第31話 三増峠の戦い
今川義元が桶狭間で討ち取られたのち、駿河の情勢は不安定だった。
蹴鞠バカこと今川氏真には広大な今川領を治めて行く器量はなかった。
そこに目をつけた武将がいた。
甲斐の虎。武田信玄である。
そもそも、彼が強敵の上杉謙信と5度の川中島の合戦をしたのは海を手に入れるためだ。
駿河は今川義元が抑えていたため、隙がなかった。
だが、今なら面倒な謙信と戦うことなく海を手に入れられる。
信玄は貪欲だった。
嫡男である武田義信はそれを諌めようとする。
昔、小太郎に絡んだ頃のバカっぷりはどうしたのだろうか。
「父上。駿河に攻め入るとは誠ですか?」
「おお。義信か。そうだ。海を手に入れる絶好の機会。逃すわけにはいかぬ。」
「北条との同盟も崩れるやもしれませぬぞ。」
「我らが領土を拡大する機はいまをおいてない。もう良い。下がれ。」
「父上⋯⋯。」
この会話ののち、義信は反乱を企てたとして幽閉されることになった。
武田の後継者は四郎勝頼へと移るのだった。
長男という反対派を幽閉し、国内意思を統一した信玄は駿河に侵攻する。
武田、今川、北条の三国同盟はこうして破棄されることになった。
北条氏康は、今川氏真に嫁いでいた娘の命を救うため、駿河に出兵した。
ここに北条氏は武田を敵として迎えた。
北条が味方したにも関わらず、氏真は武田の勢いに抗しきれなかった。
彼は三河の徳川家康の元に身を寄せた。
後の事を考えれば、幸せな選択だったのかもしれない。
ともかく、戦国大名としての今川家はこれで滅びた。
置き土産は、北条と武田の敵対関係であった。
迷惑極まりない。
北条家は西に武田、北に上杉、東に里見と、三方を敵に囲まれることになった。
未だ風魔は使い物にならない。
明の教育のこともあるし、彼らの一番の目的である関東平定はすでに終わっている。
初代の頃から仕えている上に、戦場で数々の伝説を打ち立てているのだ。
さらに、歳をとっているように見えないとくれば、恐れられても仕方ないだろう。
氏康としても命令しにくい。
まして、未だ年若い氏政にとってはなおさらだ。
氏康は自力で使者を送り上杉と同盟を結ぶが、その動きはやはり遅かった。
足並みが揃わないうちに、武田信玄が北条領に侵攻してきた。
小田原城を取り囲む。
北条はこの城に絶対の自信を持っている。籠城という選択肢を取るのは当然だった。
信玄は三日ほど包囲していたが、諦めて兵を引いた。ついでとばかりに城下町を焼き払う。
街が赤々と燃えるのが小田原城内の風魔の屋敷から見えた。
「ちちうえー!あれはなんなのですか?」
舌足らずな言葉を明が投げかける。
「火事だ。我々が最も憎むべきものだ。」
小太郎は硬い声で言う。
いつもは子煩悩な良き父親だが、火事に対しては生理的嫌悪が抑えられない。
「信玄様もやってくれますね。」
愛もまた、憎憎しげだった。
火は彼らの主人である大和杉の大敵だ。
彼から生み出された二人も当然大嫌いである。
「ならば、俺たちも動こうぜ。いい加減体がなまっちまう。」
「ええやん。久しぶりに暴れたろ。」
将門と銀孤もそう言った。
4人の意見はまとまった。
火をつけるなどと言う真似をした信玄を許すつもりはなかった。
「私は輝夜のところに明を預けにいくわ。あなたは、氏康様のところへ。」
そう言うことになった。
氏康は大層喜んだ。
信玄を追撃するため軍を編成する。
小太郎は空から信玄軍の動きを確認、別の城に展開していた北条軍に知らせた。
信玄の取った帰還ルートは、一旦東へ行き、丹沢山塊を迂回して今の中央道で甲府に向かうと言うものだった。
十二分に時間はある。
北条氏照と北条氏邦。
氏康の息子二人は、甲斐への退路を防ぐべく、三増峠近くに布陣した。
さらに、将門と銀孤を擁する氏康軍も小田原から進軍してくる。
挟み撃ちの態勢は整った。
「信玄様。斥候から連絡が入りました。どうやら待ち伏せされているようです。」
「やはりか。しかし、思っていたより動きが早い。」
「後方から氏康軍も接近。いかがなさいますか?」
「そちらは、さらに早いな。もう二日は猶予があると思っていたが。」
引きこもっていた北条軍がこれほど早く陣容を整えて出てくるとは、信玄としても予想外だった。
「しかたあるまい。作戦の通りに行く。」
「はっ。」
待ち伏せする北条軍が布陣するのは街道の右側の小高い山。
そのまま通って行くと強襲を受けてしまう。
軍の勢いにも高度が関係するのだ。
その昔義経が鵯越を越え、奇襲に成功したことからもわかるだろう。
下から上は攻めにくいし、上から下は攻めやすい。
だが、信玄には秘策があった。さすがは戦国屈指の戦上手である。
彼は、小荷駄隊(食料を運ぶ役割の隊)を街道上に先行させたのだ。
北条軍は罠か何かではないかと躊躇った。
小太郎が素早くあたりを確認したが、伏兵の類は見当たらない。
北条軍はとりあえず、小荷駄隊を潰すことにした。
突撃する。
小荷駄隊は戦闘の本職ではない。どんどん斬り伏せられて行く。
「おかしい。あの信玄がこれほど稚拙な手を打つか?」
小太郎は一人、首をひねっていた。
武田の陣太鼓が打ち鳴らされる。
後方の武田軍本体が街道の左側の平野の方へ急速に展開していった。
「そうか、志田峠。やられた。」
険しさは段違いだが、そちら側にも山を越える峠があった。
本隊を叩くべく、北条軍は総攻撃をかける。
だが、街道上に散乱する小荷駄隊の荷物と人員が行く手を阻む。
ただの餌としか思えなかった小荷駄隊が、今や立派な障害物として機能していた。
手間取っているうちに、武田軍は西へ抜けてしまう。
このままでは小荷駄隊を突破しても、高度有利は失われてしまう。
だが、それに気づくものは少ない。ただ、目の前の敵を殺すので手一杯であった。
そこに、北条氏康軍が到着した。




