第40話 水戸黄門 破
密偵の尾行に気づかない男は、街の奉行所の中に入っていった。
しばらくためらうが、密偵も塀を越えて潜入する。
もう一つ、飛び越える気配がしたが、音もないので気のせいだろう。
先ほどの男は歩いている。
ある部屋の前で膝をついた。
「入れ。」
「失礼します。」
まずは社交辞令だろう。今のうちに屋根裏に潜入しなくては。
屋根裏に来た。
やっぱり誰かの気配はするのだが、見つからない。幽霊でもいるのだろうか。
「それで、お奉行様。私の計画になんとか加わっていただけないでしょうか。もちろん心づくしは用意してございます。」
「ほう。」
「こちらに。菓子を少しばかり。」
男はちらりと木箱を開ける。
金色が光った。
「風魔屋の後継ぎよ。お主もなかなか悪じゃのう。」
「いえいえ。お奉行様ほどでは。」
「先代は、わしになびこうとしなかった。お主が賢い男で嬉しいぞ。」
「こうして繋がりがあった方が何かと便利ですから。」
「その通りじゃな。はっはっは。」
「それでは、三日後、頼みましたよ。」
「ああ。出火は先代の責任としてやろう。何、町人風情はわしには逆らえぬ。」
「そうでしょうとも。」
媚びへつらう男。
密偵は正義感に燃えた。これほど典型的な悪党を見たのは久しぶりだ。
黄門様に報告せねば。
彼の頭の中からは、隣に感じる奇妙な気配のことはすっぽり抜け落ちてしまっていた。
そのまま水戸屋敷まで走っていく。
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「何か企んでいるのはわかっていましたが、この程度の稚拙な策だとは。」
彼がいなくなってしばらくして愛は呟く。
技能「忍術」による潜伏はそんじょそこらの密偵の索敵能力では破られない。
「しかし、あの密偵はどこの手の者なのでしょう。敵というわけでもなさそうですが。」
調べてみることにした。
先行は許しているが、あの程度の相手なら、今からでも追いつくことは十分可能だ。
愛は、密偵を尾行し始めた。
江戸の町家の屋根を駆け抜ける。
南西方面へ向かうと武家屋敷が増えてきた。思っていたよりも大物のようだ。
密偵は水戸徳川の屋敷に入っていった。
徳川御三家の一つということに愛は驚く。
先ほどの奉行所よりもさらに警備は厳重だったが、技能「忍術」の前に敵はいない。
侵入に成功した。
先ほどの密偵を見つける。
彼は急ぎ足で一室に消えていった。
愛は頷いて天井裏に向かう。
御庭番らしき人物が見張っていたが、当然見つかるわけもない。
無事に話を聞ける場所に潜入した。
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密偵が情報を持ってきた。
なんでも風魔屋の後継ぎが悪巧みをしているらしい。
「遊女の言葉もあながち間違いではなかったのですね。」
「市井のものは時に鋭い。尊敬をもって接さねばならんぞ。」
「さすがはご老公様。」
「ホッホッホ。まあ、この屋敷の中じゃし、その呼び方でもよい。」
「それでは三日後、風魔屋に顔を出すということで?」
「そうじゃのう。せっかくの権力じゃ。活用せぬわけにもいかんじゃろう。」
「はっ。」
佐々木助三郎と渥美格之進は、頭を下げた。
彼らがその天井裏に潜む影に気づくことはなかった。
「なるほど。水戸のご老公。先の副将軍様ですか。なら、私が動く必要もなさそうですね。」
呟く愛の声は当然誰にも聞かれなかった。
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そして、三日後。
風魔屋でボヤ騒ぎがあった。
大旦那の前で火事が起きたように見せたかったようだが、超速で銀孤が消し止めていた。
そこに、後継ぎの男が到着する。
「大旦那。まさか火をつけたのですか?!」
少しも燃えていなかったが、今更後には引けなかった。
「今、何か言ったか?」
小太郎は動じない。
「くっ。とりあえず表に来てください。」
かえって後継ぎの男の方が動揺していた。
「いいだろう。」
悠然と出る小太郎を見て、彼は間違えてしまったのではないかと今更焦る。
もう遅い。
「なんだこの騒ぎは。」
打ち合わせ通り、偶然お奉行様が通りかかった。
「大旦那が自分の店に火をつけたのです。ご乱心です!」
後継の男は扇動する様に言う。
だが、同調するのは、小物ばかり。
狙っていた様な大きなうねりは起こらない。
「その様な真似をするとは不届き千万。神妙にお縄につくが良い。」
言われていた流れと違う。
首をひねりながらも町奉行は権力を用いて強行することにした。
町人風情が逆らうとは思わない。江戸は絶対的な身分社会だ。
小太郎を捕まえるべく与力と同心が彼を包囲する。
だが、近づけない。彼は紅毛碧眼の恐ろしげな顔つきをした男だ。与力たちは気圧されていた。
「何をしておる。ひっとらえろ!」
町奉行は顔を真っ赤にして怒る。
「そこまでです!」
「何者だ!」
そこに現れたのは、二人の供を連れた頭巾をかぶった老人だった。
「あっ、あの人はこの前来た⋯⋯。」
取り囲む群衆に混じった遊女が呟いた。
「町奉行は、その男と通じている。」
「何を根拠に?!」
「三日前の夜、会っておったじゃろ?」
「うっ。」
「わしの手のものが、その会話を全て聞いている。観念するなら今のうちじゃ。」
町奉行は怒りで顔を真っ赤にした。図星を指されたのを隠すためでもある。




