記憶を失くした王子は元許婚とのイチャラブ話に悶絶させられる。そして昔の自分に嫉妬する。
この作品は、かつて書いていたものを分量、台詞回し、設定、誤字やら何やらを直して短編化したものとなります。
一応ラブコメっぽい何か(?)です。
……俺は今すごく緊張している。
「シュヴァルツ様、あーん!」
「あーん……」
溢さないようにと口元に手を添えられながら、俺の無防備な口元に切りわけられたパイが運ばれた。
それを噛み締めると、まず最初に芳醇な秋ぶどうの甘酸っぱい味が口一杯に広がる。
使われている材料は、りんご、みかん、ブルーベリー、それといちごか……。
主役の秋ぶどうを基調としながらそれぞれがそれぞれの味の良さを引き立て合い、しつこくない甘さで纏まっている。
かつての俺の好物で作られたフルーツパイは、やはり今の俺にも甘美な菓子であると認識されたらしい。
「お味はどうですか、シュヴァルツ様?」
笑顔で問う彼女に、俺も笑顔で答える。
「うん。とても美味しいですよ、ナターシャ」
側から見ればラブラブカップルのように見えるこの行動は、かつての経験を辿ることによって記憶を呼び覚まそうという試みだ。
そう……俺は記憶喪失になっている。
覚えているのはある程度の一般常識くらいしかなく、自分のことも、彼女のことも、何もかもがある日を境に思い出ごと消えてなくなったのだ。
そんな記憶を失くした俺の名はシュヴァルツ、なんとこの王国の王子らしい。そして、俺とこの甘ったるいやり取りをしている相手はナターシャ。青い瞳が特徴の金髪美少女だ。
彼女は、かつて巫女という役割を与えられていた俺の幼馴染で……そして俺の元婚約者でもある。
巫女とは退魔の力をその身に宿した女性のことを指し、その力を維持するために、男女と交わってはいけないという掟があった。
そんな巫女たちの自由を奪っていた最たる元凶こそ、この世を1000年間支配していた魔王の存在だったのだが、その魔王は俺によって葬り去られたらしく、この世にはもういない。
かくして、ナターシャは晴れて巫女の役割から解放され、正式に俺と男女の仲になることを認められたというわけだ。
しかし、それは記憶を失くした今の俺にとっては血の通った思い出ではなく、後から聞かされただけの単なる知識にしか過ぎない。
当時の俺が抱いていたであろうナターシャに対する強い想いなんて、全てを忘れている今の俺にはもはや他人事にさえ感じてしまう。
自分が魔王を倒した経緯を聞いても、何処か遠い世界の武勇伝を聞かされているような気さえするほどだ。
そんな俺に対して、ナターシャからとある質問をされたことがある。それは、以前の俺が彼女へ抱いていた強い想い――即ち、愛が、記憶を失くした今も尚、以前と変わらず俺の中に残っているかという確認だった。
嘘偽りのない解答を望まれた俺は、その問いかけに対して、愛はないと正直に答えた。
昔の俺が魔王を倒してまで惚れ込んでいた女性という意味では、多少なりとも彼女のことを異性として気にはなってはいたが……流石に愛だの恋だのと呼ぶに値するものは、記憶を失くしてから日も浅かった当時の俺の中には存在するわけがなかった。
だからこそ、俺は婚約破棄されることになったのだが……まぁその件に関しては、ややこしくなるので今は一旦置いておこう。
そんな様々な事情を抱えた俺たちではあるが、見ての通り関係は現在も良好。
ナターシャは、俺が記憶を取り戻すことに積極的に協力してくれていて、その取り組みの一環として王都の名所の一角に訪れて紅葉狩りを行なっているというわけである。
この場所は俺が魔王を倒して帰国した後、初めてナターシャとデートを行なった思い出の地。色づいた紅葉を愉しもうと、俺たち以外にもたくさんの人たちがここに来ているのだが……そんな人々の視線は今現在、俺たち二人へと注がれていた。
「――殿下と巫女様の仲睦まじい御姿をこの目で見られるなんて、私はこの世で一番の幸せ者よ……!」
感激して涙を流しながら俺たちを見守る人がいた。
「――かの英雄と女神様が降臨なされるとは……! 眼福眼福! どうか我々下々の者たちに永遠の繁栄と幸福を……!」
俺たちに祈りを捧げる人がいた。
……ちょっと皆さん、流石に大袈裟過ぎやしないだろうか。
それに、俺たちこう見えても婚約破棄してるんですけどね……。
「シュヴァルツ様、あーん!」
そうこうしている内に、二口目のパイが口に運ばれ、俺はそれを貪る。言うまでもなく美味い。
……なんだか、俺が記憶喪失であることをナターシャに都合よく利用されているところもあるような気がしなくもないが、彼女と一緒にいる方が俺にとっても良い刺激になるのは確かだろう。
ただこれ……超恥ずかしい。どうやら俺にはこの手の免疫が、記憶の喪失と同時に完全に失われてしまっているようだ。
そんなこんなしていると、一人の女の子が俺の前にやってきて立ち止まる。
「あっ、あっ、あの。お取込み中失礼します。その、えっと……あああ握手してください!」
少女は沸騰しそうなほど顔を赤らめながら、直角に体を曲げて頭と右手を同時に俺に向かって突き出した。
緊張しているのだろう。小刻みに震えるその姿はまるで獅子を前にした小動物を思わせる。
しかし、俺にとってそれは最早慣れつつある光景だ。
記憶こそ失っているが、俺は王子であり、魔王を倒した英雄である。彼女はそんな俺の、所謂ファンというやつなのだろう。
俺は努めて柔らかな笑顔を作った。憧れを抱かれる存在は、それに相応しいだけの態度というものが必要だと俺は思っている。
上に立つ者として、人々の心の平和を保つことも、そんな俺の重要な責務の一つだ。記憶が失いとはいえ、そういった責任まで投げ出すつもりはないし、むしろ望んでやっていることですらある。
それに、自分のことを慕ってくれている人を邪険に扱う理由なんてありはしない。
「そんなに緊張しないでください。俺で良ければ、握手くらい、いつでも応じますよ!」
そう言って差し出された少女の手を――俺は両手で受け止める。
憧れの人に話しかけるのはかなり勇気がいることだ。そんな勇気を振り絞って俺に話しかけて来てくれたのならば、此方も相手の想像以上のことをやってあげたくなるというもの。
おそらく片手で握手されると思っていたのだろう、少女はわなわなし始めた。
内に眠るちょっとしたSっ気に駆られた俺は、少女の手が痛くならない程度に力を調整して――ぎゅっと握ってあげると少女は遂に破顔した。
「……あっ、あああああありがとうございました!!! この手は一生洗いません!!!」
そう言いながら、少女は地平線の彼方へと走り去っていく。まるで流れ星を見ているかのような凄まじい速さだった。
ちょっと驚かせすぎたかな……?
「足元にはお気をつけて! ……あと、手はちゃんと洗ってくださいね……」
まるでスーパースターにでもなったような気もしてくるが、俺は決して増長するつもりはない。
自らの得た名声に恥じないように行動を心がけていくことは、俺にとって何よりも重要なことだ。これからも、己が地位に相応しい人間で居続けようと心の中で改めて誓う。
……それにしても、俺が気さくに振る舞えば振る舞うほど、周りの人たちが驚いているのがわかる。
ちょっと人に良くしているだけのつもりなのだが……俺がこのようなことをするのは、そんなにも意外なことなのだろうか。
俺は声音を落としてナターシャに問う。俺が記憶を失っているということは、口外禁止の極秘事項。このことを知っているのは、女王陛下である母さんとナターシャだけだ。
……そんなナターシャへ距離を詰める俺の行動に対して、何やら思い違いをされたらしく、周囲からは黄色い歓声が上がっているが、努めて気にしないようにした。
「俺が握手に応じただけでどよめきが起きてますけど、もしかして昔の俺は……差し出された手に唾を吐きつけたりするようなとんでもないカス野郎だったりするのでしょうか?」
ちょっとファンの子どもにサービスをしただけでこんなにも周りがざわめいているのだ。もしかしたら、昔の俺は自分の名声に酔いしれ、傍若無人な振る舞いをするようなとんでもない暴君だったのかもしれない。
だとしたら、今の俺とは決して相容れることはないだろう。そうだったとしたら、落ち込むなぁ……。
そんな俺に生じた一抹の不安を、ナターシャは大きく首を振って否定する。
「シュヴァルツ様は、絶対そんなことするような人ではありません! 皆様はただ、昔のシュヴァルツ様と、今のシュヴァルツ様とのギャップに困惑されているだけかと思われます。かつてのシュヴァルツ様は、少し近寄り難い雰囲気がありましたから……」
ナターシャは昔の俺がとある少女に握手を求められた時の話をしてくれた。
◆
「握手してください!」
差し出された手を、俺は無言で見続ける。
「あっ、あの。握手を……お願いできないでしょうか? それとも……やっぱり私じゃ……ダメですか?」
二度目の問いに、ようやく俺は反応し口を開く。
「……この世は弱肉強食! 食うか食われるか、だ! 俺を欲するならば、文字通り俺を殺すつもりで来い!」
直後、俺の背後には獅子を幻視させるほどの凄まじい威圧感が生じたという。その獅子の幻影は少女に向けて吠えかかると、俺の圧を受けた少女は後方へと一歩下がった。魔王を倒した俺の発するオーラは、他者に物理的な圧力を与えるほどの領域にまで到達しているらしい。……因みに当の俺自身はそんなオーラを放っているという自覚はないらしい。
少女は握手を諦めて差し出した手をすっと下げた。
「……すっ、すみませんでした! 私には、そこまでの覚悟は持ち合わせておりません。こうやって、殿下とお話できただけで満足です。ご迷惑をおかけしました……」
そう言い残し、背を向け立ち去ろうとする少女に対して俺は叫ぶ。
「待て! ……まぁ、その、なんだ。今回は特別サービスだ。ありがたく受け取れ! ……あと、そう卑屈になるな。王国民であるという自覚があるのなら、もっと自分に誇りを持って生きろ! 良いな?」
そう言い、俺はぎこちない笑みを浮かべて少女と握手を行う。心なしか、そんな俺の背後にいる獅子も申し訳なさそうにしているように感じられたとか……。
◆
「……という感じです。たしかに、ちょっと素直ではない方でしたけど、お優しい方であるのは確かな事実です!」
「いやいやいや……素直とか優しいとかそんなことよりも、もっと色々と気になるところがあるんですけど……! てか、なんで握手するだけなのにそんな大袈裟な話になるんだよっ……!」
ナターシャの話を聞いた俺は頭を抱えた。
以前、母さんに、かつての自分を演じることを止められたことがあったが、その理由は今ならよくわかる。
決して、真似できるようなやつなんかじゃない。別の生き物と考えた方が良いくらいだ。
「照れ屋さんだったんですよ。それに、本当に貴方が嫌な人だったら、こんな風に皆さんから祝福なんてされません」
と、ナターシャは昔の俺をフォローしてくれた。
まぁ変わったやつだったのは間違いないだろうけど、確かに悪いやつではなかったのは何となくわかった。
……ただ、あまりにも思考回路が違うせいか、昔の俺に対してのイメージというものが未だ全然掴みきれていない。
特に、ナターシャに対しては、先の握手の件のような回りくどいことはしなかったようで、会う度にいつも歯の浮くような甘い言葉を投げかけまくっていたらしく、その行動がより一層、かつての俺が何者なのかを難解にさせる要因となっていた。
しかし、記憶を取り戻すためには、色々な側面で俺という存在を理解する必要があると思っている。
多少心が擦り減ろうとも、これは避けては通れない道だ。深呼吸を数回繰り返し、俺は過去の自分と対峙することを決意した。
「さっきの、その……あーんの時の反応も……昔の俺と今の俺とで、違ってたりするのでしょうか?」
記憶を失う前の俺を知るという行為――特にナターシャと築き上げてきた思い出を知ることに関しては、最早俺の中で怖いもの見たさに近い何かへと昇華されている。
……想像してみてほしい。
かつて婚姻関係にあった男女のことを。その男は自分であって、自分ではない状況を。
もはやそいつは俺の体を乗っ取りながら行動している別人格……いや、ミュータントと言って差し支えない。
……つまり、先の握手の件のように、今の俺には絶対に想像できない言動を平然と行っているはずだ。
話によると、俺たちの関係はかなりプラトニックであり、キス以上の進展はなかったようだが、昔の俺のことだ。きっととんでもないことをしているに違いない。
黒歴史ノートを開けるようなゾワゾワ感は、きっとこんな感じなのだろう。……いや、全く覚えがない分、もっとタチが悪いかもしれない。
ナターシャは照れながら話し始めた。
「昔のシュヴァルツ様は、私が差し出したパイを食べた後……私の……ふふっ!」
途中でナターシャがにやけ始めたせいで、話はそこで止まってしまった。
何やらパンドラの箱を開けてしまった気もするが、ここまで来て後戻りするという選択肢はない。さぁかかってこい、昔の俺よ!
「パイを食べた後……俺は貴女に何をしたのでしょうか?」
思わず気になりその話の先を急かす。
色々な覚悟を済ませているため、恥ずかしくて悶絶するような事にはならないだろう……多分。
すると、ナターシャの顔がすっと俺の耳元まで近づいてきた。
女性特有の優しい香りが鼻を抜け、彼女の美しい金色の髪が俺の肩に乗っかる。
……近い! しかも良い匂い!
周囲からは再び黄色い歓声が上がるが、今はそんなことに意識があまり向かない。
何せ俺は女性慣れしていない。心構え無しで急にこのような形で接近されると、どうしてもドキドキしてしまうというもの。
ちょっとした混乱に苛まれている俺に、恥じらいを含んだナターシャの湿っぽい声が、脳内へとダイレクトに侵入した。
「パイを食べた後、そのまま私の手のひらに付いているクリームを舌で舐め取って、『ナターシャの手は、甘くて美味いな。どんな甘美な菓子よりも、俺の最高の好物はお前だ!』って仰ってくれましたっ! その後続けて、『このクリームは罪深いな……。俺にナターシャの味を知るきっかけを与えた。今すぐこの場でお前をもっと深く味わいたくなってきた……』と仰りながら、キリッとした表情で私の目を見つめてこられたんですけど、その時のシュヴァルツ様の鼻先には、クリームがちょこんと乗っかっていて……ふふっ、とても可愛らしかったですっ!」
言い終わると、すっと俺の耳元から離れ、ナターシャは照れるように笑った。
「ぐはっ!?」
魂が抜けるような感覚と共に、俺はその場に倒れ込んだ。
あ……ああああああ! 死にたい、死にたい、死にたいぃぃぃ〜〜〜!!!
もし目の前に机があったら、きっと俺は何度も頭を叩きつけていただろう。
何をしてるんだ、昔の俺は!? てか、そいつ本当に俺なのか!?
そんな悶え苦しむ俺への追撃はまだ続く。
「その後ですね……」
「えっ、この話まだ続きがあるの!?」
「……はい。流石にここでは言えないので、また別の機会に話しますね」
……ここでは言えないことってなんなんだ!? 俺は一体ナターシャに何をしたんだ!?
気にはなるが、今の俺ではあまりにも刺激が強すぎて、これ以上はキャパオーバーというやつである。
後戻りしないと決意を固めたつもりだったが、チキンハートな今の俺では撤退しないと本当に魂が抜けてしまいそうだ。
それはまずい。下手をすればショックでまた記憶喪失になりそうな気もする……。
「ああ、大丈夫です。その先の話は、自力で思い出してみようと思います……」
なんとか言葉を振り絞り、実質降伏を意味する言葉を口にする。
……完敗だ。女性への経験値が圧倒的に不足している今の俺では、昔の俺を受容できそうにない。
この手の話は、もっと女性慣れしてから聞くことにしよう。うん……。
この時俺は完全に油断していた。話が終わったと思い込んでいたのもあるし、実際、ナターシャも話を終わらせようとしていたのは間違いない。
しかし、そこにはちょっとした勘違いが生じていて、俺は昔の俺の話としてナターシャの話を聞いていたが、ナターシャはあくまで俺との思い出を語っていたのだ。
つまり俺が今まで戦っていたのは、昔の俺一人ではなく、一組のバカップルだったのである。
「その方が私としても助かります。自分でもなんであんな事を言ってしまったのか――」
「――ちょっと待って!? 俺じゃなくてナターシャが言ったの!?」
「はい……つい流れで……」
思わぬ形で心にボディーブローをもろに食らってしまった俺は、悶絶しながらその場に倒れ込む。
ナターシャは一体何を言ったんだ!? 一体どんな流れだったんだ!? ……てか、アンタら紅葉見ながら一体何やってんの!? などといういくつかの疑問を残しながら、ようやくこの話は区切りを迎えるのだった……。
「……その……色々あったんですね、俺たちって……」
ひとしきり悶絶を繰り返した後、俺はこめかみをひくつかせながら、なんとか言葉を捻り出す。
精神的なダメージが大き過ぎて未だ節々が痙攣しているが、記憶を失くしたとはいえ、俺は魔王を倒した英雄である。
その身に宿る人並み以上の精神力を総動員すれば、こんなズタボロの精神状態でも会話する気力くらいはなんとか取り戻せるというもの。……そのせいか、この短い時間でめちゃくちゃ老け込んだ気がするが。
「ええ。とってもたくさんのことがありました。そして、今の平和なこの世界は、全てシュヴァルツ様が取り戻してくれたものなのですよ……」
ナターシャは遠い目をして空を見た。俺も自ずとその方向に目を向けると、雲一つない青空が広がっていた。
魔王が世界を支配していた頃は、青空も太陽もドス黒い雲に覆われていて、観察することすらできなかった。
……その間約1000年。人類は魔王に支配された世で、ひっそりと最低限の生命活動を続ける存在でしかなかったのだ。
こうやって、人々が沢山集まり、紅葉を見ながら笑い合うことなんて、ほんの少し前までは誰も想像してはいなかっただろう。
そんな穢れた世界で人類が今まで存続してこれたのは、ひとえに巫女の力があったからこそだ。
魔王によって汚された大地に十分な作物が実るだけの栄養の確保や魔王に対する防衛力……そういった沢山のものを、全てナターシャたち巫女に宿る退魔の力に頼って人類は繁栄してきたのである。
ナターシャはあくまで俺が救った世界と言ってくれるが、それは出来事のほんの一面でしかない。
俺が魔王を倒した裏側には、俺を支えてくれた人たちがいて、巫女のみんながいて。他にもたくさんの、俺が認識できない様々な人たちの、そんな陰ながらの支えがあったからこそ成し遂げられた偉業なのだろう。
……そういった知識や知識を基づいた考察に関しては、おそらく昔と同じようにできていると思う。だけど、俺には何一つとして誰かとの思い出は残っていない。
せめてここまで俺を好きでいていくれているナターシャのことくらいは思い出してあげたい……否、思い出したい。
そう思っていると、あの日の――俺とナターシャが婚約破棄した日の一幕が脳裏に蘇った。
◆
「婚約を解消しましょう」
「私を愛していますか?」というナターシャの問いかけに対して、俺は「貴女への愛はありません」と返した。
その直後、ナターシャは俺に婚約破棄を突きつけたというわけだ。
何故こんなことを突然言い出したかはわからないが、自らのことを忘れた婚約者に対して、愛想を尽かしたということなのだろうか。
……よくよく考えれば、彼女が今まで婚約を解消しなかったのも、記憶を失くす前の俺への負い目からだったのかもしれない。
昔の俺はナターシャにゾッコンだった。
それは俺が魔王を倒すという偉業を達成する大きな原動力となったほどだ。
そんな強い恋心を抱く俺への恩義から、今まで婚約を続けてくれていたとしたら……?
そう考えれば色々辻褄が合う気がする。俺が記憶を失くしたこの一件は、ナターシャにとって、俺たちの関係を見直す丁度良い機会となったのだろう。
「わかりました……。それが貴女の望みでしたら、俺はその決定に異を唱える理由はありません。結果的に、貴女を縛る枷は全てなくなりましたが、元婚約者のケジメとして一つだけ言わせてください。貴女のこの先辿る人生に、たくさんの幸福があることを心より祈っております」
巫女としての運命に翻弄されていた彼女は、こうして、遂に全てのしがらみから解放されたというわけだ。
かつての俺がこのような結果に対して納得するのかはわからないが、これからは何にも縛られずに彼女が望む幸福を追い求めて欲しいと俺は心から願っている。
……どうか、幸せになってくれ!
そんなことを考えている俺とは対象的に、ナターシャは明るい笑顔を俺に向けてきた。
「はい、もちろんです。……ところで、シュヴァルツ様、明日以降のご予定をお訊ねしてもよろしいでしょうか?」
何故このようなことを訊ねて来るのか疑問に思ったが、特に隠す理由もない。俺は正直に答えた。
「母さ――否、女王陛下からは当面の間、失くした記憶を取り戻すことに専念するようにと言われておりますが……これと言った予定があるというわけではありません。取り敢えず、俺と縁のある場所を順に巡って、記憶が蘇るかどうかを試してみようと考えております」
「でしたら、何処に行くかは、私に決めさせてください! シュヴァルツ様のことなら、この私が一番よくわかっておりますから!」
爛々と瞳を輝かせながら、ナターシャは俺が記憶を取り戻すためのプランを練り始めた。
……いや、ちょっと待って欲しい。
俺たちは、つい先程婚約を解消したばかりだ。世界ひろしと言えど、その直後に別れた婚約者と一緒に過ごすことを計画する人間がどこにいるというのか。
「待ってください……! 話が見えてこない……。貴女は、俺に嫌気がさしたから婚約を解消したのではないのですか!?」
そんな俺の言葉を、彼女はキッパリと否定する。
「いいえ、今でも変わらず私は貴方のことを愛しております! たとえこの先、何が起きようとも、この気持ちが変わることは永遠にないでしょう。だから、シュヴァルツ様が先程言われたように、私は――貴方と共に幸せになります」
「そこまで俺のことを想って頂けているのなら、婚約を継続しておく方が貴女にとって一番最良の選択だったのでは……?」
「そんな形だけの気持ちのない婚約を私は望んでおりません。シュヴァルツ様が私のことを愛していないのなら、婚約は契りではなく、ただの枷。私は貴方の心からの愛が欲しいのです」
「そうは言いますが、昔の俺と今の俺とでは全くの別人だ……! 絶対に貴女を好きになる保証なんてどこにもありはしない! ……悪いことは言わない。俺といても貴女の欲しているものは、手に入る可能性は低い。さっさと俺のことは諦めた方がいい……!」
現にここまで言い寄られているはずなのに、俺には恋心のようなものが芽生える気配はなかった。
ナターシャは、美人だし、とても一途な良い子だ。俺には勿体無いくらいである。
だけど、記憶が消えたことで、俺自身の趣向自体が変わったのかもしれないが、彼女に対して俺が抱く感情なんて、かつての俺が愛していたという意味での興味のみ。
確かなのは、今の俺では彼女の求める愛を与えることはできないということだ。
そんないつ戻るか、戻らないかもわからないものに賭けるよりも、さっさと俺を忘れて次の恋……或いは別の道に進む方が彼女のためである。
だけど、そんな現実主義者である俺とは対照的に、彼女はあくまで理想を語る。
……そして、その理想の正体は、皮肉にも昔の俺が彼女に齎したものだった。
「私は貴方が魔王を倒してまで欲した女。そんな貴方が、魂の底から私への想いを忘れたとは思えない。仮にそんな想いが消えて失くなっていたとしても、私が必ず貴方を振り向かせてみせます。だから、もし貴方が私をもう一度好きになってくれたら、その時は――」
彼女は俺に視線を向ける。海のような美しい瞳を笑みの形に細め、顔は仄かに紅潮していた。
――私と結婚してください!
と、記憶の失くした俺は、ナターシャにプロポーズされたのだった。
俺が彼女への愛を取り戻すその日を信じ、ナターシャはずっと俺を待ち続けてくれるらしい。
つまり、婚約という見える形の枷で俺を拘束するのではなく、俺とナターシャを繋ぐ、見えない運命の赤い糸で、俺と彼女の心が繋がっていることを信じたということだ。
彼女が言うには、待つことには慣れているという。俺が魔王を倒し、その帰りを待っていたあの頃と比べたら、俺が目の前にいる分安心できると笑っていた。
◆
「……ずるいな、昔の俺は」
思わず漏れた言葉はかつての俺自身への嫉妬だった。これほどまでに俺のことを想い、慕ってくれているナターシャとの思い出を、過去の自分に独り占めにされているような……そんな独特の気持ちに苛まれてしまったから発した言葉だ。
そんな気持ちを隠すように、俺は自らが取り戻した澄み渡るように綺麗な青空を眺めるのであった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
本編の方に登場したシュヴァルツ親衛隊隊長が実は主人公の記憶喪失に気づいていたネタ、ヒロインに昔の主人公が魔法を教えていたことに嫉妬するネタ等はまたどこかで披露するかもしれません()