[03]回想(一)~鍛冶屋なのです
我ながら、本当に情けない話なのです。
私は引きこもりです。身も蓋も無いですね。いえいえ、どうしようもないことは自分でも良く分かっています。残念な子なのです。ですが、引きこもりとはいえ一応、自分の食い扶持は稼いでおります。その辺りの事情、ややこしいですが色々とありまして。
私にもティーンエイジャーだった時代があります。当然ですが。その頃の私はこれと言って何かに打ち込むことも無く、それでも普通に地元の高校を出て、何とか地方の国立大学の理工学部に滑り込んで。専攻は材料工学でした。その後とあるメーカーに採用されまして。都会に出た私は、紛いなりにも社会人生活を送っておりました。
そんな生活が終わったのは三年ほど前です。今思えばくだらないことでした。ですが当時の私は理不尽な仕打ちに我慢がならず、辞表を上司に叩きつけ。いえ、正確には頭を深く下げ退職願を上司に届け出て、会社を去ったのです。
何もかも嫌になった私は、転職活動は後回しにして実家に戻りました。
私の父は、世間様と比べて子供の躾に関しては厳格な方だったと記憶しております。そのお陰で、世間様の荒波に揉まれながらも、短いながらも真っ当な社会人生活を送れたとも思えますし、その一方で、やはり私の気性と言いますか、人様の目を気にして内に籠ってしまうところなどは、その辺りに原因があるのではないかと考える事もございます。
実家に戻った私は、父の仕事の手伝いをするようになりました。父なりに考えた、私に対する精一杯の愛情だったのだと思います。「この仕事はもう駄目だ、時代遅れだ、俺の代で終わりだ」と父はいつも言っておりました。
私もそのつもりでメーカーに就職したのですが。それでも、父としては私に家業を継がせたいという想いもあったのだと思います。一方の私も、内心では父と同じ仕事をやってみたいという望みもあり、材料工学を専攻したのも、その辺りに理由があったのかもしれません。
そんな父も一年前にポックリと逝ってしまいました。まだ若かったのですが。残された私は、悩みに悩んだ末、父の仕事を引き継ぐことにしたのです。
私の仕事は鍛冶屋です。
鍛冶屋という仕事に、どのようなイメージを持たれるでしょうか。
師匠と弟子が後立役と先立役になり、熱した鉄を前に金槌を持ちトンテンカン、トンテンカン。そんな牧羊的な光景を思い浮かべるのでしょうか。
現実はそんなのどかなものでは無いです。今時、そんなのでは仕事になりません。ご存知無いとは思いますが、スプリングハンマーという機械があります。鍛冶屋の持つ数少ない固定資産でしょうか(鍛冶屋はとっても貧乏なのです)。要するに鋼を叩く機械です。
ドンドンドンドン・ガンガンガンガン・ドンドンドンドン……
とても煩いです。
どのような仕事にも、多かれ少なかれ参入障壁というものがあろうかと思います。もし鍛冶屋にそれがあるのだとしたら、この騒音公害でしょうか。
ドンドンドンドン・ガンガンガンガン・ドンドンドンドン……
はっきり言って御近所迷惑です。
昔からこの地で鍛冶屋を生業にしているのと、母がねんごろに御近所付き合いをしてくれておりますので、何とか苦情が来ることも無く、やっていけているのだと思います。
ドンドンドンドン・ガンガンガンガン・ドンドンドンドン……
勿論、この五月蝿い機械で真っ赤に焼けた鉄を叩いている張本人である私自身も、この音を恨めしく思っていないと言えば嘘になります。
燃え盛る火床の前に立ち、腰に来る姿勢で一日中。数日に一回は松炭や栗炭を運ぶ重労働(ウチは石油やガスも併用しておりますが。楽をさせてもらっております)。いかにも身体に悪そうな燃焼ガスを一日中吸いながら、青白い顔で不健康な日々を過ごす毎日なのです。
鍛冶職人とは、かように過酷な職業なのです。
ですが引きこもりの私にとっては最高の仕事なのです。天職なのです。なにしろ、滅多に人と会わなくていいのですから。
対外的なことは大抵、母がやってくれます。私が人に会って話をするとしたら、注文した資材を配達に来てくださる問屋の方のセールストークを聞く時か、あるいは時折カッパ橋へと出向いて、商品――私が打っているのは殆どが包丁の類です――を納品させて頂いたり、そのお店の方と商談する位でしょうか。
(――貧乏暮らしだけど、このまま老後までやり過ごせればいいな)
あの出来事が起きたのは、そんな風に思い始めていた矢先のことです。