咲のみは興味のみ
なぞなぞを出されることがある
答えがわからない間は、いつまでも、そのことが頭から離れない
しかし答えがわかった瞬間に「なんだそんなことか」とつまらなく感じることがある
人間も同様――興味を抱かせる人というのはいつまでも謎の多い人である――
「人間は最後どうなるでしょう?」
あるとき髪をなでながら、彼女はそんなことを言った。なんでもない簡単な、なぞなぞだと思って「いつか死ぬ」とか、「天国に行く」とかはじめは僕も適当に応えていた。あ、そろそろ、彼女と別れなければならない。下駄箱で(僕たちはまず学年が違った)僕はおそるおそる上履きを確認した。
昼休憩の予鈴が鳴った。
その日の日直が律儀に黒板を消しにきた。おもわず日直の女子と咲を比べてしまい口の中にまずいものを感じた。その女子があらく、雑に黒板をけすほどに、苦い粉はあたり一面に舞った。窓が締められていて、鍵までかけられているぶん、粉を含んだ空気はそこにとどまった。
僕はいちばん前の席だったから、やむをえずそこを離れなければならない。
どうでもいいが、ふと新鮮な風を吸いこみたくなった。
本当は、僕はこれからはじまるクラスメートの会話が一番不安だった。
まずあの男女の集まりはきらいな教員の愚痴をはじめるだろうけどすぐに風向きが変わるだろう。
今、もし一人きりで机に伏せている人を見かけたら、彼らはその人の陰口をはじめるのだろうな。
だから僕はチョークの粉で煙たくなって、教室を出ていったことにしなければ、これから多分どこかで僕の悪口が充満しだす。僕はその吸いづらい空気のなかで窒息する、死ぬかもしれない。
僕は息を止めながら、女子トイレの前を通り、そこでなぜか彼女のシルエットを思いだしながら、校庭にでて、木漏れ日にさえ、うっとうしいまぶしさを覚え、できるだけ暗いところの、椅子を選んで、すわり、いま一番会いたい人に会えない苦みを、消すみたいに、弁当の箱をあけて食事をはじめた。
たとえるなら彼女は綺麗な花だった。こんな僕がとなりにいてふさわしいのかどうかを何度も考えた。僕は努力という努力をしていない、けれど、彼女からは僕には図りきれない何かが窺えた。はじめて僕が声をかけたときからそうだった。彼女は叱られたように直立したまま花壇のチューリップを見下ろしていた。支柱がはずれたチューリップは倒れていた。彼女はずっと孤独だった。
やたら、やたらと、歩幅を僕に合わせてくるというか、ときどき僕はそれを優しさとみなすときもあるし、まったく気付かないときもあった。ただ、彼女がそらをゆびさして、「ほら、鳥が飛んでる」とか、「自由になりたいよね」とか訊いてくるときは決まって、あ、僕もそれ思ってた、と言い返すのだが、そういうときにかぎって彼女はそっけなく僕の前を歩いたりして、正直、理解はできなかった。
「人間はどうなるの、最後」
と、なんどか最初のなぞなぞを思いだすことがあった。
そのたびに僕が真剣な顔つきに変わるのを、彼女は嬉しそうに見ていた気がする。
その問いに応えつづけた僕の姿勢や態度や……時間は、彼女にとって正解だったのか、それが気になりすぎて現在でもたまにへんに周囲の景色がはっきりと見えてしまうときがある。
『でもきみは優しいから、みんなの頭に優しい人だってのこるよ』
だとか、ほかの動物に生まれかわるんじゃないかな、などといったことを時々僕は口にした。
虫になるかもしれない、という僕の余計な発言こそ、彼女はすずしい笑顔で受け入れてくれた。
「虫はだめ、嫌われるから」、それで、『本当にうまれ変わるなら花のかわいいやつがいい』、と手をたんたんとたたきながら、それでね、と、どこまでも雨雲が続いている空を、彼女は見上げていた。
ぽつんと、「自分の予想をこえないことって、なんでもかわいい」そう思わない? と一瞬、彼女がさびしそうな顔をしたのに、僕はこういうときにかぎって彼女に寄り添うことができなかった。
「それでさ、人間はどうなるの? 結局」、などと冷たい言葉を、僕は彼女に放ってしまった。
絶対にそんなことは言わないはずなのに、はにかむ彼女の目を見ていると、「人間の弱いところだよ、誰にでも答えを求めてしまうのは」、と、そんな返答を待ちぼうけている自分がいて、彼女に対してどんな顔をすればいいのか判らないうちに、とつぜん天気予報になかった雨が降りだした。
二人で海に行ったことを覚えている。
本心をいうと、僕は自分のだらしない体を彼女に見せたくはなかった。しかし彼女はなんの躊躇もなく服をぬいで、白い肌をちょっとおさえつけた水着をあらわにする。そのとき僕もなぜだか彼女にふさわしくあろうと思ったのだ。僕は、あんなもの見せるつもりもなかったのに、すでに着ていた黒い水着をのこして裸になった。それから僕は体を鍛えておけばよかった、と恥ずかしくなりながら、海に浸かった。体を鍛えておけばよかった、と後悔しながら、赤い夕暮れを彼女とながめた。
そういえばあの日にはまだ続きがあった。
「なんで海はしょっぱいのか!」と指をなめては彼女はいきなり大きな声を出したのだ。
「それはたくさんの人が泣いたからだ」と僕も変な調子になっていつもより大きな声になった。
彼女は笑いながら、波打ち際にかけより、指で砂浜になにかをかきはじめた。僕はそれが気になった。死に物狂いで走った。が、その文字は黒い波にさらわれて間に合わなかった。……
かちかち、かち、とシャープペンの芯で遊んでしまうのが、僕の唯一知っている彼女の癖だった。
あれは僕の家で勉強会をすることになった、そういう二人だけの日だった。
じつをいうと僕は年上の彼女の部屋を見てみたかった。けれどそういうことは言わないでおいた。
あの日のなかでも、驚いたことが何個かあった。それは僕でもすぐに開けられないペットボトルの蓋を、彼女がすぐに開けてしまうことだったりした。そのキャップを持ったまま、彼女がお茶に口をつけて飲みはじめたことでもあった。
ただ僕はそれがどういうことなのかを彼女に確認できない。
そういう自分の甘さだけがおもしろくなかった。
とにかく、なぜか彼女は男の僕よりも握力が強いのだが、それは「女はつよい」という言葉とはなんとなく結びつかないような想いに迷いながら、ふたりで教科書を読んだり、問題を解いたりした。そのうちに、大学の受験や、将来のことが話題にでてきて、僕はこのうえなく頭を悩ませたが、学校の勉強に関してだけは、彼女はいつになくすんなりとその答えを教えてくれた。
彼女は絵を描く才能の持ち主だった。
とある雨の日、あの日はめずらしく彼女のことをまったくもって忘れていた。ぶつぶつと裂く包帯に似た雨の音を、聞きながら、僕は学校を抜け出してしまったことへの言い訳を頭の中でぶつぶつと生みだしていた。すると(生まれてこなければよかった)僕の足はちょうどいい橋の下で止まった。いっそこのまま頭上の橋が崩れても…おそらく絶対に家からも学校からも同情の声は溢れない。
そもそも彼女は、ずっと隣に居たのだけれど、「死んだらぼくは――ぼくは悲しんでもらいたい」、と、それは僕なりの正解として、ついにあの日の彼女の問いかけの連鎖を終わりにするつもりで、僕は彼女に取り返しのつかないことを言ってしまった。そんな僕の、冷酷な声が届いていたのかそうでないのか、彼女は何も言わないまま鞄からノートと色々なペンを取り出して、「そこにいてね」、とだけ言い、さびしい雨の音をのこしてすこしはなれたところから僕を見守るように僕のことをノートに描きはじめたのだった。
こういうときにこそ笑うべきだった。眉に力が入りくしゃみがでた。
口もとが震えた。服にも、学校で借りた靴にも、雨水が沁みていた。
体の芯まで冷えることで、しぜんと自分の心の在処に気づかされた。
そんな気がして、みるみるうちに目の前が暗くなっていく気がした。
僕、俺は、学校で虐められていたのか、揶揄われている、たったそれだけの勘違いなのか、なにをどう、言いかえても、胸の中はただただ黒くて、かゆくて、僕はとうとう下を向いてしまった。ごめんなさい、と口がうごいた、「僕はきみにふさわしくないです」、それでも絵は完成するよね、髪の毛で顔を隠している僕は、わかりきっている、表情のない僕になる、ほんとうはかなしくても、つらくても、きっと彼女のおもう僕は、温度のない、なんの変哲もない人間に出来上がるのだろう、たぶん、描くほうも面白くなかったと思うよ、僕の足元から、伸びる影をみて、ああ、揺れてる、と思う、僕も揺れているから…黒いな、と思う、だって僕もそういう……そういうことを、まるで、僕に! 絶対に見せないようにするみたいに、地面の、砂利の、黒くながい、僕の影を隠すようにたどってまっすぐに歩いてきた、「できましたよ」、と、この花に似たあまいにおいは、彼女! だとわかるにおい、それは、赤色、むらさき、オレンジ、僕の視界にぽつぽつと色がもどってきて、僕は彼女から渡された一枚の絵を、いつのまにか大事に手にもち、それを近づけたり、遠ざけたりしていた。
彼女が描いた絵のなかの世界は晴れていて、そのなかの僕は笑っていた。
そんな絵を目にした刹那、僕の心臓はたしかに何ミリほどか跳ねあがったのだ。
僕はわけもわからず、顔がだめになってしまうほど一生懸命に笑ってみせた。それなのに彼女はシャープペンを、かち。かち。かち。と優しく鳴らしながら、かすかに、泣か。ない。で。と聞こえてきそうな、きっと僕の表情を真似しているのであろう、妙な顔をしていたのだ。へえ、と思った。僕は、自分が今している表情さえわからない。そんなどうしようもないすれ違いを笑ってみながら、僕は、しあわせな絵の裏面で自分の顔はんぶんを隠し、た。
その翌日も、すごいおいしいみせあったよね、あれって一緒に行ったっけ、「私が一人で行ったのを話したんだっけ」いいや夢かもしれないね、などといったことを、延々と聞かされていたような美しい記憶がある。なるほどたしかに実際に二人で行ったのか僕自身もそういう夢を見ていたのかが分からなくなってくる。そういうカップルごっこしようよ、と言われた時にはなおさらはっとさせられた。
彼女は癌の持ち主でもあった。
どこの細胞の癌かも教えてもらえなかったけれど、寿命とはまた違うのだろうという理解はあった。
それでも彼女のいう人間の最後というのはもっと広々としていて、違う意味なのだと思いたかった。それだから余命一年という部分では、どうしても僕の胸に、なんの感傷も残りはしなかったのだ。
もしかしたら僕といっしょに大学生になっているのかもしれない、あの日の彼女のケータイから、【咲と仲良くしてくれてありがとうございました(笑)咲の母より】というメールが今朝届いていた。
僕には何が本当のことなのかがますます解らなくなった。
何も解らないことだらけなのに、きっと、いまこの瞬間も彼女もその母親も笑っていない。
薬で髪の毛が落ちてしまったというので、それを僕に見せたくないといい、あれきり会うこともできずに、写真の一枚でさえ、この数年は見せてもらえていない。彼女は今どこにいるのだろうか。
僕はただ純粋という意味を信じて、ひたすら純粋に彼女を知りたかったけど、たぶんこんどこそ、僕は彼女から出題された問題の答えが本当の意味でわかってしまいそうで不安になった。
今の彼女に会ったら、「なんだそんなことか」と、僕は感じてしまうだろうか、いい意味でも悪い意味でも、僕と彼女の間にあった何かが、おびただしい数のほそい、謎のつながりが、ものの一瞬で永遠に途絶えてしまうのだろうか、どうして彼女は笑っているのだろう、そういう心の動きを興味、と呼べばいいのか、それは見えないのか? わからないものを、いったい僕はどうしたらいいのか。
僕の手許にはあの日の彼女が一生懸命に描いてくれた絵がのこった。
こんなに晴れた空と、笑顔の僕は、きっと彼女の中にしか存在しないのだろうとおもった。
そういう意味でも、彼女の声と言葉でなければ僕はあのなぞなぞの答えを信じることができない。
なんだか永遠にその答えは明かされないような気がした。
僕は急に頭がまっしろになった、そのなかで彼女がすっと現れて、まだその小さな頭には綺麗な髪があり、背中には羽があって、僕は彼女の頭のわっかをただぼんやりと見つめながら、羽もないのに、自分も一緒になって空を飛んでいるような呆けた気分になった、そこではじめて僕は彼女に好きだったと言った、彼女はただ笑っていた、そのうちに僕の体中をあらゆる想像が駆け巡った、その瞬間涙がでて、彼女はそれを正解とも不正解とも言わないまま、それ以上はなにもかたってくれないから、僕はしかたがなく目を開けて、ただなにもない空を見ていた。
人間はどうなるんだろう、と口を動かしてみた、そのとき強く、風が吹いて、僕の耳元を怖いくらいにざわつかせた、ありもしないのに、僕にはそれが咲の笑い声に聞こえている。