第34回 「何が起きたの……」
ロクサーヌの姿はまるで嵐の荒野に佇む一軒の家のようであった。最早崩れてバラバラになるのは確実で、後はそれが早いか遅いかだけ。
ストレンジャーの両腕から繰り広げられる殴打を、ガードはするもののただただ受け続けるだけだった。攻撃をすることはなく、またそれを伺わせる気配すらなかった。
「なんで手を出さないんだよ」
拓実がポツリと呟いた。
「さっきやったみたいにやってくれよ……」
「なんだかとても辛そう……」
マヤは見てられないといった感じで顔を背けた。
「あれだけ殴られているんだ。辛いのは当然だろ」
「そうじゃなくて、なんか勝とうって気がないみたいよね」
香澄が頷いた。
「どうしちゃったの。ロキシーちゃんさっきまでとは全然違う」
「心が折れたのかな」
「まさか紙谷くんの死にそこまで責任を感じてたなんて……」
「正宗。やっぱあれはまずかったよ」
みなの視線が正宗に集まった。
「悪いが僕は彼女に同情しない。彼の死は彼女の責任だ」
「だからそう言うこと言うなよ……」
「すまないがあまり僕をイラつかせないでくれ。正直動揺して気持ちの整理がついていないんだ。現状をどう捉えたらいいか混乱してるんだ」
「それはみんな同じだぜ」
「君らはいいよ。この問題には全然関係ないんだからね。でも僕らは違うんだ。彼が死んだことでこのまま滅びるのか、滅びるとしたらそれはどの瞬間訪れるのか、それともやっぱり彼は関係なかったのか。考えるべきことは山のようにあるが、とにかく今は——」
正宗はマヤの手を掴むと、大切なもののように胸に抱きしめた。
「マヤ様、あなただけは何があってもお守りします。今回のことは本当に申し訳ありません。誓って僕は無関係ですが、本当に言葉もありません」
「正宗くん。前から思ってたけど一体何なのこれ」
「残念ながら答えることはできませんが、あなたはあなたが思っている以上に尊い存在なのです。ですからくれぐれもご自愛ください」
「あなたやっぱり何か知ってるのね?」
「一言で言うなら彼が死んだのは事故なのです。彼が狙われるはずがない。奴等の狙いはあのロクサーヌという女で、決して彼でもなければあなたでもなかった。それは奴らがいかにバカでも厳命したはず」
「なんでロキシーちゃんが命を狙われるの?」
「それは彼女が選択したからです。それ以上はいくらあなたの命令とはいえお答えできません」
「ロキシーちゃんは私の友達なのよ。お願い、もう止めてあげて」
「恐らく彼らは雇われのプロ。僕の言うことなんて聞きませんよ。そもそもその雇い主ですら僕の言うことなんて全然聞きませんからね。彼らと僕とは同じコップの水と油。僕が真に心の安らぎを感じるとしたら、あなたや彼と一緒にいる時くらいなもんだったのですが、こうなるとそれももう望めないでしょうね。さあ、そろそろ終わりの時も近い。最後の瞬間は凄惨ですので、あなたは決して見ないほうがいい」
これは正宗の言う通りだった。
彼女の腰は落ち始め、もう堪えるので精一杯といった感じだった。
そしてとうとう怪物の一撃で吹っ飛ぶと、腰を床につけてうな垂れてしまった。
また身にまとう群状金属は健康時の半分くらいまでになっていた。
怪物は余裕を持って一歩一歩距離を詰めた。
その顔は心なしか笑っているように見えた。反応を伺っているように感じられた。
楽しんでいるのだ……。
「お願い正宗くん! ロキシーちゃんを助けて!」
正宗はじっとマヤの言葉に耐えていた。
「誰か他の人間に頼んでください」
教室中の男がうな垂れた。
中にはあのロクサーヌのファンもいて、彼らは本当に辛そうだった。もしかしたら彼らも俺の死体を見なければ「勇気」や「奇跡」みたいなものに賭けたのかもしれない。しかしそんな甘い考えも俺が証明した「死」という結果には無力であった。
「私たちからもお願い!」
正宗の取り巻きたちも涙ながらに訴えた。
「なんでも言うこと聞くから、誰でもいいから彼女を助けてあげて!」
「本当か?」
……えっとみなが教室中を見回した。
時を同じくして怪物が彼女を踏みつぶそうとして足を上げた。
「その言葉、嘘じゃないよな」
それから何かにぶつけた。
奴は一度小首を傾げると、腕を振りかぶって宙を殴った。ゴンと鈍い音がして、確かにそこには何かがあった。
ロクサーヌは中々訪れない最後の瞬間を不審に思い、そっと顔を上げた。そして不思議そうに呟いた。
「何? 何が起きたの……」
「俺が『堅牢』にした」
みながもう一度辺りを見回した。
「堅牢の権利は一日一回。お前はちゃんと説明しなかったが、これは一人一日一回って意味だったんだ。つまり俺の分がまだ残っていたのさ」
俺は身を起こすと机に寄りかかりながら立ち上がった。
誰も拍手はくれなかった。みな青ざめ言葉を失っていた。
俺は彼らには構わず体を貫いていたパイプに手をかけると、うっと一息で引き抜いた。
途端に呼吸は乱れ咳が出た。また傷口からは血が流れていたが気にしなかった。体の穴が収縮して塞がった時にはそれも止まっていた。
遠慮なしに女たちが悲鳴をあげ、男たちもまた声を漏らしていた。
彼らから見たら、その時の俺は完全に化け物そのものだったろう。どう扱っていいか分からず、ただただ遠巻きに見ているしかないようだった。
俺は呼吸を整え痛みが引くのを待った。それは数秒で完了した。
「紙谷、あんた何者なの?」
正宗の取り巻きの一人がうわ言のように言った。
「理子」
俺の視線を受けて彼女は思わず後ずさりした。
「何?」
「さっき言った約束守れよ」
「……うん」
素直なのはいいことだ。
「春樹。生きてたの?」
そしてようやくマヤが我に返って声をかけてくれた。
「いや、完璧死んでたよ。でも、この通り生き返った。どうしたマヤ。俺が化け物だったら嫌か?」
マヤが堪らず俺の胸に飛び込んできた。
「うんうん、全然構わないよ。春樹は春樹だもの」
ワイシャツが涙で濡れた。
「そうか。ありがとうマヤ、生き返れたのはお前の弁当のお陰だよ」
「本当? 作って良かった……」
緊張感が一気に解け、みなも安心したように俺の元へと集まってきた。
「春樹よう。お前本当に大丈夫なのかよ」
「ああ、後で傷跡見せてやるよ」
「紙谷くんどうしちゃったの」
「何が?」
「なんだか人が変わったみたい」
「まあ色々あってな。それより——」
俺は輪の中からこっそり逃げようとする正宗の肩に手をかけた。
「やあ親友」
正宗が振り返って愛想笑いをした。
「まさか生き返るとはね。とても驚いたよ」
「お前が本当に驚いているのは、俺が以前の記憶を持っているからだろ?」
「……そうだよ。ああ、僕はストレンジャーさ! さあ、殺すなら一思いに殺ってくれ。君に殺られるなら本望さ」
「それなら遠慮なく殺すぞ。せっかく許してやろうと思ったのに」
「じゃ助けてくれ。そりゃ僕だって長生きしたいよ」
「軽い奴だな。俺が記憶を失っている間に性格変わったんじゃないのか?」
「朱に交われば僕だって赤くなるさ。つまりは全て君の責任だ」
「まあ今はそれでいいや。話は後でゆっくりしようぜ」
「どうするの?」
「責任取ってくる」
俺はそう言うと教室を出た。
ロキシーは堅牢の中でうつむいたまま涙ぐんでいた。
「悪かったな。お前一人にこんな悪夢を押し付けちまって」
彼女の傷一つ一つが俺の胸に突き刺さった。
「ちょっと待ってろ。すぐに終わらせてやるからな」
随分長い間休んでいた。身も心もリフレッシュして、正に生まれ変わった気分だった。
俺は久しぶりの群状金属でハンドガンを作ると、牽制がてら化け物に向かって発砲した。
奴は右手を上げて手のひらでそれを防いだ。
「マリー、久しぶりに頼むぞ!」
地面を蹴ると一息で距離を詰め、空いた右腹に左フックを一発。もちろんデリンジャーのおまけ付きだ。怪物の体がくの字に曲がり、その瞬間を見逃さず、打ってくれと言わんばかりに近づいたその顎めがけてアッパーを打ち抜いた。頭が派手に上下して、その脳をデリンジャーの弾が貫いた。怪物といえども脳は急所で奴はその一撃で崩れ落ちた。
「キャプラ、堅牢を解いてくれ」
「オーケー。そしてお帰り紙谷くん。随分長い休暇だったね」
「やっぱり俺の籍消してなかったのな」
「当たり前だろ。君は記憶を消してくれとは言ったが、辞めたいとは一言も言ってないんだからね」
「こうなることを予想してたのか?」
「いや全然。ただ規則通りにしただけだよ。これが半年だったら流石に籍も無くなっていただろうけどね」
「ロキシーがひどい怪我をしている。至急ヘリの手配を頼む」
「もうやってるよ」
堅牢が解かれるとロキシーはよろめきながらも立ち上がった。
「おい、座ってろよ。怪我人なんだぞ」
「お帰り」
「会話になってないな」
「だって、最初にそう言いたかったから」
「そうか、じゃあただいま。長い間放っておいてすまん」
「うん、大丈夫。いい人と会ってたから」
「どんな奴だった?」
「バカだった」
「ひどい奴だな。それも俺なんだぞ」
「え、そうなの? 別人みたいで全然気づかなかったな……」
ロキシーは俺の胸にそっと頭を埋めた。
俺は壊れ物でも扱うかのように優しく彼女を抱きしめた。腕の中で彼女は小さく震えていた。
いつまでもそうしていたかったが、そうもいかないようだった。ふと顔を上げた俺に、
「どうしたの?」
彼女が気づいて尋ねてきた。
「ちょっとね……」
すぐに腕の周りを渦のようにマリーが回り始めた。
「背後から忍び寄って殺すつもりだったのか?」
振り向くと最後の一匹と目が合った。
怪物はぎょっとしたように足を止めた。
俺は右腕を前に突き出すと、子供がよくするように手で銃の形を作った。
奴の顔に恐怖の色がありありと浮かんだ。
「正々堂々戦えよ。人間みたいにコソコソするな」
窓ガラスの向こうで正宗がこりゃダメだと頭を振っていた。
「集結化」
気流が固まり手にキャノンが作られると、慌てて逃げ出した奴の背中に狙いもそうそうにぶっ放した。
一筋の光が廊下を貫いて、騒々しい地響きも鳴り止むと、辺りにはただ血の雨だけが降っていた。
「もう、せっかくロマンチックなシーンだったのに……」
「俺たちにはお似合いだろ。ライスシャワーみたいなもんさ」
「赤いライスシャワーなんて聞いたことないよ」
「赤飯なんだろ」
彼女は口を尖らせていたが、俺は案外これも悪くはないと思っていた。
血とロキシーのいる世界。これが俺の取り戻したかったもの。
なんだか夢の中にいるようだった。




