1.初恋と仕事
リュミネ=ショウ=ゲントリックは我知らず溜息をついた。
彼女には悩みがある。
はたから見れば一目でわかるくらいに悩みがある。
わずかに開いた唇は桃色に色づいているが、そこから出る呼気は咲き誇る花も枯れそうなほどに深くて重い。
手入れの行き届いた長いハニーブロンドは丁寧に編み上げ纏められ、わずかな光でさえキラキラと輝いているのに、その雰囲気は光源を捻じ曲げたかのようにどんより暗い。
少女らしさが残る面立ち。優し気な下がり眉と長い睫毛。紫がかった碧い大きな瞳。目と鼻と口の位置は手本のように形よく配置され、歳若いために化粧はないが、それが必要ないほどに、おそらく骨の形から整っていた。
普段は努めて表情を崩さぬようにしているその顔に、ときどき眉間に小さな傷のようなしわが寄る。
顔や首筋、手など、上質な服の隙間から、わずかに見える肌は透き通る程に白い。華奢な小さい体つきで、儚さのような弱々しいような印象も与えるが、背筋は直線が入ったようにぴんと伸びている。そんな貴族らしいかっちりとした佇まいであるが――
彼女は椅子に着座し、手は膝の上。足は揃える。表情を崩しているわけでもない。しかし、本人は隠しおおせていると思っているが、作法通りにしていてなお微妙に重心がぶれていて、彼女の無意識からなる違和感が周りに悩みを暴露している。
侍女たちと守衛に知らぬ振りをさせるほどに深刻そうな悩みだった。
物憂げに空を見る。
心とは裏腹の青空が広がっている。
リュミネは王女である。
公務の合間、滞在する屋敷に広がる庭園の東屋の下。
常であるならば、このように椅子に座り花を眺めるのは、一時落ち着ける時間であったはずなのに――
今はただ、自分の心が、不安定で、不定期に、ざわざわと騒いでいて、重くゆっくり沈んでいってしまう。
あさましい悩み。
自分自身、自らの立場から見ても、世間の常識からしても、この悩みが深刻なものでないことは承知している。
それでもなお、悩みというものは、まるで消え去ってくれないから「悩み」なのだろう。
恋は思案の外
まさに、そのことわざの通りだ。
胸に秘める相手がいる。
劇的ではあるけれど、実際当事者になってしまえば、思いの置き所なく、いたたまれず、途方に暮れるばかりで。
生まれてから十六年、恋をしたことがなかった。
詩や物語に語られるそれを、もちろん知ってはいた。
人から聴いたこともあったし、読んだこともある。観劇したこともあれば、空想したこともある。
けれど、それに出会ったことは一度もなかった。
社交界、教会、市井、学びの園。公務の中で、生活の中で、色々の人たちに出会った。
友人や侍女たちが噂する端麗な貴公子の方々とも、勇猛果敢な騎士たちも知る機会はあった。
彼等のことは美しいとも感じたし、敬慕の念を向けられれば誇らしいとも思う。
けれども、不思議なことに恋ではなかった。
だから、自分はそういう感受性がないように思っていたのだけれど――
落ちた。
恋を『する』のではなく、『落ちる』と言う表現。その意味を身をもって知ってしまった。
知らず自分ではどうしようもない落とし穴。
どこで足を踏み外してしまったのか、理性では抑えきれてくれない感情。
そういったものを抑制できるように教育されてきたというのに。
王族である以上、思うがままに恋などできるはずもない。
――それなのに、自分の心が言うことを聞いてくれない。
衝動のような、感情のような、とても強い心の熱。
あの人を思い出すだけで、ほおがひとりでに温かくなる。鼓動が高鳴り耳にまで届く。
精悍で、颯爽として、綺麗で――
ああ、その、これは、よくない。
立場や身分を省みれば、私のような若輩者でもすぐに理解できる。
何度考えてもそうなる。くりかえしくりかえし、夢の中にまででてくるほど、どれほど慕ったとしても、うまくいくことなどありえない。
それなのに――
そもそも、あの人は自分を一人の女性として見てくれてはいない。
呼び名も、態度も、うまく今の状態を説明できないけれども、一番近いのは――姉妹のように接してくるのだ。
嫌われているわけでは、ない。
決して、それが嫌なわけでもない。
ただ、心は、身勝手にもそれ以上を求めてしまう。
慕われるのは嬉しい。けれど――
それに満足できない自分が、とても厭わしい。
リュミネは、また我知らず今一度溜息をついた。
その姿を見て、侍女と守衛も音を出さぬように溜息をついた。
別のことを考えよう。
強く意識すれば、あの人のことを考えずに済むのだから。
解決できないことは棚に上げる。いつ下ろすのかは決めていない。予定は未定です。
仕事に逃げる。とは、いつか、誰かから聞いた表現ではあったけれど、まさか、こんなにも身につまされるとは思わなかった。先人の言葉は偉大ですね。
大きく深呼吸。
公務。現在、自分の役目を再確認する。
今、私がいるのは国の境界。人知と未開のちょうど境目。
この屋敷は王家が持つ別邸を改装して、新たに領地を開拓する事業のための仮の住まい。
自身の役目は、ここで開拓事業の最高責任者を少しのあいだ務めることにある。
王家が主導してやっているのだということを示す代表が自分。リュミネ=ショウ=ゲントリックなのだ。
もちろん、公的には自分はまだ学生の身である。実際の権限などは、ほとんど持っていない。
計画の立案や、運営を指揮するものはきちんと別にいる。
しかしながら、お飾りの立場と言えど、王家の代表だという自覚は持っていなければいけない。こういった緊急の派遣仕事は私のような若輩がいかねばならないのだから。
さすがに妹と弟には、まだ荷が重い。
それに、期待されている役割は別にある。
他種族との外交交渉と、治安維持だ。
自分の持つ王族という立場というものは決して無力なものではない。王族が決めたことというのは、それだけで社会的な意味をもってしまう。
それは、私のような者でも例外にはならない。
それと、貴族の最大の義務である「守護」についてならば、自らの「力」は有用だという自信がある。
開拓の行う事業は、とても幅広い。その土地と周囲を調査し、人々を呼び、食べるものを運び、ものを運び、道を作り、家を建て、境界を定め、井戸を掘り、畑を起こし、村を作り、商業を振興し、町へと育てていく。
その全部を警護しなければならない。
私たち貴族は、自らの持ちうる、あらゆる「力」を行使する義務と責任がある。
人族は強くない。貴族ならば、みな、そう習う。
言葉を使用する種族の中で比べれば、身体もそれほど強くなく、限られた場所でしか生きることのできない種族が人。
けれど、それでいてなお一定の版図を保ち続けられているのは、不断の探求心を持ち、知恵と英知を受け継ぎ教育し、自らの命を超える誇りを保ち、貴族の持つ特別な「力」を正しく行使するからだとも教えられる。
私自身の持つ「力」も、役に立たせないといけないのは、そこなのだけれど――現状ではうまく使うことができていない。
現在、最も開拓者を悩ませているのは近隣に住む種族、バグベアとの関係が悪化していること。
私は、この解決のために赴任したと言ってもいい。
自分の「力」は現状を直接的に解決へと至るものではない。どちらかと言えば、調査や前準備の方に役立つものだ。
外交交渉か武力行使。話し合いか戦争。
難しい舵取りだった。
報告の内容を思い起こす。
発端は開拓側の過失。知らず、森の種族バグベアの領域を開拓してしまったのだ。
この開拓地に赴任するまで直接バグベア族に会ったことはなかったけれど、学校で得た知識や騎士たちの話を基に種族の社会的特徴も並行して思い出す。
バグベア族は森や山に住む種族で、人族のように大きな集落を作らない。
森や山に溶け込む隠れ家のような家を持ち、お互いの家同士は距離を取り、個や親子で定住している。
彼等は山間を踏破できる丈夫な身体を持っており、ためにあえて道を整備する必要もなく、それでいて行動範囲自体はとても広い。
その社会的な要因が悪く重なり、事前の調査では住む領域を発見できず、こちら側の伐採整備が進んだのち彼らと接触する流れになってしまった。
こちらの怠慢から領地を「侵略」するという、とても悪い流れだ。
彼等は武闘派だという。
自分たちの住む場所をおびやかすものに容赦はせず、一歩も引かず猛然と戦うという。
姿は別の動物で例えれば熊に似ていて、体は大きく、男性の身長は人族の屈強な騎士と比べても半人分は大きい。体重ともなれば四人分にもなる。女性のバグベアでも人族の男性よりも一回りは大きい。
普段は二足で歩み、全力で走る際は四足になる。
顔立ちや体毛の生え方も人よりもやはり熊に近い。直接間近で接したことのある人たちによれば、目から頬顎のあたりにかけてはやや体毛が薄く、肌は黒い。
体毛には人族のような眉毛の区別があり、瞳も人族同様に白目の区別があるためか、野生の熊と違って喜怒哀楽などの表情を見てとることができるそうだ。
髪にあたる部分の毛を伸ばすものや、男性は髭を伸ばすものもいるそうで、慣れれば人のように顔の輪郭の違いなどで分かるようになるという。
私が彼等を遠目に見た印象だけでは、唸り声を上げながら暴れる武装した熊というような姿だったので偏見を持たぬよう気をつけねばならない。
また、彼等は言葉を話し、普段は軽装の服を身につけている。
人族と共有できる文化を持っているのは、事態打開への好材料だ。
男性は全員が戦士で、武器や防具も自分達で作成する技術を持っている。ただ、人族ほど手先が器用ではないからなのか、高い精度の加工はできない。
主に使用する武器は爪と斧。服は人と変わらず、鎧などの防具は、毛皮のやや薄い部分を守るように体の前面や下半身に着ける。鎧をつけない背中の側は、とても厚い筋肉と脂肪の上に毛皮が覆われていて、普通の剣士くらいの腕前では断ち切ることは無理という。
とても強い身体を持つ種族なのだ。
これほどの力を持つものと、人が争い戦ったらと思うと――
想像して、また気持ちが暗く沈む。
さらに危険なことは、元から定住しているバグベア族だけでなく、「穴持たず」と呼ばれる放浪のはぐれバグベアも現れ、数名この事態に介入している。彼等は時折開拓地の家畜や食料などを狙って侵入していた。
私が実際に、――遠くからではあるけれど――見たのは、「穴持たず」の彼等だ。
幸い――と言ってもいいのか分からないが、まだお互いの種族に犠牲者は出ていない。けれども、時間の問題かもしれない。
「穴持たず」のバグベアたちは、略奪や傭兵などで生きることを旨としている。ひょっとすると人側の領地を得るために今以上の強攻策に出るかもしれない。
なんとかして、本格的な戦闘は避けなければいけない。
騎士団の話では、バグベアの戦士ひとりに普通の兵士では五人で、ようやく五分だという。
「力」を持つ貴族の騎士でも一対一は原則的に避けるように教育される。
この開拓事業には、全員貴族からなる王国騎士団が付いているけれど、いたずらに消耗させるわけにはいかない。
なにより、こちらの都合だけでバグベア族と戦闘するなど論外だ。ここで意地を張る意味も理由もない。必要であれば、自分の頭などいくらでも下げる。
ただ偉ぶるだけの貴族など醜悪なだけなのだから。
交渉は進んでいない。
集団にリーダーがいないという、バグベアの社会の仕組みから、誰と話してよいのかさえ最初は判断がつかなかった。
交渉に出向いた責任者と騎士団は、彼等と話し合うこともできず、二十名近く集まった彼等にものすごい剣幕で追い返されている。
謝罪や賠償を行おうにも、彼等がなにを望んでいるのか、まだ分かっていない。
バグベア族と人族の交流は薄い。言葉は通じるものの、「隣人」か「敵対」か。それが、私たちと彼等の関係だった。
いっそ、私が実際の交渉に立つべきだろうか。
王族であれば彼等も話を聞いてくれるかもしれない。それに、裁可などの事務的な手続きも省略して交渉できる。
この休憩が終わったら、そのように提案してみよう。
避けられる戦いならば避ける。
必要のない血が流れるような悲劇は起こしてはいけない。
双方血を流すことのない、好い解決策が見つかるとよいのだけれど――
「姫様」
侍女長ショウカの、やさしくしっかりとした声。
肩の上で切りそろえられたキャラメルブラウンの髪に、ブラウンの瞳。私よりも頭ひとつぶん背が高く、とても落ち着きのある彼女。
十九歳の、友人と言うほど気安くはないけれど、側周りの仕事を頼むだけと言うほど堅苦しくもない。まるで姉のような彼女にはいつも助けられてばかりだ。
休息時間は終わりである。