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「ゴメン、川相。今日の数学でわかんねぇとこあるから教えてくれね?」
乃愛ちゃんの彼氏の港山時雨が私の目の前で両手を合わせて頼み込んできた。そう言えば同じクラスだったの気づかなかった。
いや、親しい仲ではない。断じて。そしてまず同じクラスのくせに初対面だ。だが港山時雨は私の名字を呼び親しげに話しかけてきた。
そこでなるほど、と頷く。
きっと港山時雨はとてもフレンドリーなタイプなのだろう。所謂瀬良みたいなコミュニケーション能力高めの人。
だから話したこともないような私と話せるのか。
と言ってもだ。
港山時雨には可愛い彼女の乃愛ちゃんがいる。
しかも乃愛ちゃんと港山時雨は同じクラス。
何故私に頼むのだろうか。
「あー、乃愛はさ…美化委員会の委員長で今日会議いってんだわ。それで数学得意と言う河相に頼んだ、って訳。だからそんな不思議そうな顔すんなよ」
「そういうことなんだ…て、顔に出てたかな?」
「うん。出てた。で、いいか?」
「別に良いけど……港山時雨くんって数学苦手なの?期末テストとか順位結構上の方じゃ…」
「港山時雨ってフルネームでオレのこと呼ぶ人初めて。港山でも時雨でも、どっちでもいいからさ。そう呼んでくれよ」
「あ、うん。港山くん」
気のせいだろうか、今背筋に悪寒が走った気がした。
「っで、どうだ…?」
「今日は部活休みだしいいよ」
と返事をしたわけで私は帰ろうとしていた鞄を自分の机に戻して、港山くんの分からないという部分を教えることにした。
そこまで学力には自信はないのだが、あんなこと言われて断れるはずもなかった私は港山くんの席の隣の人の椅子を勝手に拝借して教えることにする。
一応「借ります」と、言ったから大丈夫だろう。
「よーし、どこがわからないの?」
腕捲りをして一応私自身、準備完了。
そう言い港山くんの持っていたプリントを裏返すが何も書かれていない白紙だった。
「ねぇ、港山くん。これ何も書かれてい」
そこで途切れた。
掴まれた手首が痛くて、ギリギリと皮膚を食い込む爪が痛い。
少し反り返る私の体。
そして目の前に映る整った顔立ち。
少し湿った唇に触れる暖かい物。
なんとなく、その状況を理解するのに数十秒かかった。でもその時間がとてもとても、果てしなく感じた。長い年月をずっと待つかのように。
「オレ、川相のこと好き」
離れた唇から漏れた第一発声はそんな愛も優しさもない無機質な硬い言葉だった。
頭の中がすっからかんになる。
目の前にいるのは、誰?
そう言って港山くんはそのまま私を自分の胸板に押し付けた。
あったかくない。つめたい。くるしい。
そんな三文字が唐突に頭に過る。
何も感じないまま抱き締められるのだが、自然と抵抗が出来ないのはきっと港山くんにガッチリと抱き締められているからなのだろうか。
「…瑞季…ちゃ、ん?」
なんて悪いタイミングなのだろうか。
半開きになっていた教室の扉からずっと見ていたのだろうか、乃愛ちゃんが目尻に涙をためて肩をふるふると震わせていた。
口元を両手で覆い隠して栗色のさらさらな光沢がついたように夕日が反射する髪の毛を揺らす乃愛ちゃんは少女マンガのヒロインのようだ。
驚いて港山くんを振り切って離れれば静かに歩いてやってきた乃愛ちゃん。
白すぎもしない程度に丁度よく色づいた肌をした小さな手のひらが私の方に近づいた。
何となく、察しがついた。
ぱちん。
乾いた音が鼓膜の中で響き渡って、乃愛ちゃんの目尻にたまっていた涙は頬を伝って綺麗に落ちていった。
「さいってー…」
その一言を漏らすと同時に乃愛ちゃんは泣き崩れて、嗚咽混じりに私に何かを訴えかけていた。わからない。乃愛ちゃんのソプラノのような高い声が、音程を外してキーキー声へと変わってよくわからない。
頭が痛くなるような声の高さ。
非情なのか、分からないが何故その姿を綺麗だと思ったのか私はよくわからない。
なんかこんなの、前にあった気がする。
おんなじように誰かに頬っぺたをビンタされて、泣かれて、わけわかんないと自嘲した気がする。そのあと確かいじめられたんだったと思う。
毎日のように「最低な女」「泥棒猫」だのと汚名のレッテルをはられて、知らない男子生徒にいきなりキスをせがまれたり。
これが世に言う、いじめなんだと自覚するのには十分すぎた。
「親友だと思ってたのにっ、瑞季ちゃんなん、て…!」
「ま、待って乃愛ちゃん!これは誤解なの!ね?お願い、信じてよ!乃愛ちゃん」
「人の彼氏とキスしといて、なによ!」
その時何となく思い出した。
港山くんの言った無機質で吐き気のするような愛の言葉は私の耳元でしか囁かれていないものだと。そりゃ乃愛ちゃんには聞こえやしない。
やられた。
完全に港山時雨という男に騙された。
ふらふらとおぼろに立ち上がった乃愛ちゃんはそのまま走り去ってしまった。
いく宛のない私の手のひらだけが乃愛ちゃんの背中を追いかけていた。
そんな背後でクツクツと笑いが聞こえた。
「どーんまい、河相サン。まさか乃愛も騙されるとは思わなかったけどさ、河相が見せつけるように瀬良たちと絡むからイラついて。ちょっとからかってみましたー」
こいつ、嫌いだ。
次の日の朝、学校の共有下駄箱にいた、乃愛ちゃんの元に行けば乃愛ちゃんは私のことを見るなり悲しそうな顔をして走り去ってしまった。
多分、まだあのこと私がしたんだと思ってるんだ。
あれから港山時雨と乃愛ちゃんは自然解消したと、友達は言っていたが私はまだあの二人が付き合っているのを知っている。
昼休み、資料室で乃愛ちゃんと港山時雨が貪りあうように愛を確かめるキスをしていたからだ。
港山時雨は乃愛ちゃんのことを誘惑するかのように「あれは嘘だよ」「アイツからしてきたんだ」「オレには乃愛しかいないよ」なんて吐きそうなくらい甘ったるい言葉を魔法のように囁いていた。
その度に、硝子玉のようにつぶらな大きな瞳は閉じていて、頬は薄紅のように紅く染まっていた。
「し、ぐれくん…」
「愛してるよ乃愛」
「ん……私も。だからお願い、瑞季ちゃんのところに行かないで」
騙されないで、乃愛ちゃん。
今すぐにでもアイツの顔面を殴りたい衝動に駆られながら私は資料室の少し開いたドアからその様子をぼんやりと見ていた。
「あ、河相さん。覗きですか?趣味悪いですね」
気力のなさそうな声が頭上から降ってくるまではね。
「う、うわぁふ!?」
「ちょ。五月蝿いですよ河相さん。バレたらどーするんですか」
その大きな手のひらで私の口元を覆い隠して抱き寄せる葯見。
女子にしたら結構大きい方の私でもすっぽりと収まるその大きい身長に包まれて何だか気持ちがふわふわしてきた。
葯見は私の見ていた方向を見つめて「うげぇ……」なんてあからさまに嫌そうな声を漏らした。
「なんですか、あれ。もしかして河相さんの彼氏とか?」
「違う違う。いろいろあって、ね」
「ふーん…」
葯見の方から聞いてきたくせに興味なさそうに返事をした。
なんだよこいつ、なんて毒づいてれば葯見がギョッとした様子になって、どうしたのかと思っていれば私を脇に担いでダッシュし始めた。
廊下は走っちゃいけないんだよ、なんて言えない。
運動部をみくびっていた。
無気力男子だからといって、運動部だから走るのが速い。
当たり前のことに今さら気づいて絶句していれば葯見が急ブレーキをかけて、渡り廊下のところで私を下ろした。
「ねぇ、何があっ」
「か、わいさん…ダイエットしてくだ、さい」
言葉を被せてきた葯見から発せられた恐ろしい禁句。
まさかのデリカシーなし系男子なの、この子。
平均的な体重ですと断固すれば葯見は怪訝そうな顔をした。
じゃなくて。
「なんでいきなりそんな慌てたの?」
「あの男の人が河相さんのこと見てましたよ。キスしながら」
「嘘でしょ」
「嘘ですよ」
「もう!変な冗談やめてよねー」
「見ていたのは女の人の方ですもん」
「もっとダメなやつじゃんか!」
葯見は「え?」なんてからかっていて謝る気はサラサラない様子だった。葯見のサラサラストレートヘアーが窓から入ってくる光を浴びてきらきら光る。
葯見に後光がさしたかのように淡いあったかいオレンジ色の光。
昼間なのに、なんか変だね。
なんて内心ではクスクス笑う。
葯見はポリポリと頭をひっかくと私を廊下に置かれていた古い椅子に座らせれば、ギシギシと嫌な音を立てた。
葯見は私と視線を合わせるようにしゃがむと私の手を優しく包み込むように握った。
「なんか力になりますから。無理しないでくださいよ」
照れ臭そうに視線を反らす葯見。
あったかい。あったかい。あったかい。
葯見は冷え性だから手は年がら年中冷たいのに、何故だかあったかく感じたのはきっと葯見が珍しく微笑んで私のことを堂々と心配してくれてるからなのだろうか。
いつも葯見は陰で私たちのことを心配して助けてくれてたから、堂々と心配してくれるのは何か嬉しい。
「ありがとう葯見」




