第31回 「俺ならそんなことしない」
その時、バンとドアが開いた。
「どうしたの?」
ロクサーヌはドアの前に立つ俺に少し驚いたようだった。
「たまには持つよ。重いだろうからね」
俺はロクサーヌからトレイを受け取ると机まで運んだ。
「あれ、俺のミルクと砂糖は?」
「だってブラック派なんでしょ?」
「そんなに四六時中苦いものばっか飲んでらんないよ。たまには甘ったるいものが飲みたいんだ」
「しょうがないわね」
彼女は自分の砂糖とミルクを分けてくれた。それから俺を見て微笑んだ。
「何?」
「そこだけは一緒なんだなって思ってね」
ロクサーヌは何故か機嫌が良かったが、俺の心臓は鳴りっぱなしだった。彼女のスマフォを戻し損ねたのだ。突然ドアが開いたので、反射的に自分のポケットに入れてしまっていた。
「期末はいい点取れそう?」
「バッチリだよ」
次の休憩まで一時間。その間に彼女がそれに気づいたら終わりだ。
「もう今日でこういうのも終わりね」
「ありがとな。自分の勉強は大丈夫か?」
「バイトが終わってからちゃんとやってるから大丈夫よ」
「何のバイトやってんの?」
「秘密」
彼女は悪戯っぽく笑った。
なんだかいい雰囲気だったが俺はそれどころじゃなかった。さっさと休憩時間を終わらせないと、彼女がちょっとメールでもチェックしようとした瞬間、この部屋は拷問部屋へと変わるのだ。
「なんだかずっと落ち着かないわね。何かあったの?」
俺は慌てて首を振った。
「今日はそればかりね」
ロクサーヌはそう言うと紅茶を一口飲んだ。
「なあ、どうして学校だとあんまり話してくれないんだよ」
「そうする大義名分がないからかな」
「よく分からん」
「自分でも上手く言えないけど、そうする理由を他から与えてもらえた時だけ、やってもいいのかなって思っちゃうのよね。これは仕方のないことなんだ。私の意志じゃないんだってね」
「つまり幸田が面倒見ろっていうから見てるだけか」
「そういうこと」
やっぱりそうなのか……。
「でも」
とロクサーヌは再び口を開いた。
「これからは違うかもね」
正直嬉しかった。
しばらくしてロクサーヌが立ち上がってちょっと服の埃などを払った。
「どうしたの?」
「ちょっとね」
「何するの?」
「あのね。そう言うのは女の子にはあまり尋ねないものよ」
彼女はトイレに行こうとしていたのだ。
俺はホッと胸を撫で下ろし、ついでに訪れたこのチャンスを内心喜んだ。彼女が退室した隙にこの忌まわしきスマフォを戻しておこう。せっかくいい雰囲気なのにこんな爆弾身につけていては、それこそ全てを台無しにしかねない。
「戻ってきたら勉強を再開しましょ」
「よし、頑張ろ!」
「ふふ、頑張って」
そこで爆弾が爆発した。
それは非常に間の抜けなメロディーで、犬と猫とが交互に鳴き合い時々豚が混じるというものだった。
俺は俯いたまま微動だにしなかった。どうしてもすぐには彼女のスマフォが鳴っているとは信じられなかった。少なくともロクサーヌの手がスッと俺の前に差し出されるまでは……。
「豚……少し好きなのか?」
「電話」
俺は慌ててスマフォを返し、彼女は何も言わずに電話に出た。マヤからだった。
「もしもしマヤ、どうしたの?」
マヤのタイミングの悪さが恨めしかった。
「ええ、そうね。明日からお互い頑張りましょ」
我が身に降りかかって分かることもある。確かにこれは犯罪級の代物だ。
「え、紙谷君?」
ロクサーヌはチラリとこちらを見た。
「知らないよ。さあ、どこかで道草食ってんじゃないのかな」
ドキッとした。この胸の高鳴りが処刑を待つ恐怖から来るのか、それともロクサーヌとまた一つ秘密を共有したことによる背徳感から来るものなのか、判断がつかなかった。
「ふふ、そうね。彼なら本当に草を食べててもおかしくないわね」
いや、おかしいだろ。
「え、まだ謝ってもらってないよ。うん、全然。そんなこと一言も口にされてないわね」
つむじの辺りに視線を感じた。彼女の白い目が想像できた。
「じゃあね、バイバイ」
そして再び室内には沈黙が戻った。
「嘘ついちゃった」
ロクサーヌはちょっと戯けたように言った。
「マヤに対してはもしかしたら初めてかもね」
「すまん。でも——」
「何か見た?」
この時ほど頭を高速回転させたことはなかった。
見たことは見たのだが、それが何かを確認し理解する時間などなかったから、見てないと言えなくもない。
どう表現するのがいいのだろうか。俺にとっても彼女にとっても。
「前にさ、お前がスマフォを見ながら微笑んでいた時があっただろ? 俺が泣かした一件は、その時見ていたものが原因なんじゃないかと思ってね」
「マヤに聞いたのね」
「別にお前を泣かしたことは謝ってもいいんだよ。でもさ、俺は何故お前が泣いたのかほとんど分かっていない。そんな状態で謝ってもあんまり心もこもらないだろ? だから原因をハッキリさせて、その上で謝るべきなら謝ろうと思ってな」
「それで原因は分かったの?」
「全然」
「そう」
ロクサーヌは椅子にそっと座った。
「そんなに気になるの?」
俺は頷いた。
「仕方のない人ね。他人のスマフォまで勝手に見て」
「許せなかったんだ。お前を泣かすような奴のことがさ」
「この間あなたに泣かされたばかりだけど?」
「そういう意味じゃない。言いたいことは分かるだろ?」
「まあね」
「俺ならそんなことしない」
「本当に?」
「絶対にしない」
ロクサーヌはクスッと笑った。
それから何かを決断したように口を開いた。
「私が見ていたのはね、昔、黙ってあなたを撮った写真なの」
そう言うと彼女はスマフォを机の上に置いた。
「最初にあなたと話す時はとても勇気が必要だった。話そうとすると顔が赤くなってムーミンみたいにモジモジしちゃってね」
俺は目を丸くした。
「分からない?」
俺は頷いた。
「つまり好きだってことよ」
どこかで少しだけ時の流れが変わったような気がした。




