第17話 虎の本能
「あんまり俺から離れるんじゃないぞ」
シンは魔物討伐の帰り道、エンジェに声をかけた。
今、シン達がいる平原を見渡す限り、近くに魔物はいない。
遠目に大型の魔物の姿は見えるが、距離は離れているし、仮に近づいて来ても、ジルやエンジェも気が付くだろう。
だが、エンジェが草むらの方向に関心を抱いている。
シンの言葉に軽く頷いたものの、どこまでしっかり聞いているかは不明だ。
小動物でも見つけたのかなとシンは考え、シンもエンジェと同じ方向を見る。
ジルもシンの頭上からエンジェが見ている方向をじーっと見る。
「あっ、兎さんなのです。兎さんがいるのですよ!可愛いのです」
シンよりもジルの方が野兎を早く見つけ、はしゃぎだした。
シンも注視してみると、浅い草むらから野兎の薄茶色の耳がひょっこり出ているのを確認することができた。
ジルがはしゃぎだすのとほぼ同時にエンジェが野兎に向かって駆け出す。
そして、エンジェは勢いよく兎に飛びかかると、野兎の喉に噛みつき、捻り切った。
「う、うさぎさ~ん!!」
エンジェの牙によって野兎が絶命する様子を見て、ジルは情けない声を上げた。
エンジェはシンの足下に喉を噛みきり絶命させた野兎を持ってきた。
褒めてくれるのかな、それとも言いつけを破ったことで叱られるのかなという期待と不安の入り混じった表情を浮かべると共に、シンの魔力袋に自分の戦果を入れて欲しそうにした。
魔物の成長は早い。
特に魔生の森に生息するような魔物のほとんどは、ある程度の大きさまでは急激に成長していく。
そうでなければ生き延びられないからだ。
魔物の楽園とはいえ、母虎が犠牲になったように、その生存競争自体は熾烈だ。
エンジェを飼うようになってから、まだ10日近くしか経っていないのに、初めて見た時よりも一回りどころか二回りは大きくなったような気がする。
エンジェを抱き上げてみると体重も明らかに増えているのが分かる。
爪も牙も鋭さを増しつつある。
エンジェは虎だ。
獲物を狩るのは虎の本能だ。
その虎の本能を否定してはならない。
人から餌をもらって可愛がられるだけでは、虎ではなく、デブ猫に成り下がってしまう。
シンは今、見つけたばかりの野イチゴを口に運ぼうとするジルをちらりと見る。
野兎の絶命にショックを受けたと思ったのも束の間、近くに実っていた野イチゴを見つけると、嬉しそうにパタパタと飛んで、もいできたのだ。
「ぺっぺっぺ、これはすっぱくて不味いのです。……むむむ、何か悪口を言われたような……」
単に人から餌をもらい、可愛がられるだけのデブ猫になってはいけない。
おそらく、母虎の戦う姿は何度か見たことがあるだろう。
野兎の喉に噛みつく姿は小さいながらもエンジェが虎であることを改めてシンに実感させた。
エンジェは誰かの手を借りることもなく、野兎とは言え、一人で狩ってきた。
それは褒めてやるべきだろう。
だが、シンの言いつけを破ったのも事実だ。
「よくやったな。お前が初めて狩った獲物だな」
そう言って、シンはエンジェの頭を軽く撫でた。
そして、その後、エンジェの耳を引っ張る。
「だが、俺の言いつけは破るなよ。せめて、獲物を狩りに行く場合はちゃんと俺に知らせろ。急に駆けだしたりするとびっくりするからな。それとよほどのことがない限り、その爪や牙を人には向けるなよ」
エンジェはわかったと言わんばかりにミャアーと鳴く。
お説教はくどすぎない方がいい。
物覚えの悪い馬鹿に対しては繰り返し何度も言う必要があるが。
「……また、誰かに悪口を言われたような気がするのです」
ジルは野イチゴの口直しにと言わんばかりに、少し前におやつとして受け取り、残しておいたランカサス産のブドウを皮も剥かずに食べている。
シンの考えを読んではいないものの、無駄な勘の良さで何かを感じ取ったようだった。
だが、ジルに考える頭があれば、誰かは簡単に予想できるはずだ。
何せ、ジルのことをはっきりと見えているのは今のところ、シンとエンジェくらいなのだから、そのどちらかであることがわかるはずである。
「きっと、可愛いジルに嫉妬した誰かさんなのです」
ジルはいつも通りのアホの子だった。
シンはナイフを取り出すと器用に野兎の毛皮を剥ぐ。
すでに2年半近く、こういったことをしているのだ。
最初はなかなか慣れなかったが、すでにお手の物だ。
どうせなら、エンジェが初めて狩った獲物である野兎の毛皮を使い、エンジェに敷物でも作ってやろうかと考える。
まるで子どもの成長を記録している親のような気分だとシンは苦笑した。
「シンさん、この兎さんで晩御飯を作るのですよ」
ブドウを食べ終わったジルはシンにそう提案する。
エンジェの方も異論はなさそうだ。
エンジェに濃い味付けの物を与えるのは極力控えているシンだが、多少の味付けなら構わないようにも思える。
シンはエンジェに切断した野兎のもも肉を骨付きで与えると今日の夕飯のことを考える。
「帰ったら、市場でニンニクでも買おうかな」
ウサギ肉のステーキとニンニクは相性が良さそうだ。
臭みを消すために牛乳でしばらく漬けてから、下味をつけて焼けば、なかなかいい一品になりそうな気がする。
この野兎のボリュームでは3人が食べるには少し足りないが。
「まあ、後でエンジェが嫌な顔しそうだけどな」
食べ終わった後の臭いのことを考えると、エンジェが鼻をひくつかせながら、顔を歪めそうな気がした。
実際、その日の夕食後のエンジェはシンやジルから見ても面白かった。
エンジェもシン達と同じように牛乳で血抜きをした後、水分を拭き取り、ニンニクと香草、果実の蒸留酒でよく肉を揉みこみ、焼く際には塩をまぶした野兎のステーキを食べた。
エンジェも食べている時は自分の狩った獲物を堪能するのに夢中で大して気にしなかったが、食べた後の行動は酷かった。
ニンニク臭いシンに近づくのを嫌がるだけではなく、自分の吐く息の臭いも気に入らないらしく、必死になってミルク入りの皿に顔を突っ込む。
舐めるのではなく、飲み干すような勢いでミルクに顔をつける。
顔中をミルクでベチャベチャにしながら、鼻をスンスンさせると嫌そうな顔をして、またミルク入りの皿に顔を突っ込むことを何度も繰り返した。
そして、普段は嫌がる歯磨きすらシンに自分から要求した。
その日の夜、普段はベッドの隅で丸くなって眠るエンジェだが、その日ばかりはシン達が眠るベッドから離れた場所で丸くなって眠っていた。
翌日、シンは午前中に野兎の毛皮とグリズリーウルフの毛皮を仕立て屋に持っていく。
野兎の毛皮は昨日作ることに決めたエンジェの敷物にする。
グリズリーウルフはシンの防寒具、具体的にはマントにするためのものだ。
まだ8月の下旬に差し掛かったばかりだが、そろそろ10月に同行する騎士団の魔物討伐の準備を進めて行く必要がある。
当然のことだが野営の機会が増える。
10月ともなれば、夜になるとだいぶ冷え込む。
夜、眠る際にも使えるマントがあれば、便利だとシンは考えた。
どうせなら、大きめのマフラーも作ってもらおう。
ジルが寒がる時はそれでグルグル巻きにでもしておけば十分暖かいだろうし、シンが使ってもいい。
仕立て屋で注文を済ませると、クリスティーヌのところへエンジェの腕輪と髪飾りを受け取りに行く。
幸いなことに今日のクリスティーヌは他の依頼で立て込んでいるらしく、あまりシンを構う余裕がないようだ。
シンが残金を支払い、腕輪と髪飾りを受け取ると「ごめんなさいね、今日はクリスティーヌってば超忙しいのよ、バイビー」などと言って、工房の奥へと引っ込む。
シンとしてはむしろ普段からそのくらい忙しくしてくれている方が助かる。
すでに剣の砥ぎの依頼を何度か出しているが、剣を受け取った後でもクリスティーヌに長話をされるとかなり疲れるのだ。
精神的に。
クリスティーヌはなるべく牙を無駄にしたくはないらしく、依頼した時は腕輪1個と髪飾り1個の予定だったにもかかわらず、腕輪の個数が2個に増えた。
腕輪は母虎の牙をビーズ状にしたものを紐ではなく、わざわざ白銀を線状にしてビーズの穴に通したもので、ある程度はサイズ調整も可能になっている。
髪飾りは牙を三日月状にしたものを銀細工の中心部分にしっかりと止めている。
「果物美味しかったから、サービスしてあげちゃった」とのことだ。
髪飾りの方はもう少しエンジェが大きくなり、毛も伸びてからつけさせることにしたが、腕輪の方は工房を出る前に、エンジェの両前足につけてやった。
エンジェは腕輪を両前足につけられると、床に腹をつけて、伸びをする形で両前足を前に出し、じーっと母の牙で作ってもらった腕輪の出来を見ているようだ。
なかなか気に入ったと言わんばかりにミャアーと鳴くと、立ち上がり、そのままシンと一緒に工房の外へと出た。
昼食を外で済ませた後、シンはガルダの指導を受けるためにアメリアにエンジェを預けようと考えた。
先日、ガルダの指導を受ける際に、エンジェも訓練場に連れて行き、他の冒険者の動きも見せて、人間の動きを覚えさせようとしたが、それは上手くはいかなかった。
ガルダが眉をひそめたのだ。
その理由はシンの集中力が普段よりも疎かになってしまっていたことだ。
シンとしては集中力を欠いているつもりはなかったが、やはり他の冒険者がエンジェをどう見るか、毛を染めて、まだ翼が生えていないとはいえ、スカイタイガーの子どもであることがばれないかが気になったのだろう。
「やる気がないのなら、今日は帰れ」
怒鳴るわけでもなく、静かにガルダにそう言われるとシンとしてはエンジェを訓練場に連れてくるのは憚られた。
だが、エンジェを一人で家に残すわけにもいかず、安全面を考えると孤児院や老婆の店に預けることもできない。
そこでふと思いついたのが、騎獣登録の際に、鼻から情熱を垂れ流さんばかりにエンジェを溺愛していたアメリアの存在だ。
エンジェの秘密を知っているし、安全面を考えると、今のところ、これ以上の預け先はシンには思い浮かばなかった。
冒険者ギルドの副ギルド長の部屋は安全だ。
基本的にお偉いさんの接客などは副ギルド長ではなく、ギルド長がこなすことが多いため、エンジェを預けてもそこまで目立たない。
また冒険者も副ギルド長の部屋の中で問題を起こすような馬鹿はいないだろう。
あまりに馬鹿げた真似をすれば、数日後には物言わぬ冷たい身体となって、街の外れに打ち捨てられている可能性があるのだから。
エンジェを副ギルド長の部屋に預けようと連れて行ったとき、アメリアは書類仕事中だったが、エンジェを見ると表情を蕩けさせ、シン達を出迎えた。
昼から夕暮れ頃までエンジェを預けたいとシンがアメリアに伝えると、腕で胸を隠すように組み、ワナワナと震えだす。
「対価……、対価はなんですか。私との一夜でも御所望ですか?」
エンジェの世話や面倒を見てもらうシンの方が本来払わなければならない立場だと言うのに、そんなことを要求するはずがない。
だから、シンとしては副ギルド長がアメリアの言葉に反応して、殺気を飛ばすのはやめてもらいたい。
最近シンの中での副ギルド長の評価は少々下降気味である。
「そんなわけないでしょ。だから、副ギルド長も俺に殺気を飛ばしてくるな!訓練場で鍛錬する際にエンジェがいると他の冒険者のこととかが気になってしまうから、エンジェの秘密を知っているアメリアさんに預かってもらいたいと考えているだけです。アメリアさんに何か要求することはありません!」
シンとしてはアメリアに何かを要求することはないが、アメリアがエンジェに嵌れば嵌るほど、何かあった時の心強い味方になるという計算は行っている。
シンとしても味方は多ければ多い方がいい。
副ギルド長は基本的に私情を挟まないタイプではあるが、孫娘には意外と甘いところがありそうだし、アメリアであれば、色々と理屈を並べて、少々無理のあることでも副ギルド長を説得してしまいそうなイメージである。
「もちろん、お仕事もあるでしょうから、ずっとエンジェのことを四六時中見ていてほしいと言うわけではありません。俺もエンジェにこの部屋で遊んで、書類とかを破いたり、汚したりしないように注意しますから、エンジェをこの部屋で置いといてもらえれば、それだけでも十分です」
「シンよ、エンジェをこの部屋に置いておけば、アメリアが仕事にならん。だから、」
「お爺様!仕事をこなせばいいんですね!」
副ギルド長がシンに断ろうとした途端、アメリアはもの凄いスピードで書類をめくり、ペンで書き記していく。
あまりの勢いと真剣な表情にシンと副ギルド長は言葉を失う。
数分後、大量の書類をまとめ、机でトントンと整えたアメリアは副ギルド長に書類を差し出した。
「とりあえず、これで2時間程度は私に時間の空きができました。もし、お爺様の仕事が進み、また私の仕事が溜まり始めれば、また、すぐにでも片付けていきますよ」
仕事を理由に断ろうとした副ギルド長も孫娘にこう言われてしまえば、シンの頼みを断りきれない。
「シンさん、つまり指導員であるガルダさんとの指導中は私にこれからも預けてもらえると言うことでよろしいんですか?」
「そりゃ、俺としてはそれができるなら、気にせず鍛錬できますし、ありがたいですけど」
「どうせなら、これからしばらく毎日24時間、ガルダさんの指導を受けてみませんか?」
「俺もガルダさんも過労死するわ!……あの、お願いだからエンジェに変な真似やめてくださいね。あと、甘やかせ過ぎないでください。人間を下に見るようになったら困りますし」
「下でいいじゃないですか。お猫様よりも人間の方が上。その考え方自体が非常に傲慢なことだとは思いませんか?」
「思わねえよ!場合によっちゃ、別の人に頼むからな。ちゃんとしてくださいね」
エンジェは自分一人をこんなところに置いていくのかと、シンに向かって、恨めしそうな鳴き声をあげる。
なんとなく良心を責められているような気がする。
特に悪いことはしていないはずなのに。
「わかりました。ぴったりとついて離れずの方向ですが、甘やかせ過ぎないようにしましょう」
「そこはつかず離れずだろ。マジでよろしくお願いしますね」
シンは徐々にアメリアに預けることに不安を覚え始めた。
「ところで、シンさん、ガルダさんの指導を受けられる予定日にチェックを入れといてもらえませんか。お猫様の歓待ができるようにその日は早めに仕事を済ませておきたいので」
シンはほぼ隔日でチェックを入れていく。
今日は時間帯が少し早めだが、普段は7刻半(15時)頃から日暮れまでが多いとアメリアに説明する。
「さすがは成長著しい冒険者ですね。実に鍛錬熱心、非常に結構なことです。ありがとうございます。ありがとうございます」
アメリアはシンに向かって、何度も礼を言い、丁寧に頭を下げる。
シンとしてはエンジェをアメリアに預けるのは善行だとは思わないのだが、かなりの功徳ポイントが入ってきて、アメリアの真性ぶりには少々引き気味だ。
いや、ここはよく考えよう。
新しい功徳ポイント源ができたと考えれば、少々あれな人物であってもかまわない。
(エンジェ、悪いな。せいぜいもみくちゃにされる程度だから頑張ってくれ)
シンは心の中でエンジェに詫びを入れた。
「じゃあな、エンジェ。日が暮れる前に迎えに来るから、それまではアメリアさんに可愛がってもらえよ!」
エンジェはアメリアの大きな胸に抱きかかえられた状態で、この裏切者!と言わんばかりにシンに対しフシャーと怒りの声を上げた。
その日から、副ギルド長室の中にはエンジェ専用のミルク皿が置かれるようになった。
副ギルド長としては、アメリアはエンジェが来ようと仕事自体はこなしてくれるので仕事には差し支えない。
だが、アメリアが気を利かせてお茶を入れる回数が減ったことなどで少々不満が残る形となった。
そして、エンジェは普段から自分を構ってもみくちゃにするアメリアよりも、書類仕事をこなす合間に時折エンジェに話しかける程度の副ギルド長の方に懐いてしまい、アメリアはその事実に歯ぎしりをするのだった。




