世界とガラスと、アトリエと
マイブームはアンチョビです。
人は自分の得意なもので世界を捉える
画家は月明かりの絵の具を混ぜ
作家は雨の日を喩え
職人は入道雲の奥行きを知る
僕は、幾何学というものを知った時、その感覚を知った。
その時から僕は、世界を"美しさ"で捉えるようになる。
造形の美しさではなく、いやそうなのかもしれないけど、幾何学的な。
たとえば、床に散らばったビー球を見たときに僕はすぐさまそのビー球を点として、図形が書けるか考える。いや、そういう見方をする。気づいたらしてしまっているくらい、無意識的に。
あるいは、適当にグラスを並べておいてほしいと言われたら、必ず格子状に整列させて並べる。そんな感じだ。
僕はものを見る尺度が、規則的か、ランダムかに依存している。
悪癖と呼ばれても言い返せない。けれども、こういう人は少なくないはずだ。
だけれど、僕が引かれたのはそういう幾何学の世界というよりは、僕ら人間が、気付かないうちに何かに依存したものの見方をしているということだった。
自分の、ものを見る感覚は大分前から勘付いてはいたけれど、僕がそのことに気付いたのは、先週のいつかの風呂上がりに髪の毛を拭いている時だった。
それで僕は、すぐに彼女__萩野文乃__の見る世界が気になった。
萩野文乃、友達からのあだ名は"のんさん"呼び名は
"光の魔女"
彼女は有名人である。
人気者であるかは、ともかくとして。
僕が入学してすぐに、すごく絵が得意なやつがいるという話を小耳に挟んだ。最初は、絵が上手いってだけで噂になるなんて、あまりに個性のない人々しかいない学校に入学してしまったのかとうんざりしたけれど、あるキッカケで、彼女の"落書き"__彼女がそう呼んでいる__を見てから僕はなるほどな、と、噂の内容が問題なのではなくて、どちらかというと、彼女の絵を"すごい絵"と形容するのに問題があったということに気づいた。
それから数ヶ月後、彼女の呼び名が光の魔女であると知った。
全国区の朝刊に、一度そういう見出しで掲載されたそうだ。
確か、フェルメールとかいう画家の異名が光の魔術師だか魔導師だったから、きっとそういうことなんだろう。
それからさらに知ったことには、アメリカのある界隈では、アヤノハギノを知らないものはいないとか。嘘だと思って調べたら、聞いたことある大学の、聞いたことないフランス人評論家の批評なんかに行き着いちゃってゾッとした。でも、同時に僕はどこかで腑に落ちていた。
そんな彼女との出会いは、僕ひとりの化学部室で起こった。
いつもの放課後、先輩が卒業して、ほぼ部室としての機能を廃した、化学準備室のとなりにある一室__正式名称は第二化学準備室というらしい__で、僕はなんとなく、先輩の置いていった漫画を読んでいた。というか、当時の僕はその漫画にハマっていて…そう、その部屋はもはや漫画部屋と呼ぶに等しかった。
その時だった。バタンという、ドアの閉まる大きな音が部屋の外から聞こえた。となりの部屋だ。
そしてまもなく、僕の部屋の扉が開いた。
「あたしアヤノハギノ、ここは化学部であってる?」
小さめな体躯のはずだが、そのときの彼女は大きく見えた。鋭く力強い眼と、黒髪ショートカット。これが萩野文乃の第一印象だった。あと、微妙にグローバルスタンダードな挨拶。
「えっ?ああ、うん、そうだけど?」
どこか不機嫌な彼女と、漫画への没頭から引き剥がされて、混乱している僕。どう考えても会話が成立しそうにないギャップだった。
「ねえ、化学得意?」
ここで僕は、まあ、無機化学だけなら、と答える隙もなく、彼女の圧に押し負けた。
「まあ…あー、うん。得意かな」
すると間髪入れずに
「絵の具作れる?」
僕は、すぐさましまったなと後悔した。別に、絵の具作りに無機化学が対応していないとまでは言わないけれど、さすがに、総合的な知識が欠如している状態で、うんと答えられるほど僕は無責任な化学者ではなかった。亜流のくせに、心構えだけは一丁前なのだ。
けれども、それ以前に僕は男子高校生だった。だから同学年の女子からの質問にはこう答えるしかなかった。
「……どんな絵の具?」
すると彼女の口調はすこし速度を落とした。だからといってギャップは依然として埋まるほどではないのだけれど。
「うーん、と…難しい話ではないと思うんだけど…」
すこしもったいぶっている。
「どういう色?」
「いや、どういう色とかっていうわけではないんだけど、どっちかっていうと、混ぜて欲しいのよ」
混ぜる?出来れば水と油とか、そういう初歩的な知識で済む話だといいんだが……
「何を?」
「ガラス」
「ガラス…?ラメってこと?」
「違う、ガラスだけ。ガラスの色を塗りたいの」
ガラス…ガラスって、待った、ガラス色とかいうのがあるってことか?いや違う違う、混ぜろって言ってるんだから、あのガラスだ。いやまてよ、そもそも何に?ガラスの構造は……たしかケイ素がどうとか、いやでも有機ガラスなんかもあるし……わかんないな。
「できる?できない?」
彼女はいつのまにか僕の横に来ていた。僕は咄嗟に漫画を隠した。わざわざ部室で隠れて読む漫画だったので、すこし恥ずかしかったのだ。
「えっと……」
「やっぱ、やってくれないの?先生もそんな感じだったんだけど、やらないの?」
やるやらないよりかは、出来る出来ないに問題がある、なんて言い返したら雰囲気悪くなるだろうなあと思っただけの僕は、幸か不幸かこう返した。(なんてね)
「出来るかどうかは別として、やってみようか。とりあえず。暇だし。出来たら出来たで、面白いだろうし」
言いながら気づいたけど、出来たら出来たで、それはそれですごい発見なんじゃないかと思った。すこしワクワクした。まず出来ないけど。
「ホントに?ありがとう!」
僕の目の前で、鋭い目つきがほぐれて、柔らかな笑みが浮かぶ。先ほどと自分の声色が違うのを彼女は意識しているのだろうか。
かわいい、だなんて、だからどうしたという直球極まりない感想が僕の頭に浮かんだと同時に、やってみせようというやる気が脳裏をつきぬけた。僕は自分で思ってるより単純だった。
「まあ、時間はかかるかもだけど、ベストは尽くすよ」
「うん、助かるよ。えっと、お礼は……そういう絵とか描いたげよっか?」
僕が表紙を申し訳程度に左手で隠している漫画を、彼女は指差した。
「えっ、いや、これは……」
「別に、私兄貴いるからそういうので引かないって。三年になるまで買えないんでしょ?」
僕はすこし考えた。
「……よろしくお願いします」
この日から、僕と彼女の絵の具作りが始まったのだ。
さて、現在のガラスの色計画の進捗はまだ3パーセントも満たなくて、完成形すらまともに決まっていなかった。そもそも、ガラスの色を塗りたいというコンセプトを僕が理解するのに、かなりの時間がかかったのだ。彼女曰く、
「ガラスは透明だから色なんてないとかいうおバカな化学の先生の話は置いておくとして、私はね、ガラスの色に惚れたのよ。でも絵の具が無いから描けない。ガラス色を表現するのが画家の仕事とかいうトンチンカンな先生もいたんだけどね、違うのよ。ガラスを表現しようなんて2,000枚くらいやったわよ。でも、それじゃあ、"ガラスを表現した色"を2,000枚描いただけなのよ。わかる?わかるよね。だからね、どうしても必要なの、ガラス色が。ガラス色を私の世界に入れたいの。必要なの」
僕は、彼女がそれを本気で言ってることと、冗談でなく本当に2,000枚描いていることを知って、彼女が常軌を逸していることをようやく実感した。
つまるところ僕と彼女の間には、価値観のズレが地動説と天動説くらいあったのだ。僕はそれがこの計画の最大のネックだと問題視するうちに、いつしか彼女の見える世界に着目することになった。
これでようやく話の最初にもどる。
僕は、彼女がどんな定規で世界を捉えているか、そればかり気になっていたのだ。
僕は授業が終わるなり、化学部室に走った。化学物質が好きな生徒が化学部室に行く……あっ、すいません。
化学部室の戸を開けると、午後からここで絵を描き続けている彼女の姿があった。床には1枚5千円くらいの"落書き"が散乱している。
「おかえり」
彼女はそう言った。
「ただいま」
この化学部室は、ガラスの色計画が始まって以来、彼女のアトリエになっている。
「そうだ、今週のアトリエ料、机の上にあるよ」
僕はおそるおそる机の上の5枚のイラストを見た。
「これは…」
なかなかのモノだった。曲線美を理解しているだけはある。今週もお世話になるとしよう。
彼女は、今は絵を描いているわけではなくクロッキー帳をパラパラとめくっていたので、前々から気になっていたことを聞いてみた。
「あのさ、この絵の女の子って、モデルってどうしてるの?」
すると、彼女の動きはピクリと止まった。
「そんなこと聞くなら、私もお前がそれ使ってナニするのかを聞くけどいいのか?」
彼女は振り返らずにそう答えた。
「えっ、それって……」
つまり、このイラストの女の子は萩野さんの……
ええい、鎮まれ俺の男子高校生……!
「嘘だよバーカ、あたしがそんなスタイルじゃないの見ればわかるでしょ、あんたはいつも彫刻デッサンとか3Dモデリングにかわいい顔付けたやつに興奮してんの」
「たしかに、言われてみればこんなにスタイル良くないよな」
「殺すぞ」
クロッキー帳が、パタンッと音を立てて笑った。
「もういいのか?」
「まあね、バカな話振られたせいでやる気失せた。今日はおしまい」
彼女はカバンからペットボトルを取り出して、コクコクと水を飲み始めた。
「あ、そうだ。ちょっと聞きたいことがあったんだった」
ぱふっ、とペットボトルにあてがわれていた彼女の唇が柔らかな音を立てる。
「これ以上何を聞くんだよ」
「いやいや、そういう話じゃなくて」
「絵の具のことか?」
「まあ、そんなとこ」
僕は、リュックサックから、ピンク、黄色、紫のキャンパスノートを3冊取り出して、机の上に投げた。無造作に、いや、“無作為に”という方が正しい。
「なによ。私は勉強教えらんないよ」
彼女は僕をにらんだ。
「違う、勉強じゃない、ちょっとしたテストだよ」
「…なんで?」
「半分は計画に必要だからかな」
「もう半分は?」
「僕の興味」
「……ふうん」
彼女はふわりと席を立って僕の向かいの椅子に小さく座った。
「で?何をすればいいの?」
「この雑に置かれたノート3冊を、好きなように並べてくれ」
「ホントに好きな感じでいいの?」
彼女は僕の様子を伺いながら聞いた。
もちろん、とだけ僕は答えた。
すると、彼女は紫のノートを机の端に送って、それを隙間なく挟むように残り2冊のノートを立てた。
「こう…かな、私だったら、こうする」
僕は並べて、と言ったはずなんだけど、と言うか言わまいか、悩んでいるうちに彼女は、あっ、と声を上げ、先ほどまで口をつけていたペットボトルのラベルを剥がした。
「えっ、なに?」
僕は咄嗟に聞いた。
「面白いもん見せてあげるよ」
彼女は笑った。僕はまた、彼女のことをかわいいと思ったけど、どうやって伝えればいいかを探しているうちに、彼女の言葉に先を越された。
「みて、」
彼女は紫のノートの上に、ペットボトルを置いた。すると、部室に差し込む夕日が容器に残った水とボトルの凹凸に反射して、万華鏡みたいな光の粒が紫色の闇のあちこちに宿った。
「これって……」
「へへー、おもしろいっしょ」
よく見ると、立たされたピンクと黄色のノートが、夕日を投影するスクリーンの役割を果たして、紫色のノートに淡いオレンジを馴染ませていた。
午後5時の光をすべて飲み込んだノートは、まるで
「夕焼け空みたいだ。それも、暗い空が見えかかってるときの」
僕は、気がつくとそう言っていた。
「あたり。わかってんじゃん。私はこういうのを描きたい」
「この色を?」
「ははー、半人前ですなあ」
彼女は笑った。少しムッとしたけど、どうしてだろう、悪い気はしない。
「どういうことだよ……」
「今しか見れない色ってこと」
夕焼け空をゆっくり転がっていく火の玉と、それに煽られて、キラキラ燃える細くて長い髪。彼女の眼は、どんな世界を閉じ込めているのだろう。
「今しか見れない色か……」
「そう、この色はこの世界じゃあんたと私しか……」
彼女は、言いかけた。何かを。その瞬間、彼女の世界はふっと閉ざされた。
「……なんでもない。帰ろ、給料日なんだし、なんか奢ってよ」
またいつものように笑って見せたその瞳は、ガラス色だった。
僕は"何に似ているか"でものを考えます。