1
連絡船から望む初秋の海は午後の日差しに煌めいていた。酒井美輪子は、絶望と失意の中で、一縷の望みを託し、連絡船に乗った。
連絡船を降りると、黒い夏帽子の鍔を上げ、辺りを散策した。行き交う島の民は、顔に皺を刻み、茶褐色に灼けていた。
旅行鞄を提げた美輪子は、海に続く小径を下りた。途中、小径を囲う木の柵に腰を置いて煙草を吸っている高校生風の三人の不良少年の前を横切ると、砂丘に腰を下ろした。
波は穏やかだった。美輪子は海を見つめながら、峰岸豪のことを考えていた。――
豪に初めて会ったのは、行きつけだという同僚に誘われて行ったパブだった。同僚数人と駄弁っていると、後方でギターの弾語りが、美輪子の好きな歌を歌っていた。ゆっくり振向くと、そこには、目を閉じて語らうように歌いながらギターを爪弾く男が、哀愁を漂わせていた。
美輪子はその歌声に酔い痴れた。美輪子は一人で通うようになり、やがて、豪と付合うようになった。
豪がくれた合鍵を使うと、時間帯の違う豪のマンションに行き、週に一度の休日、掃除や洗濯、料理を作ってあげた。そして、食後にグラスを傾け、ほろ酔いになると流れのようにベッドで寛いだ。
ひと月ほど過ぎたある日、美輪子は風邪を引いて会社を休んだ。薬で症状が治まると、豪を驚かそうと、チャイムを押さないで合鍵を使った。
すると、そこにあったのは、綺麗に揃えられた黒いパンプスだった。……まさか、と思いながら、震える指で寝室のノブを回した。
あっ!と心の中で発し、目を丸くした。ドアを開けたそこには、豪の裏切りが具体的な造形を成していた。息を呑んで後退りした美輪子の指先から食材の入ったスーパーの袋が滑り落ちて、ブシャっと音を立てた。途端、二つの顔が同時に向いた。――
気がつくと、明かりのない部屋に街灯が漏れていた。壁に凭れた無気力な体は呼吸をする度に僅かに動いていた。豪の恋人のつもりでいた。……違ってた。じゃ、どうして、合鍵なんかくれたの?……こうなることを予測した上での刺激欲しさ?……くだらない男!会社に行く気も失せた。あのパブに誘った同僚にさえ腹が立った。
翌朝、休む旨の電話をする気分にもなれず、郵送で有給休暇の通知をすると、美輪子は旅行鞄を手にした。行き先はどこでも良かった。……南の海にしよう。夏服しか詰めなかったし。美輪子はそう思いながら、新幹線の自由席の窓際に腰を下ろすと鞄を横に置いた。誰にも隣りに座って欲しくなかった。弄ばれた、愚かな自分の顔を誰にも見られたくなかった。――
博多で乗り換え、長崎で降りると駅前のビジネスホテルにチェックインした。窓辺に佇みながら、……この際だ、離島まで行ってみよう、と思った。気がつくと、水平線からのオレンジ色の夕日が海を染めていた。――テレビのニュースを見た。
翌朝もまたテレビのニュースを見た。十時にチェックアウトすると、中華料理店で食事をしてから観光をした。午後、埠頭から連絡船に乗った。――そして、砂丘に腰を下ろしたのだった。
海辺のホテルにチェックインすると客室から、炎える夕日を眺めた。夕日を浴びた哀れな顔がガラス窓に映っていた。――そしてまたテレビのニュースを見た。
翌日、近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら新聞を捲った。――そこを出て、展望台まで上ろうとした時だった。
「ね、東京から来たと?おい達が観光案内ばしてやるけん」
少年が二人、突然、背後からやって来て、美輪子の前に立ちはだかった。
「……いぇ、結構」
美輪子は見上げると、迷惑そうな顔をして前を横切った。
「結構、って、よか、って意味ね?したら、手ばつなごうで」
長身の痩せた方が美輪子の右手を握った。
「ちょっと、何すんのよ!」
美輪子は少年の手を振り払おうと力一杯に腕を引っ張った。
「案内してやるけん」
小太りの方も手を握った。
「オイッ!何ばしとっとや!放さんか!」
別の少年がそう怒鳴りながら後方から坂を駆けてきた。
「ヤバッ。おい、逃げようで」
長身は美輪子から手を放すと、小太りに声をかけて一目散に逃げ去った。
「大丈夫ね?」
顔を小麦色にした長髪の少年が優しく訊いた。
「……ええ。ありがとう」
美輪子は痛そうに左手を擦った。
「……病院に行くね?」
少年が心配そうに訊いた。
「大袈裟ね。大丈夫よ」
美輪子は苦笑いした。
「……観光ですか?」
「……ええ。まあ」
「俺、田宮佑輔って言います。この島で生まれ育ったジゲもんです。よかったら、この辺ば案内させてくれんですか」
町おこしの一環のような少年の言回しが美輪子は可笑しかった。
「……じゃ、お願いします」
「ハイッ」
白い歯を覗かせた佑輔は前に立つと、美輪子を誘導するかのようにゆっくりと坂を上った。
小さな神社の木陰で涼を取りながら、そこから一望できる海の景色を堪能した。こういう、観光名所にないスポットはジゲもんならではだ。
「……学校はどうしたの?高校生でしょ?」
十歳ほど離れた少年を弟のように扱った。
「たまに行っとる」
そう言いながら、ジャージのパンツから煙草を出した。
「……煙草は体の成長を止めるのよ。二十歳から、と言うのは伊達や酔狂で掲げてるわけじゃないの。ちゃんと理由があるのよ」
いつの間にか保護者になっていた。
「……現在、理想的な体型を保っとるけん、これ以上成長せんちゃよか」
「それだけじゃないわ。体にだって良くない――」
「分った。明日からやめるけん」
説教は聞きたくないと言わんばかりに、美輪子の話を遮った。
「……」
観光マップに載ってない名所を佑輔に案内してもらうと、美輪子は礼を述べた。
「……明日も会いたか」
佑輔がぽつりと言った。
「……」
「下の喫茶店で待っとっけん。……来るまで待っとるけん」
「……行けたら……ね」
美輪子は曖昧な返事をした。
美輪子はホテルに戻ると、夕刊を手にして部屋に入り、全国ニュースの時間に合せてテレビを点けた。