決断……?
無言でイヴァンを追う。本来なら力強いはずの背中は、何故か少しだけ弱々しく見えた。根拠なんてない。ただの感覚だ。
少しイヴァンが俯きがちに歩いているからか、それともこの気まずい空間のせいか。
そもそも、気まずいと思っているのはアキだけかもしれない。イヴァンにとっては普通、そんな可能性も。
少し身体を反らして顔を見ようとする。正直いってこの角度からじゃ全く見えないが……どことなく眼力がないような気も。
もしかして落ち込んでいる?
いや、ありえないだろう。イヴァンが落ち込む要因がない。あの部屋がどんな部屋だったにしろ、見られたくない部屋であったことは間違いない。
しかし、落ち込むだけということは案外普通の部屋だったとか?絶対に見られたくない部屋なら怒りの感情が少しでも湧いていいとアキは思う。
身体を更に反らす。イヴァンにバレないようギリギリのラインを攻める。イヴァンを疑う気持ちは確かにあるが、信じたいと思う気持ちのほうが実は大きい。たとえ、先程の一瞬の光景で不信感が湧いたとしても、それを挽回できるだけの恩をイヴァンには感じていた。
今やっているこの行動だって、イヴァンを信じるための根拠が欲しいからやっているのだ。
頭の中で今までのイヴァンの姿を思い返す。逡巡したり、悲しそうだったり、アキを小馬鹿にしたり、そして生徒を守ったあの背中だったり。
……やっぱり、悪い人だなんて思いたくない。さっきのはアキの勘違いだった。それでいいだろう。騙されてたって知るもんか、今のところは実害はないし問題の一つもないではないか。現状はこのままで……このままで……?
「……はぁ」
分からなくなってきた。考えるのが面倒で足取りも重くなる。覗き込んでいた身体を戻し、イヴァンを真似するわけではないが俯きがちに歩いた。
「お前には今日、やってもらおうと思っていたことがあった。先程もその準備をしていた。……だがこの様子じゃあな」
リビングに着くや否や、イヴァンは振り返りそう言葉をかけてきた。イヴァンの瞳に気力を少し喪失しているアキの姿が映る。
「何をするんですか」
大きくない声で聞いた。顔を上げるといつもの顔が見えた。落ち込んでるようには見えない。紛れもない平常運転だ。
「……それは言えない。とにかくついてきてほしい」
「それを言えないと答えられませんよ……」
また、隠し事だ。それがアキの素直な感想だった。例えアキがイヴァンを信じたくても、イヴァン本人がそれをさせてくれない。いくらなんでも隠し事が多すぎる。
アキの不満を感じ取ったのか、イヴァンがアキから目を逸らした。いつも堂々としていたから意外な行動だった。
「……ここで言ったらお前が逃げる可能性があったんだ。そうでないなら言う」
「それはあなた次第ですよ……」
事実そうだった。
アキがイヴァンを信用していればどんな言葉だったとしても逃げない。そうでないのなら……ただのヤバいヤツと気味悪がるだろう。
「……分かった。聞いた上で判断してくれ」
「はい、お願いします」
イヴァンが目を合わせてくる。深く息を吸ってから口を開いた。
「生き物を殺す練習をしてほしい」
「はっ?」
アキの頭は一瞬真っ白になった。そんなことを言われるとは思ってもみなかった。
「い、意味がわかりません」
咄嗟に出た言葉で場をつなぐ。アキの中に浮かんだのは混乱、戸惑い……そして少々の恐怖だった。これまでのイヴァンの行動や言動が不穏なものに変わっていく。
「そうだろうな」イヴァンは静かに言った。
「だがここで生き残るためには避けて通れないことだ」
イヴァンの言葉は重々しく響いた。アキの中でイヴァンの人物像がよく分からなくなっていく。何かを知っている。しかしそれを隠している。
イヴァンは、秘密だらけの人間だ。
隠していることがあるなら教えてほしい。アキに、イヴァンを信用させてほしい。そういった念を込めて強い眼差しを返した。
「説明してくれますか?」
「…………」
それに対する返答はなかった。顔を反らし、頷く素振りすらない。
しかしそれとは別にイヴァンは言葉を続けた。
「この学園エルドラドでは魔物が頻出している。それらから身を守るためには生き物を殺す術を身に着けなければならない」
「どうして私だけにそれを言うんですか」
「生徒たちはある程度魔法を使える。しかしお前には何も無いからだ」
言ってることは最もだった。だが生き物を殺す術というが何を指しているのかは分からない。魔法ならまだいい、けれどそれが物理による殺傷なら到底できる自信はアキにはなかった。
生き物を傷つける、この行為はとてもハードルが高い。きっと実践しようとしても身体が竦んで腕を振れないだろう。
「魔物って、前に私が襲われた化物と同じ奴らですか」
「そうだ」イヴァンが頷いた。
教えてくれるというのなら、損は一切ない。付き合うだけなら……多少はいい。しかし納得はいかない。実は病院でイヴァンに事件の本末を聞いていたとき、あの化け物はただ自然発生したものだから気にしなくていい、と言われていたのだ。
「聞きたいんですけど、なんでここは学園内なのに魔物が出てきて…………あれ」
そこまで言ってからアキは首をひねった。引っかかることが一つだけあったからだ。
それは随分前にしたディンとの会話。『半年前までは魔物が出ていたが、今ではもう平和』というものだった。
「そういえば魔物はもう出ていないって聞きました。どうして今になってまた?」
「それは……知らん。だがこれからは魔物が以前のように出現するだろうと予測している」
イヴァンの言葉には間があった。今までの反応を見ていたからアキには分かる。また何か隠していると。
「隠していることがあるなら教えてください」
「どうして隠していると思うんだ」
「だって、さっきから様子がおかしいように見えるし、説明してと聞いても頷いてはくれませんでしたし……やっぱりおかしいですよ」
「…………」
イヴァンは黙りこくってしまった。その沈黙が重く、アキの不安を更に煽る。しばらくの間、二人にはただ静寂が流れた。やがてイヴァンが重々しく口を開く。
「そうだ、私は隠し事をしている。だが説明することはできない」
「っ……」
その言葉を聞いた瞬間、アキの胸に重い何かがのしかかった。この世界に来てからそうだった。肝心な部分はみんな説明をしてくれない。それがもどかしくて、おかしくなりそうだった。
「どうしてですか。隠し事は、もう、たくさんです」
アキの言葉は途切れがちだった。イヴァンを見つめるその瞳には、混乱と困惑、そして僅かな怒りが混じっていた。
イヴァンはしばらく黙ったまま立ち尽くしていたが、やがて口を開いた。
「……アキ、お前の気持ちは理解できる。しかし世の中には知らないほうがいいこともあるんだ。お前自身を危険に巻き込まないためにも」
「危険って、どんな危険ですか? 私はもう命の危機にあってるんです。これ以上、隠し事が増えるほうがよっぽど怖いです」
アキの声には決意がこもっていた。もう、疑いながらイヴァンに従うのは限界だった。
イヴァンはため息をつき、アキに向き直った。その目には一瞬、深い悲しみがよぎったように見えた。
「……本当に覚悟があるなら、これだけは言っておこう。お前の前任者、セキには役割があった。その役割を果たすには大きな危険を伴う。そしてそれを知ったとき、お前は否応にもその役割に従うことになるだろう」
アキは息を飲んだ。イヴァンの言葉は真剣で、絶対にそうなるという確固たる自信があるように見えたからだ。
「それでも知りたいか?」
その問いかけにアキは深く考える。この先に待つ未知の危険、それに立ち向かう覚悟が本当にあるのか。
今なら後戻りできる。しかしここで頷かなかったとしても、後でまた同じような状況に陥るだろう。今アキ自身がセキの肉体でこうして存在している限り、逃げることはできない問題なのだ。
おそらく……いや確実に、自分はイヴァンの言う役割について軽視している。実際に直面すれば、泣き言を吐いて選ばなければよかった、と後悔する。そんな直感があった。
それでも……アキは選んでしまった。弱い人間だった。こうして何も知ることができない痛みに耐えれなかった。現在においての楽な選択を選んでしまったのだ。
「知りたいです。……全てを知って、自分の選択で生きていきたい」
イヴァンはしばらくアキを見つめ、やがて吐息を漏らした。
「……分かった。お前がそこまでいうなら、話そう。ただし今すぐとはいかん。確認しておかなければならないことがある。それが終わったら話すことを約束する」
「どれくらいかかるんですか?」
「そうだな……明日には分かるかもしれないな」
煮え切らない回答だった。すぐ知れると思っていたため拍子を抜かされるが、そこは耐えることにした。
「では、今日はその生き物を殺す練習というものをやるんですか?」
「そうだ、お前にとってやっておいた方が良いことだ」
「行くぞ」イヴァンが先導する。先程よりも雰囲気は優しくなった気がする。やはり隠し事をする側、というのも存外に気を張るのだろう。
ああ…………。
本当に良かったのだろうか。後先考えずに頷いてしまった。その場の感情に任せて、おそらく重大であろう選択を。
絶対に……後悔する。
今になって分かる。とても雑な選択をしてしまったと。今更遅いのは理解している。
それでも、どうしても考えてしまう。自分は……アキはそういう人柄だ。
イヴァンと約束を取り付けても、アキはスッキリとした気分ではなかった。逆にどんよりとしたようにも思う。イヴァンの背中を追いかける姿は先程と変わらない。
結局、俯きながらとぼとぼと歩く、変わらぬ光景だった。