、地上から聞こえてきた。
「査察だ。道を開けたまえ」
きっと当番の警備兵に命じているのだろう。
ツンドラ少将は、背はそう高くないが、いかにも引き締まった体格をしている。
士官学校時代からやり手だったという噂を聞いたことがあるが、頭が固く融通が利かないという話もある。
いかにもやりにくい上司だ。
そのツンドラ少将があっという間に階段を降り終え、地下プールの水際、湿ったコンクリート床までやってきてしまった。
ツンドラ少将は、不機嫌そうにつぶやいた。
「サイレンだと? 海軍と人魚に何の関係があるのだね」
ははあ、と僕は気が付いた。
ツンドラ少将は、「サイレン」を新兵器のコードネームと勘違いしているんだ。
その性能不足か整備不良が今回の作戦失敗につながったと思っているのかもしれない。
僕もそうだったろうが、中隊長は居心地が悪そうにしている。
とりあえず僕たちは敬礼をした。
「サイレンとやらを見せてもらいたいな」
それがツンドラ少将の第一声だった。
地下プールとは決して狭いスペースではないが、コンクリート壁で囲まれているから、声や物音はよく響く。
そのせいなのか、誰も何も言わないのに、いつの間にかサイレンたちが集まり始めていた。
やわらかな水音を立て、サイレンたちが次々に水上に姿を見せた。
プールサイドのわきで、上半身を波の上に立てて並んだのだ。
この時の少将の表情は、ちょっとした見モノだったよ。
プールサイドにいても、サイレンは見上げる大きさがある。
そんなサイレンたちの冷たい瞳に見つめられると…。
だけど、まさか笑うわけにはいかない。僕は口を開いた。
「少将閣下、サイレンたちをご紹介します。一番左にいるのがリリーで、その隣がスター、その隣がスズキで…」
笑いをこらえて、僕は紹介を続けた。サイレンたちは、まだ集まり続けている。
「いま来たのがラッコで、その隣に、またもう一人来ました。あのすました顔をしているのがコ…、コバルトでして…」
それ以上は何も言わず、精一杯の威厳を保ってツンドラ少将が帰っていき、物見高いサイレンたちが解散した後で、コバルトが合図をするものだから、僕はそばへ行き、差し出された腕に乗った。
コバルトには、ケガをした様子どころか、苦痛を受けた気配すらない。まったく平気な顔をしているんだ。
僕を乗せたままコバルトは泳ぎ始め、人目のない場所へ連れて行くじゃないか。
聞かれてはまずい話をするのだなと思ったが、僕は口を閉じていた。
この頃になると正直に言って、あんなにコバルトの身を心配していた自分のことをバカバカしく感じ始めていた。
馬鹿サイレン、と僕は口の中でつぶやいた。




