補遺 第四話 ご褒美
料理はとても美味しかった。
地元でも一二を争う旅館だったらしい。
各部屋に専用の露天風呂があった。
中居さんも意味深な笑みを浮かべてたし、そう言う目的で訪れる人も多いのだろう。
とりあえず落ち着くためにお風呂に入ることにする。
夜景を見ながら落ち着いた。月が綺麗だ。
伸びをすると気持ちがいい。
人間態になっても、温泉にはまだ数える程しか行ってないから新鮮だ。
ガラリと、戸が開いた。
やっぱり俺はヘタレで、そちらを見ることができない。
体を洗う音がする。見たい。けど、我慢しなくちゃ。
人間だったころの遠い倫理規範が俺を縛っていた。
ただ、月が綺麗だった。
それはすなわちあなたが好きですと言うことで。
夏目漱石の呪いだ。思考が変な方向に行っている。
いつの間にか、体を洗う音は消えていた。
頑なにそちらを見ない俺の背に、輝夜の体が重なる。
柔らかなおっぱいを背中に感じる。
「月が綺麗だね。」
彼女は俺の耳元で囁いた。
さっき考えた言葉のまんまで、裏の意味を知りたくなる。
でも、多分、きっと、その意味で間違いないはずだ。
遠回しな告白。それが今の彼女の精一杯。
だって、それはやっぱり恥ずかしい。
木としての俺には言えても、自分と同じ存在としての俺には言えない。
そんな心の機微があってもおかしくないだろう。
それとは別に柔らかな双丘も俺の思考力を奪っていた。
極上の幸せとはこう言うことなんだと。
今回は何も不穏なことはなくて、ただ輝夜と二人で旅行にきただけなんだと信じたくなった。
そして、この時間は、多分それでいい。
甘やかな感覚に流されることも、人生においてはあってしかるべきなんだ。
俺は輝夜の方に振り向いた。
長い黒髪をお湯に浸からないように上にあげた彼女は、確かにいつもと違って見えた。
奇跡のような顔立ちだと思う。俺が自分で生み出したとは思えない。神様と比べても二、三歩上だ。
月よりも綺麗だと言ってしまいたい。
いきなり振り返った俺に戸惑うように小首を傾げている。
おっぱいの大部分が、どろりと濁った温泉の水の中に入って見えないのが悔しい。
でも、その感情は不要なもの。今、絶対に伝えるべき言葉は他にある。
「輝夜。君が好きだ。」
人間になってから直接的に言ったのは初めてだったと思う。何度かキスまでしておきながらどれだけヘタレだったのかと言う話だ。⋯⋯植物と人間は勝手が違うから。
「それだけ?」
「愛してる。月より君の方が綺麗だ。結婚したい。」
「直接的すぎると思うわ。」
「下手に言葉を飾ると、純粋な気持ちがきちんと伝わらない気がして。」
「なら、言葉だけじゃなくて、体で示してよ。」
彼女は、恥ずかしそうにそう言った。
江戸時代から知識はあったんだろうけど、一切彼女はやってこなかった。
そこの抵抗は生娘と同じはずだ。
口付けをして、言う。
「随分と待たせた。」
「ほんとよ。」
彼女は目を潤ませながら、幸せそうだった。
僕らは交わった。
お風呂で、そして布団で。
不安を紛らわせようとか、そう言う意識もどこかにあった。
でも、純粋に幸せだった。二人で高いところまでどこまでも登っていくような感覚だ。
技能「房中術上級」の手管は凄まじかった。もう普通のでは満足できない体にされてしまった。輝夜以外とする気は無いけど。
旅館の人には申し訳ないことをした気がする。
それも込みでの高めの料金設定らしいので、大丈夫だろうと輝夜は言っていた。
●
昨日の場所でカヤノヒメを待つ僕らは少し気まずかった。
良くも悪くも初めてだったから。
何を話してもあっちに行き着きそうだった。
イワスヒメにバレないかと言う心配もあったし。
うん。切り替えていこう。
昨日は昨日、今日は今日だ。
カヤノヒメを助けるぞ!
捕まってると決まったわけじゃ無いけど。
しばらくすると、イワスヒメがいつものように下から現れた。
おっとりと俺たちを見ると、意味深に笑った。
「昨日はお楽しみだったみたいね。」
⋯⋯神様からは逃げられない。
しばらくからかって満足したのだろう。
イワスヒメは俺たちに、謎の腕章を配った。
これがあると付き人として認定され、神界からはじかれることがなくなるらしい。
なんと感想を言えばいいのか分からないので何も言わないことにした。
ツッコミしにくい仕様だ。
「じゃあ、私に続いてね。」
「土の中ですか?」
「やろうと思えば誰でも入れるわよ。」
「それは無いと思います。」
「私が手を握ってるから、大丈夫。」
イワスヒメの手のひらは柔らかかった。
「大和?」
反対側の輝夜が怖いので、堪能するのはやめておこう。
「じゃあ、行くわよ。」
イワスヒメが沈む。
俺たちも沈む。
土の中は思っていた以上に抵抗がなくて不思議な感覚だった。
しばらくは光もあったが、じきに闇の中だ。ただ、隣のイワスヒメの銀糸の髪が明かりとして機能していた。
地中散歩は、不思議な体験だったが、楽しむより先に扉が現れた。
「ここからは出雲の裏よ。と言ってもあんまり心配はいらないわ。せいぜいヤマタノオロチがいるくらい。」
「十分やばい空間では?!」
日本神話最大の怪物じゃねえか。
「スサノオもいるし、心配ないからね。」
まあ、かつて退治した神様がいるのなら大丈夫だろうけど。
でも、あの人、実の姉にうんこぶつけたんだろ?
⋯⋯大丈夫かな。不安になってきた。
輝夜は俺を見ていた。俺の逡巡がわかったのだろう。
「ここまで来たら後戻りはできないわ。」
そう言って励ましてくれた。
それもそうだ。
「覚悟は決まった?」
「はい。」
俺は頷く。
それを確認して、イワスヒメは扉を開けた。




