第30回 「サクラメント」
俺がしたのは得意の寝た振りだった。
芸は身を助け、簡単に彼女たちを騙すことができた。
ロクサーヌと正宗はあの時確かに彼女の過去について話していた。
流れから言って、あれは確実にスマフォの男の話のはず。あれをもう一度彼らが話題に出し、かつもう少し分かり易く話してくれれば道は開けるのだ。
「彼、寝たのかい?」
俺の頭上で囁くような声が聞こえた。正宗だった。
「そうみたいね」
とロクサーヌ。
「なんだかお疲れのようだ。目の辺りに薄っすらクマも浮かんでいる。そんなに毎日何を頑張っているのだろうか?」
「試験勉強に決まってるでしょ」
「まさか君は抜け駆けしてないよな」
「抜け駆けってのは協定を結んで初めて言えることよね。そんなの結んだっけ?」
「前に彼に勉強を教えてあげると誘ったら、二人には世話にならないと拒否したんだぞ!」
「じゃあ嘘をついたのは彼の方じゃない」
「君が自重すればよかったんだ。あの時みたいに勉強を教える権利も半分こにするべきなんだよ」
「そんなに教えたいなら今この状態で教えたらいいじゃない。睡眠学習っていうの? 起きたら彼、バカが治ってるかもよ」
バカで悪かったな。
「やれやれ。これくらいで得意気になるとはね。君は本当に浅はかな人間だな」
俺の話はどうでもいいから。
「僕が以前、彼に角煮を貰ったことを覚えているだろ。あれは彼女が作って彼が分け与えてくれたものだ。君はこの意味が分かるかい?」
さっさとスマフォの男のことを話せよ。
「あれはキリスト教でいうところの『秘跡』。形のあるもので目には見えない恩寵を授ける儀式なのさ。角煮はあのお方の肉体を意味し、それを分け与えることで僕を祝福してくれたんだ」
「私も貰ったけど?」
「君が貰ったのは単なる豚の角煮だ。なんら隠れた意味などない」
「は? 私の目には一ミリたりとも違いは見いだせないけど?」
「君と僕とでは立場が違う。君はあのお方に敬意の一つだって払ったことはないだろ。教会でパンを貰って食べたところで、信者でなければ意味がないのさ。それともう一つ。僕は望んでそれを貰ったが、君は置いてあったものをただ食べたにすぎない。言わば拾い食いのようなもの。腹はくだしても恩寵がくだるはずがない。大切なのはそれが意味あるものだと認識し、自分の自由意志を働かせて選択すること。全てはこれが大切なんだ」
ここら辺から話は俺の理解力を超えていて、俺はひたすら耳から入ったものを鼻に流しながら、スマフォの男の話を待った。
「あんたはいつも物事を複雑に考えるよね。そんなんで生きてて楽しいの?」
「君には死んでも分からんよ。何故なら君は奴隷だからね。自分で何かを選択しているわけじゃない。ただ人に言われるがまま、もしくは一番無難な選択をしているにすぎないんだ。何かを変えてやろうと自由意志を働かせることなんてまるでない。でもそれでいいよ。世界を変える存在は一握りでいい。後はせいぜい僕らの後をヨチヨチ歩きで付いて来ればいいんだ」
しばし二人は無言だった。
「あれが肉体だとしたら、その血は?」
「忘れたのかい? 僕はコーヒーも貰ったんだぞ。君の場合こっちの方は貰いすらできなかったよな」
正宗の高笑いが聞こえた。
「忘れているのはそっちの方じゃない? あんたの得意な神話解釈学って奴を利用させて貰えば、あの時のコーヒーには牛乳が入ってなかったのよ。これがどう言う意味かは当然分かってたんでしょ。だってあの時のあんた、無様なくらいガッカリしてたものね」
「大切なのは駱駝の乳だ。断じて牛のじゃない!」
「自分の都合のいいように解釈するわね。この調子だとやっぱり色々当てになりそうもないわね。このジャムシード狂い!」
「前にも言ったが僕は穏健派だ。本物の過激派には今の言葉ですら禁句だぞ。そういや君も一度会ってるよな。忘れたとは言わせないぞ」
「……まさか屋敷の襲撃は私を狙ってたの?」
「そうだ。不快だが、奴らと僕とは確かに思想を共有している。どちらも彼らがあのお方の聖家族になると信じている。だがやり方は真逆だ。奴らは簡単に暴力で物事を解決しようとする。だから君も痛い目に会いたくなければ、おとなしく自重して押入れにでも頭から突っ込んでろ。そうすれば嵐は去っていく」
二人の喧嘩は続いたが、連日の勉強で疲れていたせいもあって俺はそのうち本当に寝てしまった。
◇ ◇ ◇
明日から期末テストが始まるので、ロクサーヌの課外授業も今日で最後だった。
居眠り作戦を失敗で終えた俺には、二つの方法が残っていた。つまり本人に直接訊くか、またはスマフォを盗み見るかだ。
そこで俺は柔軟に対応することにした。先にチャンスが来た方に飛びつくのだ。
いつもの場所に座っていつものようにロクサーヌの解説を聞きながら、俺は密かに彼女のスマフォを探した。そしてそれがソファーの上に置かれたバッグの中に入っていることまでは突き止めた。後は休憩時に素早く盗み見るだけだ。
「何よそ見してんの?」
気づいたらロクサーヌの顔がそばにあった。
「そんなに気になることがあるの?」
俺は慌てて首を振った。
「ちゃんと勉強する気あるの? 明日からテストなのよ」
俺は任せろと言わんばかりに力強く頷いた。
「なんで喋らないのよ」
「見惚れて喋るのを忘れたから」
「何に?」
「お前に」
怒るかと思ったがそんなことはなかった。
彼女はあっさりと、
「そう」
と言うと、何事もなかったかのように解説を始めた。
この答えであってたのか? 本当によく分からん奴だな。
しばらくしていつもより早く休憩となった。まあ集中力を欠いた俺を見れば、誰だってそうしたかもしれないが。
ロクサーヌがお茶とお茶菓子を取りに部屋を出ていくと、俺はまずドアの元へと向かい彼女がちゃんと部屋を離れていくか確認した。
それからバッグの中からスマフォを取り出した。他のものには目もくれなかったし、くれてはいけない気がした。
これは盗み見ではない。彼女を泣かせた男を見つけ出し、首に縄つけてでも引っ張ってきて謝らせる。その為の崇高な盗み見なんだ!
俺は震え手でスマフォのスイッチを入れると、中に収められた写真を見た。ほとんどが犬や猫の写真で、時々何故か豚が混じっていた。
なんだこれ? この割合で好きなのかな?
とにかく量が多くて探すのに苦労した。
そしてただ一枚、人物らしきものが映っている写真があったので、それを選択した。




