第3話 グランズールに到着なのです
エリーザにとってシンの言葉はとてもおかしなものだった。
普通の男なら口約束をするだけでいい思いができそうだと飛びつくだろう。
逆に気障な男、見栄張りな男なら口約束をして、下心を持ちつつも何の見返りも要求しない。
そして単なるお人よしなら、下心なく何の見返りは要求しない。
シンはそのいずれでもない。見返りは見返りでも自分のことを思い出して、感謝しろと要求したのだ。
「うふふ、変なやつ。今更気が変わって、私に相手をしてほしいって頼んできても相手してあげないんだから。女に恥をかかせてくれちゃって。……ボルディアナのシンね。もしも私のことが欲しくなったら、魔物討伐から帰ってきた際にまた立ち寄ってもいいわよ。どうしても一緒に寝たいんだっておねだりしてくれたら、考えてあげてもいいわ」
「勝手に言ってろ。誰がそんなみっともない真似するか。俺の言ったこと忘れんなよ」
「ええ、憶えとくわ。……ねえ、せっかくだから、私が歌い終わるまで聞いていきなさいよ」
エリーザはそう言うと席から立ち上がり、座っていたシンの顔に自分の顔を近づけた。
「ちょっ、近い。顔が近い!」
エリーザの行動に慌てて距離を取ろうとしたシンの手を握り、耳元に息を吹きかけ、エリーザはステージへと戻る。
「何か期待しちゃったのかな?つんつんしてるわりには、結構可愛い反応できるじゃない」
エリーザはシンに背を向け、手をひらひらと振った。
エリーザにからかわれたシンは頬を紅潮させた。
「人をからかうなよ!俺はもう帰るからな!」
エリーザはシンのその言葉に振り向くことはせず、そのままステージへと上がった。
勘定を済ませて、ジル達と共にそそくさと店を立ち去ろうとしたシンの耳にエリーザの歌声が聞こえてきた。
先ほどのどこかしんみりとした、もの悲しい歌とはまた違う。
狩人である愛する夫の無事と狩りの成功を祈る妻を題材とした歌だ。
穏やかながらも何か元気が湧いてくるようなその歌声にシンは足を止めた。
エリーザのこの歌は自分とあの少し危なげな冒険者に向けて歌われているものだと感じたからだ。
シンは軽く目を瞑る。
ボルディアナでシンの無事を祈ってくれているだろう、孤児院の子ども達やダリア達がまぶたに浮かんできた。
他の冒険者たちも先ほどとはうって変わってエリーザの歌に聞き入っている。
この酒場にいる冒険者の中には騎士団の魔物討伐に参加する予定の者が何人もいる。
騎士団の魔物討伐に参加しない冒険者であっても、日々の生活のために危険な魔物狩りを行っているのだ。
家族や友、馴染みの女。
幾人かの冒険者は自分の大切な人のことを想った。
また別の冒険者は魔物狩りの成功をイメージし、必ず仲間と共に無事に帰ると心の中で誓いを立てた。
エリーザがその歌を歌い終わるとまた別の歌を歌い出した。
シンは目を開けると、カウンターの奥にいた酒場の店主にある頼みごとをした。
そして、エリーザの方を一瞥することもなく、そのまま酒場を立ち去った。
「あらっ、もう帰っちゃったのね」
何曲か歌を歌い続け、今日の仕事を終わらせたエリーザは他の冒険者たちが拍手をしている中、ようやくシンが立ち去ったことに気づいた。
ステージから降りたエリーザに対して、今夜の相手をまだ決めていなかった冒険者が何人か声をかけてきたが、エリーザは笑顔で首を振る。
「今日はちょっと頑張って歌い疲れちゃったの。悪いけど、また今度私に会いに来てね」
エリーザは自分を誘ってきた冒険者達に軽くウィンクをするとカウンターの奥にいた店主の前まで近づき、声をかけた。
「じゃあ、お疲れ様。私、今日はもう帰るわ」
「エリーザ」
「……何よ。断ろうが私の勝手でしょ。今日はそういう気分にはなれないの。村長も別に誰かと寝るのを強制してないじゃない。咎められる筋合いはないわ」
酒場の店主に挨拶をしてから帰ろうと思っていたエリーザだが、呼びとめられたことで誘ってきた冒険者への対応で咎められると思い、声を潜めて、反発した。
「違う。別に咎めているわけじゃない。さっきまでお前が一緒に飲んでいた冒険者からのチップだ」
そう言って、酒場の店主はエリーザにシンから受け取った1枚の銀貨を手渡す。
「だから、歌のチップにしては多過ぎよ。本当に仕方ないわね」
エリーザは手のひらで銀貨を転がしながら、にんまりと笑った。
シンは自分の宿に戻ると寝る前に甕の中の水を使って、身体を拭き始めた。
水で濡れた布を頬に当てるとひんやりと心地いい。
「やっぱ、ちょっと酔ってるな」
シンはふうっと溜め息をついた。
身体を拭き終わり、寝室に戻ったシンはベッドの上でジルがエンジェに小声で話しかけているのが見えた。
「話してないで、さっさと寝るぞ。それでなくともジル、お前は朝に弱いんだから、あんまり遅くまで起きてると明日起きれなくなるぞ」
シンが声をかけるとジルはシンの方を慌てて振り向く。
「別にジルはエンジェと内緒話なんてしてないのですよ。シンさんの勘違いなのですよ。ねえ、エンジェ」
エンジェもジルに同調するかのようにナアと鳴いた。
「いや、してただろ」
「してないのです」
「……はあ、もう別になんでもいいや。さっさと寝るぞ」
「はいなのです。早く寝るのですよ」
ジルはシンの言葉に頷くとベッドにコテンと横たわった。
エンジェもいつもどおりベッドの隅に丸まる。
シンは室内の灯りを消し、自分もベッドに横たわる。
「お休み」
シンはジルとエンジェにそう声をかけた後、酒が入っているせいか、すぐに軽く寝息を立て、眠りについた。
シンが寝息を立てて、数分後、ベッドでコテンと横になっていたジルがシンに小声で声をかけながら、シンの頬を突っつく。
「……シンさーん、シンさーん。おーいなのです」
プ二プ二
酒のせいか、シンはジルに声をかけられても、頬を突かれても起きようとはしない。
「エンジェ、もう大丈夫なのです。シンさんはもう寝ちゃったのです」
ジルがエンジェに声をかけると、エンジェは丸まっていた身体を伸ばして立ち上がり、ジルに近づいた。
「それじゃあ、これから一緒に練習するのですよ」
ジルの言葉にエンジェはこくんと頷いた。
ジルがエンジェに話しかけていた内容はシンが寝た後に歌の練習をするというものだった。
エリーザの歌にシンが聞き入っていた様子から、自分たちの歌を作ってみようと考えたのだ。
すでにジルの中では歌詞ができている。
後は練習するだけだ。
きっとシンも喜んでくれるだろう。
あわよくばグランズールでジルやエンジェの好きな食べ物を買ってくれるかも。
ジルはエンジェにそう説得した。
エンジェもジルの話は半信半疑ながらも、産まれて初めて聞いた歌に影響されたのか普段と違って少々乗り気だった。
ジルとエンジェはシンの傍から離れて、寝室の一番隅の方に移動した。
「じゃあ、エンジェもジルに合わせて歌うのですよ」
ジルは小さな拳を握り、ブンブンと振って歌の練習を始めた。
「どんな時でも諦めずに前を見るのです」
「ミャアミャア」
「苦しい時でも立ち止まらずに進むのですよ」
「ミャアミャア」
「ジルとエンジェとシンさんなら、きっと、きっと乗り越えれるはずなのです」
「ミャアミャア」
「どんな敵が相手でも、3人なら絶対勝てるのです」
「ミャアミャア」
「だから皆で美味しいものをたくさん食べて、明日も頑張るで~すよ~」
「ミャア?ミャア?」
ごくごく一部の特定の嗜好を持った者を除けば、聞くに堪えない酷い歌声と歌詞だ。
驚くほど音程がずれている。
特に最後は単なるジルの願望に過ぎない。
エンジェも最後のはさすがになんだかおかしくないかとジルに抗議を行った。
「うるせえ、ジル!エンジェ!ったく、さっさと寝ろよ。下手くそな歌を夜中に歌うな」
寝息を立てて、ウトウトと眠りについていたシンだが、ジルの高い声の歌に目を覚ますと二人を怒鳴った。
「えーっ?シンさん、起きちゃったのですか?お歌が完成するまで聞いちゃ嫌なのですよ」
「それなら、せめて俺のいないところでやれ」
「いいからシンさんは見なかったことにして、もう一度、今度はぐっすり寝てくださいなのです」
「それでまた練習するつもりだな?いいから寝ろ。明日飯抜きにするぞ」
「それはダメなのです。わかったのです、今日はもう寝るのですよ」
ご飯抜き、ジルにとっては一番厳しい罰の一つだ。
ジルは少々不服そうな顔をしながらも、パタパタとベッドに戻ると今度は狸寝入りをすることなく、すやすやと寝始めた。
エンジェはジルのせいで怒られた、やっぱりジルの言うことはあてにならないと思いながら、ベッドの隅にいそいそと戻ると身体を丸める。
その夜、再びジルとエンジェが歌の練習を始めることはなかった。
再びシンがウトウトとし始めた頃、シンには聞こえるはずもないのにエリーザが歌う子守唄が聞こえてきたような気がした。
「シンさーん、そろそろ起きるのですよ。一日の活力を得る朝食の時間なのですよ」
翌朝、シンはジルに起こされて目を覚ました。
普段とは逆の立場だ。
「ん、ん?……ジル、今いつぐらいだ?」
「いつぐらいって言われても、ジルとしては困るのです。ここは鐘で時刻を教えてくれないのです。えっと、お日様も少し前に昇りはじめて、商人さん達の馬車も結構出発し始めたみたいくらいなのです」
「寝過ごしちまったようだな。ジル、朝食は村を出て、歩きながら食べるぞ」
「もう、ジルのことを寝坊助さん扱いしといて、シンさんの方が寝坊助さんなのです」
シンは顔を洗うと慌てて身支度を始める。
別に今日中につかなければ、不味いというわけではないが、だからと言って、わざわざ野宿したり、他の村でもう一泊する気にはなれない。
シンはグランズールにこれまでに行ったことがないため、せっかくだし、騎士団の魔物討伐に同行する前に初めてのグランズールを回ってみようとも考えていた。
日が暮れてからの到着も困る。
行ったことのないグランズールで日が暮れてから宿を探すのは少々面倒くさいとシンには思えた。
家の鍵を村長の家の家人に渡した後、シンは早歩きで村を出た。
ジルは朝食が遅くなったことにブツブツと不満を口にしていたが、ボルディアナで購入していた蜂蜜が中にたっぷりと詰まった菓子を手渡されると機嫌を直し、一心不乱に食べ始めた。
エンジェもシンに手渡された生肉を咀嚼しながらシンのペースに合わせて歩いていたが、村を出てすぐ、背中に何かベタベタとした嫌な感触を感じて立ち止まった。
今日もジルは村を出発した時から、エンジェの背に乗っていた。それだけなら、いつも通りの話だが、今日はジルが蜂蜜入りのパンケーキを食べ散らかしたため、背中の毛並みにベタベタとした蜂蜜やお菓子の食べかすがびっしりとつくことになってしまったからだ。
エンジェはフシャアーとジルに怒りの唸り声を上げながら背中をぶるぶると震わせ、ジルを振り落とした。
「エンジェ、ジルが悪かったのです。もう食べ散らかしたりしないから、また背中に乗せてください」
ジルは残っていた蜂蜜菓子を口の中に放り込むと、そう言いながら手を合わせて上目づかいでおねだりを行うが、エンジェはジルを無視した。
そしてジルが近づき無許可で背中に乗ろうとすると何度も尻尾で叩き落とした。
「……仕方ないのです。以前の様にシンさんの肩の定位置に戻るとするのです。シンさん、今日はよろしくお願いするのです」
「却下だ。汚い手で俺に触んな」
ジルはエンジェの機嫌が直るまでシンの肩に乗せてもらおうとしたが、シンもエンジェと同じく断った。
「ど、どうしてなのですか?シンさんまでジルのことが嫌いになっちゃったのですか」
ジルはシンの言葉で少し涙目になりながら、シンに訳を尋ねた。
「手だ」
「手がどうしたというのです?」
「お前の手、蜂蜜でギラギラしてんだろ。そんな手で肩に乗られたら、俺までベタベタになるだろ。待っててやるから、そこでさっさと洗ってこい」
シンはそう言って、街道の傍を流れていた小川を指さした。
ジルはシンに言われて、ようやく自分の手が蜂蜜でべったりしていることに気づいた。
「すぐに洗ってくるからそこで待ってるのですよ」
ジルは手についていた蜂蜜をぺろりと舐めると、慌てて手を洗いに小川へと飛んでいく。
「せめて、手を合わせたときに気づけよ。なあ、エンジェ。しばらくジルは俺の肩に乗せておくから適当に機嫌なおしてやれよ」
ジルがバシャバシャと必死に手を洗っている様子を見ながら、シンがエンジェにそう言うと、エンジェもジルを見ながら困った妹分だとでも言いたげな顔でミャアとシンに返事をした。
ジルを肩に乗せたシンは進む速度を速める。
道中、シン達はヴィアーテの村を先に出発した商人の一行を何組も抜き去った。
今朝ヴィアーテを出発した商人やその護衛たちは荷馬車の速度からして、今日はもう一泊、別の村に宿泊し、明日の昼過ぎにグランズールに到着することになるだろう。
無尽蔵な体力を誇るレッドホースとは異なり、商人たちが扱う荷馬車を引く馬などはせいぜい2時間ごとに一定時間休ませる必要があるからだ。
昼飯時の休憩もいつもより短めに切り上げ、シン達は昨日よりも早目のペースで進み続ける。
およそ8刻(16時)頃、シンの視界には薄らと大きな城壁で囲まれた街の姿が見えてきた。
グランズールだ。
それだけではない。
グランズールに向かう馬車の数が明らかに増えている。
ボルディアナとグランズール間の道に合流する道が何本もあったが、その道を通ってきたボルディアナ以外の街や村からグランズールへとやってきた商人たちの一行の馬車が増えたためだろう。
そして、シン達は9刻(18時)を知らせる鐘の音がグランズールに鳴り響く30分ほど前、ようやくグランズールへとたどり着くことができた。
次回は24日の午前11時




