第9話 俺、宗教のお誘いはお断りしてるんです
窓の外から朝のやわらかい日差しがベッドに差し込み、ボルディアナの一日の始まりを告げる。
「朝なのですよ。一日の活力を得る朝食の時間なのですよ~」
ジルはシンの枕もとを飛び跳ね、ぺちぺちとシンの頭を叩く。
街に時計がなく、太陽や星の位置からおおよその時間を計り、鐘の音で時刻を告げるボルディアナにおいて最も正確なのはジルの腹時計だ。
ジルが騒ぎ出すと三の刻を知らす鐘の音が三度シンの耳にも届く。
ボルディアナでは一日12回鐘の音で時刻を告げる。
まだ太陽が昇らない二の刻を告げる鐘の音で起き薄暗い中仕事を始める者もいるが、多くの者は三の刻から活動を始める。
朝食を摂ると今日は冒険者ギルドに向かわず、昨日の帰りにグリズリーウルフの肝を持ち込んだ薬師の元へと向かう。
カラン、カラン
シンが店の扉を開けると扉に備え付けられた鈴から店主に来客を告げる音が店に広がる。
スラムの近くにあるその薬師の店は魔物の頭蓋骨などが店の中に展示されており、シンには薬師と言うよりも魔女の住家のように感じられる。
「イーッヒッヒ」
店の奥から老婆の笑い声が聞こえる。
日頃から真っ黒いローブを身に着け、顔のほとんどを隠して過ごすその老婆はシンの知る物語の魔女によく似た存在だ。
「婆さん。来たぞ、婆さん」
笑い声を上げている老婆はシンの呼び声にも気づこうとはしない。
ジルは老婆の笑い声が以前より気にいってるらしく
「イーッヒッヒ、イーッヒッヒ~なのですよ。なかなかイーヒッヒーの道も奥が深いのです」
と老婆の物まねを行い、今日の出来を自分でチェックしている。
「婆さん、婆さん!」
シンが先ほどよりも大きな声を出しても、老婆は気づかず、店の奥で薬の調合に勤しんでいる。
「婆さん!!……ちょっとそこのお姉さん」
「ん?誰がナイスバディーな大人の綺麗なお姉さんだって?」
シンが婆さんから呼び名をお姉さんに変えると老婆はすぐにシンの元へとやってきた。
お姉さんの前に大層厚かましい形容詞がついているのはいつものことだ。
「シン坊、来たんだったらちゃんと声をかけな」
「ちゃんと声をかけただろ。不用心すぎるぞ、婆さん」
店の奥で老婆一人しかいないこの店は傍から見て不用心だ。
店に展示されているものを盗まれたり、売り上げを狙った強盗が店に入って来ないとは限らない。
もっとも以前店に入った盗人が、店の前で緑色の顔をして倒れ込んでるのを街を警邏中の兵士が発見したこともあることから、この店を狙うような犯罪者は少ないとも考えられるが。
「今日も確か2本分だったね」
そう言って老婆は店の奥から赤い液体の入った瓶を2本持ってくる。
グリズリーウルフの肝を調合した魔素欠乏症の薬だ。
「残りは本当にいいんだね?」
「ああ、他の材料も入ってんだし、残りは婆さんの手間賃でいいよ」
グリズリーウルフの肝からおよそ10本分の薬が作れるが、シンは自分に必要のない分は老婆に譲り渡している。
「相変わらず未亡人に貢いでるとか健気だね。子どもの前で腰を振ったりするんじゃないよ」
子どもには聞かせられない、とても下品な言葉をシンに投げつける老婆だが、ジルのサポートの元、ポイントを稼いでるシンは日頃から老婆が自分に感謝してくれてることを知っていた。
この老婆がスラムの近くに店を構える理由は原価ギリギリで薬を病人に分け与えたり、事実上無期限の返済期限を設けて、スラムの住人を助けている。
口は悪いが情が深い老婆なのだ。
そのことを知ったシンが老婆のことを優しい婆さんだと以前褒めたところ、その機嫌を大きく損ねたため、それ以降はシンも罵倒の応酬を楽しむようにしているが。
「下世話だな。すでに女としての寿命はとっくにお迎えを告げたくせにまだそういったことに興味あるのかよ」
「ふん、脳みそと下半身が直結しているような馬鹿がせっかく慕ってくれてる子どもから嫌われたりしないように忠告してやってるだけだよ」
老婆もシンがそんな真似をしないことはよく知っているが、自分の口悪さを嫌ってないシンを相手にしていると、どうしても次から次へと悪態をついてしまうのだった。
ゴミの多く散らばった小汚い小道をシンは進む。
マックスとリリサの住む小さなボロ屋が目的地だ。
マックスはまだ7歳の短い淡い緑色の髪の少年であり、リリサはその母親だ。
16でマックスを生んだらしく、現在23歳でシンにとってはお母さんと言うよりお姉さんのようにしか見えない若い母親だ。
シンがマックスと出会ったのは半年前。
シンがスラムの路地を歩き、善意を押し付けられる相手を探していたところ、シンの革袋を盗もうとしたのがマックスだ。
スリとは言ってもまだ子どもなので、ちょっとお灸を据えるだけで勘弁してやろうと拳骨をお見舞いした後も、気丈にシンを睨み付ける態度を取る子どもをなぜかシンは気に入った。
飯でも奢ってやろうと思い立ち、マックスを誘うと
「飯を奢ってくれんなら薬を買ってくれよ」
マックスは両目に涙を浮かべてシンに頼んだ。
そして、シンがマックスに手を引かれて向かった先が薬師の老婆の店だった。
「今、材料を切らしてんだよ」
薬を求めたマックスを老婆はそう言って追い払った。
老婆がマックスを追い払った言葉は事実だったが、マックスは自分の持っている金じゃ薬が買えないと思い込み、お金を得るためにシンの革袋を盗もうとしたのだ。
老婆はシンに足りない材料はグリズリーウルフの新鮮な肝だと伝えた。
シンにとって子どもは多くのポイントを得やすい相手だ。
シンはその後すぐ、森の中に入り、グリズリーウルフの肝を獲って、その肝を調合してもらい、マックスと共にリリサの元へと訪れた。
それ以降、マックス、リリサとの関係は続いている。
野菜を煮炊きする臭いにシンは鼻をひくつかせた。
棒のように痩せ、修道服を着た男が炊き出しを行っていた。
「おや、これはシン殿。これからどこに行かれるのですか?」
「これはこれはクロード助祭。ちょっと知り合いに頼まれていた薬を届けるだけですよ。まさか、知り合いに薬を届けるのも神殿の職分を害するとか言いませんよね」
男の名はクロード。
ボルディアナの街にある豊穣の神エルドナを奉る神殿の助祭の一人だ。
シンが数回スラムで炊き出しを行ったところ、クレームをつけてきた男でもある。
「もちろん、そのようなことは申しません。シン殿の善意に満ちた行動をエルドナ様も見守っておられるでしょう。それよりも今度また炊き出しを手伝っては頂けませんか」
そう言ってシンに対し微笑みかける。
「いずれ時間の都合が取れれば、またということで」
シンはクロードにそう答えた。
シンは宗教家が好きではない。
たとえシンが良い行いをしても、彼らと共にいると感謝はエルドナへ求めるからだ。
スラムでの炊き出しが神殿の職分を侵すというので、自ら行うのではなく神殿の炊き出しをサポートする形で参加したところ
「私たちではなく、エルドナ様に感謝をしなさい」
彼らはそう言うのだ。
神殿の炊き出しに半日協力しても、シンが得られたポイントは0だった。
スラムの住人だけでなく、神殿の連中もシンに感謝をしない。
シンが協力するのはエルドナへの信仰心であり、シンの協力を得られたことをエルドナへ感謝するからだ。
シンが以前神殿に寄付をした時もエルドナ様の加護があるようにと述べただけで、シンではなくエルドナへ寄付が得られたことへの感謝の祈りを捧げていた。
「ジルはエルドナなんて神様知らないのですよ~」
シンに対しクロードがエルドナの教えを説法したとき、ジルはパタパタと飛びながらシンに対してそう伝えた。
このエルドナはどうやら神殿勢力が人々から信仰を集めるために創作した神様らしい。
(そんなものに祈りを捧げるくらいなら、一割でもいいから俺に感謝しろ。誰が救おうと救われた側にとっちゃありがたいんだ。神殿の職分がどうのとかぬかすなら、すべてのスラムの住人を救ってからほざけよ)
それがシンの言い分だった。
そのため、シンは表立っては神殿の連中を嫌ったそぶりは見せないものの、必要以上に関わりたくないというのが本音だ。
もっとも宗教と権力とのつながりは馬鹿に出来ないため、シンは時折り神殿にも寄付を行い、それなりの付き合いをしているが。
シンはクロードと出会ったため、今日はついてないと思いながら、マックスとリリサの家へと向かう歩みを速めた。