第9話 ジル、駄々をこねる
「嫌です、嫌なのです!飼うです!うちで飼うのですよ!」
ジルは地面に仰向けになると手足をジタバタ動かし、駄々をこね始めた。
シンがその猫を拾ったところに返して来いと言ったのが気に入らないらしい。
だが、シンとしてはそんな馬鹿げた提案を呑むわけにはいかないから、ジルが駄々をこねようがダメだの一点張りだ。
それでもジルは諦めない。
「ジルが拾ってきたんだから、うちの子なのです!」
「俺たちが泊まっている宿屋は動物住ませるの駄目だって何度言ったらわかるんだよ!馬とかなら馬小屋に入れられても、猫なんて飼えるか!」
「シンさんのけちんぼ!大丈夫です、ジルがちゃんと世話するのです。ご飯もジルのを分けてあげるのです。だから、この子を飼わせてほしいのです。捨てて来いなんて酷いのです」
「だから、そういう話じゃねえんだよ。人の話をちゃんと理解しろよ!」
シンとジルの醜い争いを余所に、子猫はシンの足元でズボンの裾を噛んで引っ張っている。
「ほらっ、シンさん、シンさん。この子もシンさんに懐いているのです。ほーら、赤ちゃん。この人があなたのパパなのですよ」
「誰がパパだよ!」
「そして、ジルがママです」
「誰もそんなこと聞いてねえよ!」
「……シンさん、ジルが今いいことを思いついたので、ちょっと聞いてほしいのです。昨日、シンさんはちっちゃい女の子から乙女心を理解できない、デリカシーに欠ける非モテ系男子扱いされたのです」
「……色々と突っ込みたいところだが、まあいい。それがどうした」
「でも、この子を育てるならイケメンにはなれなくても、イクメンにはなれるのです。非モテ系男子からイクメンなんて、まさに大幅ランクアップなのです」
「ペット育てて、イクメンも糞もあるか!」
「う~、ジルの赤ちゃん、パパが冷たいのですよ。ママにお前を捨てろって言うのです。鬼です、悪魔なのです、育児放棄のDV糞野郎なのです」
ジルが寂しげに子猫に話しかけると、子猫はジルを見て「ナアー」と答えた。
おかしい。
シンの中で嫌な予感が芽生え始めた。
「……ちょっと待て。なんでジルがそいつに話しかけて、その猫もジルが見えているような素振りを見せてんだ?」
「そんなのジルは知らないのですよ。この子、飛んでいたジルのことを見て、ナアー、ナアー、ミャアー、ミャアー言ってたのでジルに拾ってほしかったのだと理解したのですよ。さすがはうちの子、実に賢いのです」
ジルはまるで子供を褒められた母親のように胸を張り、「えっへんなのです」などとずれたことを言っているが、シンはそれを無視して、ジルが連れてきた子猫をよく観察する。
晴れた日の空のような明るく淡い青色の毛並みが特徴的な子猫だ。
魔生の森にただの猫が迷い込んでるはずがない。
ジルを視認できているところからして、精霊などとの親和性の優れた生き物である可能性が高い。
「まさか……」
シンはワナワナと身体を震わせる。
暑い季節だと言うのに冷や汗が止まらない。
冒険者ギルドの資料室で読んだ書物にそういった生き物の説明が載っていた。
その記憶がシンの脳内に甦る。
背筋の凍るような思いで、シンは恐る恐る子猫の背中を軽く触れて確認を取る。
……あった。背中に二つ突起物があった。
シンの悪い予感が的中した。
「お前、まさか空翔虎の子どもか?」
子猫に聞いたところで意味はないが、ついついシンは尋ねてしまった。
シンの問いかけに子猫は「ミャアー」と答えた。
空翔虎。
冒険者ギルドでシンが読んだ資料では4級に分類されているネコ科の魔物、いや知性が高いために魔獣と言われている。
成熟したオスの体長は3.5m、メスでも3.0mほどにまで成長する巨大な虎だ。
明るく薄い青色の毛並みが特徴であり、赤ん坊の頃は翼を持たないが、ある程度成長すると背中から大きな白い翼を生やす。
たとえ大きな白い翼があっても、シンからすれば重量的に飛べるようにはとても思えないのだが、風の精霊との親和性が高いらしく、空を翔けるように飛ぶことから名づけられた魔獣だ。
知性が極めて高く、しゃべれはしないものの、人語を理解しているかのような個体に高位の冒険者が遭遇したという報告がある。
また魔物、魔獣と言っても、理由なく人里に現れて、人に危害を加えるようなケースはほとんどない。
母虎は産んだ子虎がある程度成長するまで一緒になって生活する。
子どもに対する情が深く、縄張りを侵されたり、子どもが危険に晒された場合には凄まじい怒りを見せる。
過去に、母虎が狩りに出て、巣にいない隙に子虎を攫って行った猟師の住んでいた村が母虎の報復で滅んだという伝承が残る。
また逆に迷い込んできた子虎の手当てや面倒を見て、無事に母虎に返した村が魔物に襲われた時には恩返しと言わんばかりにその村を救ったという伝承も残されている。
そのため、一部の地域では魔物や魔獣ではなく、聖獣や守り神のように崇められているとの説明が載っていた。
「と、言うわけだ。ジル、この子がどんな魔物かわかったな?」
シンはジルに対して、自分が読んだ資料の内容を説明する。
ジルは自分の拾ってきた子虎の話なので関心を持って、コクコクと頷く。
「ふむふむ、よくわかったのです」
「じゃあ、俺がこの後、ジルに何を言いたいかわかるな?」
「はいなのです。この子はそのうちジルと同じ白い翼が生えてくるので、ジルとお揃いなのです。シンさん、やっぱりこの子を飼うのですよ。大きくなったら、お馬さんにも乗れないシンさんをお空へと連れて行ってくれるのです。これはまさに買い、いや飼いなのです」
ジルは自慢げに自分の羽をパタパタと動かした。
自分の拾ってきた子虎に白い翼が将来的に生えてくるのがよほど嬉しいらしい。
「翼が生えてきたら、一緒にお空のお散歩に行くのですよ」と呑気なことを口にしている。
「違うだろ!母親だよ。こいつの母親が現れたら、どうすんだよ。ジルが見つけるまで無事だったってことはここからかなり近い場所に母親がいるはずだ」
本来、スカイタイガーはこんな魔生の森の浅い領域に生息している魔物ではないはずだ。
だから、シンもすぐにこの子虎の種族が何なのかは思い浮かばなかった。
それでも現実逃避をしている場合ではない。
下手なことをすると子虎を攫ったとの誤解から4級の魔獣の相手をする羽目になりかねない。
「……お母さんと引き離してしまうのは良くないですね。それじゃあ、この子を親元まで送って行ってあげるのです」
ジルはしばらく悩んでいたが、子虎の頭を撫でながらそう言った。
シンとしては、できれば、この子虎をここに放置して、森を抜けたいところだがそういうわけにもいかない。
子虎がシンのズボンを噛んで引っ張ったりしている間に、おそらくシンの体臭が子虎にしっかりついてしまっているからだ。
すでに体臭がついてしまっていると思ったからこそ、シンはこの子虎の背中を触り、スカイタイガーの子どもでないかを確認したわけだが。
体臭がついてしまっている以上、ここに放置していても、他の魔物に子虎が殺されるようなことがあれば、子虎を攫って置き去りにしたと誤解され、シンが母虎に狙われる可能性もある。
これから森を抜けて帰ろうというのに、いつ後ろから成体のスカイタイガーが襲ってくるのかわからずに、怯えながら帰るわけにはいかない。
子虎を上手く返せれば、スカイタイガーの習性上、シンに襲いかかってくる可能性は低い。
シンは溜め息をつくと、面倒事を呼びこんできたジルに対して恨みを込めて言う。
「ジル、もう二度と何でもかんでも拾ってくるんじゃねえぞ。せめて、一度俺に報告して判断を仰げ。スカイタイガーの子どもを拾ってくるなんてマジで厄介事が過ぎる。罰として、今日の帰り道はおやつ抜きだからな」
「ふぇええ!?シンさん、酷いのです。ジルに死ねと言うのですか?」
「おやつ抜いたくらいで死ぬか!それよりもこいつの母親捜して、なんとか返さないとなあ……」
相変わらず子虎はシンのズボンの裾を噛んで引っ張っている。
とりあえず、シンはジルと共にジルが子虎を拾った場所にまで行ってみることにした。
薬草を採取していた場所とは異なり、太陽がほぼ真上にあるというのに、相変わらず森の中は大きな木で枝や葉で日光がかなり遮られてしまっている。
視界には問題ない程度の明るさだが、それでも薄暗さを感じる。
子虎はジルが抱えて飛び、シンは魔物が出てきたときには対応できるようにと片手に剣を構えたままだ。
薬草の採取をしていた場所から200mくらいの距離で、ジルは子虎を地面に降ろした。
「ここです。このあたりで、この子がテクテクと歩いていたのです。ちなみに、あれがジルが狙っていた果物なのです」
ジルはシンにそう説明した後、ある樹木に実った黄色の果実を指さした。
「今はジルの果物なんかに付き合ってる時間はないからな。まだ時間的には余裕はあるけど、さっさとこの子を親に引き渡さないと」
また子虎はシンのズボンの裾に噛みつき、引っ張る。
「いい加減にしろよ。いつまで噛みついてんだよ、お前は。……ひょっとして、俺について来いとでも言っているのか?」
シンが子虎にそう尋ねると、子虎は噛みつくのをやめて、ゆっくりと森の中を進みだす。
シンの目には子虎が頷いたようにも見えた。
(母虎に何かあったってことか?それとも罠か?いくらスカイタイガーが魔物の中でも知性的だと言っても、まだこいつは子どもだ。それにスカイタイガーの習性上、子どもを餌にして、獲物を引き込もうとなんてしないはずだ。……ほっておくわけにもいかないし、ここはこいつについて行ってみるか)
「ジル、こいつが呼んでるみたいだから、ついていくぞ。ジルも周囲には警戒してくれ」
シンは子虎が他の魔物に襲われたりしないよう、子虎のすぐ後ろを歩くようにして、子虎についていく。
大樹の根が剥き出しになり、足場の悪い森の中を子虎の後をついていくわけだが、小さくても虎の子は虎だ。
シンが自分の後ろをついてきたのを確認した子虎は、進む速度を上げる。
よちよち歩きなどではなく、シンが軽く小走りをしなければならない程度の速度で森の中を進んでいく。
途中で何度か場所を確認するかのように立ち止まると「ミャアー、ミャアー」と鳴き声をあげる。
まるで母を呼んでいるか、探しているようにシンには見えた。
シンが鼻で息を吸うと、かすかだが血の臭いがし始めた。
子虎も何かに勘付いたように、走る速度を速める。
シンとジルも慌てて追いかけた。
子虎はある大樹のところで立ち止まってキョロキョロと周囲を見回している。
ある大樹の根に血の跡が残っていた。
シンの見る限り、まだその血が固まっていないところからして、シンにはその血の跡が新しいものであることがわかった。
「ここにお前の母親がいたのか?」
シンが子虎にそう尋ねると、子虎はまるでそうだと言わんばかりに「ミャアー、ミャアー」と鳴く。
(少しここで待ってみるか)
シンがそう思った時、右手の方角からガサガサと音がした。
シンは慌てて右手の方角を確認するが何もいない。
(気のせいか)
そう思って、シンがほっと息をつこうとしたとき、視界の左端からシンに飛びかかってくるものが見えた。
グルルルゥァァ!!!
シンはとっさに剣を振るったが、ある程度の魔力を通しているとはいえ、その魔物相手には十分に通していたとはいえない。
シンが振るった剣はその飛びかかってきた魔物の牙で受け止められ、シンは両肩をその魔物の前足で押さえつけられ、地面へ組み敷かれる。
シンは何とか逃れようと必死になって抵抗するが、巨体を誇る魔物に地面に組み敷かれてしまえば、逃れることは困難だ。
母虎だ。
相当怒り狂っている。
体長が3.0m程度ある、大きなスカイタイガーが、怒りの雄たけびを上げながら、シンに襲いかかってきたのだった。
おそらくシンが子虎を攫い、今また自分を狙ってここまでやって来たのだと勘違いしているのだろうとシンにもわかった。
「おい、やめろ!お前の子どもは無事だ!そこにいる。俺が攫ったわけじゃねえ!お前に子どもを返しに来たんだ!」
シンは大声で母虎に釈明しながら、剣で母虎を押しのけ、鋭い牙から距離を取ろうとした。
ポトン
シンの頬に、何か液体が落ちてきた。
血だ。
薄暗い森の中という状況と、母虎が襲いかかってきたことで慌てていたため、すぐには気づけなかったが、母虎は額から血を流していたのだ。
いや、額だけではない。
本来明るく薄い青色のはずの毛並みも、大きな白い翼も血でどす黒く染まっていた。