[02]魔物なのです
モンスターは二体、三体、と増えていきます。いつの間にか私は囲まれていました。
実は彼等は見た目によらず友好的な種族で――というヌルい設定を期待したのですが、どうもそのような雰囲気ではございません。ギラギラとした瞳に怒りと欲望の感情を燃やしております。厭らしく捲れ上がった唇から黄色い牙が顔を覗かせ、ねっとりとした涎が垂れています。
何という種類のモンスターでしょうか? ファンタジーにあまり詳しくない私には、それが何なのか言い当てる術はありません。巨大ゴブリン? オーガ変成体? それともデーモンの一種? どれとも違うような気がします。それの頭からは、捩れた角が二本、生えています。
一つだけ言えるのは、何処か和風な印象のあるモンスターということです。和風ゴブリン? そんなのって、ファンタジー世界でよくある物なのでしょうか。それともこの世界、和風ファンタジーという設定なのでしょうか。
最初に現れた一体が突然駆け出し、私の方へと向かってきました。
覚悟を決めた私は――手にした刀の鯉口を切り、鞘から一気に抜き放ちました。
――すぅ――。
抜刀。金属の擦れる静かな音。ハバキが鯉口から抜け、滑らかに仕上げられた棟は抵抗も無く鯉口を滑ります。瞬きの半分の時を挟み、氷を思わせるシットリとした刀身が私の手の下で露わになりました。刀身の焼肌に散りばめられたギラギラとした地沸は日の光を反射し、刃は突き刺すような輝きを放ちます。うららかな春の日差しを受けながらも、それとはまるで対照的な、触れるもの全てを斬り裂く攻撃的な光です。
本能的に私が手にしているモノの危うさを感じ取ったのでしょうか。和風ゴブリンは足を止めます。
鞘を打ち捨てた私は両手で得物を構え、それと対峙します。
三拍、四拍――私が呼吸を数える中、化物は再び駆け出します。一瞬の後、それは私の目の前に居ました。上段から大きく振りかぶり、棍棒を振り下ろして来ます。目にも留まらぬような猛烈な勢いです。
「――破ッ!」
私は一歩踏み出すと共に、裂帛の気合で刀を薙ぎました。両の手に力を込め、棍棒の軌跡と直角に交わるように。
腕から肩にかけて伝わるガツンと云う衝撃。しかしそれも一瞬のことで、勢い余った私の刀はそのまま振り上げられました。手から刀がすっぽ抜けなかったのは我ながら褒めていいと思います。
ですがこの瞬間、ヒヤリとした冷たいものが私の心を撫でました。両腕を振り上げた状態のまま私の胴はガラ空きです。ここで二の太刀を受けたら――いえ、ゴブリンの得物は棍棒なので太刀という表現は正確ではないのですが――ひとたまりも無かったでしょう。
ですが、モンスターは私の隙を突いて、次の攻撃を仕掛けては来ませんでした。
私のずっと後ろの方で、ドスリという鈍い音。目の前のゴブリンは両の眼を見開いています。その奥底にある驚愕を、私は見逃しませんでした。
私の刀はゴブリンの棍棒を見事に両断しておりました。今のは、棍棒の片割れが地に落ちた音だったのです。
和風ゴブリンは納得できないという面持ちで棍棒の断面を眺めています。先程それを断ち斬った時の感触から、相当固い素材のように思われました。欅や樫よりさらに丈夫で重い木材――例えば黒檀や鉄刀木のようなものでしょうか。当のゴブリンもまさか一刀のうちに両断されるとは思わなかったでしょう。周囲のゴブリン達は「ゴフゴフ」といった感じの鳴き声で囃し立てています。
もしも仮定の話を持ち込むのが許されるのならば――。
この瞬間を逃さず斬り込んで行けば、目の前のゴブリンを倒せたかもしれません。ですが、私は現代日本という平和かつ文明的な世界で生まれ育ち、特別な訓練は何も受けていない一般人です。いくらモンスターとは言え、人型をしたものに刃物で斬り付けるなどという覚悟はできておりません。
躊躇する私を尻目に、ゴブリンは手元に残った棍棒の成れの果てを捨て去り、牙を剥いて襲いかかって来ました。あくまで私を喰らう算段の様です。喰らうと云う言葉には、食欲を満たすという意味と性欲を満たすという両方の意味があると承知しております。
この場合、どちらの意味でしょうか。いずれにしても、私としては決して面白いものではありません。あまりの恐怖に身がすくみます。
数度、牙と剣による攻防が続きました。時間にして数分も経っていないはずです。しかし私は肩を上下させ、息を荒げておりました。心臓はバクバクと脈打ち、肺は酸素を欲しそうに喘いでいます。両腕はプルプルと震え、刀を持つので精一杯です。とてもこれ以上、振り回せそうにありません。
体力の無さには自信があります。何しろ引きこもりですから。そもそも私はか弱い女です。スタミナもありません。そんな私にとって、この長さ70センチの鋼の塊を数回振ることが、如何に体力を奪う行為であることか。
もう十年も前のこと。『一人前の刀工を目指すなら、道場に通って居合の基礎位は学んで来い――』そう師匠から命じられ、嫌々通った思い出が脳裏を掠めます。
その時の知識と体で覚えた身のこなしのお陰でここまで持ちこたえました。そうでなければきっと、剣を真っ直ぐに振ることさえできなかったでしょう。
でも、それもこれまでです。もう、足運びがまるで駄目です。足元の岩に蹴躓いて、私はそのままへたり込みました。
私は刀を手にしたままゴブリンを見上げます。私を見下す充血した金色の眼は歓喜の色に沸き立っていました。征服欲を満たした勝者の荒い息遣いが聞こえてきます。せめて、ひと思いに殺して欲しいところです。嬲り殺しは嫌です。ですが、ゴブリンの腰布の奥にある彼のオスもまた、歓喜に燃え盛り屹立しているのが垣間見えます。楽には死なせてくれないかもしれません。
しかし、絶望の味を堪能する気力でさえ、今の私には残っておりません。もう、どうにでもなれという気分で、私は私の運命の傍観者となっておりました。
ゴブリンは目を細め、唇の端を持ち上げ――それが彼等にとっての“笑う”という表情なのでしょう――私に覆いかぶさろうとしました。
私は思わずきつく目を瞑りました。現実逃避を図ろうとする私は、記憶をなぞるかの如く、ここに至るまでの出来事を脳内に蘇らせておりました。