第6話 マックスとビアーナ
ビアーナが孤児院の外に出る直前の話だ。
(マックス君って本当に嫌な男の子。リリサさんはビアのお母さんだもん!)
アルバートに慰められ、泣き止んだビアーナはそう思った。
この年の子どもには理屈が通じない。
なぜマックスが自分に厳しく当たるのか、よくわからないのだ。
(でも、マックス君の言うように、リリサさんはお母さんじゃないのかな……)
マックスがあれだけの剣幕でビアーナの考えを否定したことを考えるとどっちなのかよくわからなくなった。
そしてマックスはこうも言っていた。『ビアーナのお母さんは他にいる。どこかその辺にいる』と。
それならビアーナがこれだけ悲しい思いをしたのだから、今なら探しに行けば、ビアーナの本当の母に会えるかもしれない。
ロベルドや年長者から一人で孤児院を出るなとは言われていたが、少しだけ。
少しの間、孤児院の外に出て、本当の母を探してみよう。
ビアーナはそう考えた。
だが、ビアーナが孤児院を出て、母を探しても結局見つからなかった。
母もビアーナを見つけてはくれなかった。
(お母さんが見つからないなら、やっぱりビアのお母さんはリリサさんなんだ)
ビアーナはそう思い、孤児院に戻ろうとしたが、どっちに帰れば孤児院に戻れるのかよくわからなくなった。
どうしよう。
しばらくビアーナは悩んだが、人に聞けばいいと思いつく。
そして道を歩いていた人に尋ねて道を教えてもらい、孤児院に帰ろうとした時、ビアーナの視線に男の子の姿が入ってきた。
マックスだ。
きっとまた怒られる。
リリサの件以外に今回は孤児院から勝手に出てきたことから、さらにマックスがビアーナを怒るような気がした。
マックスに会わないようにして孤児院に帰らなければ。
孤児院のある方角はわかったのでたぶん違う道を辿っても帰れるはずだ。
ビアーナはそう考え、教えてもらった道とは違う道を辿って孤児院に戻ろうとした。
「おい、ちょっと待てよ!」
だがマックスはビアーナに気づいて追いかけてきた。
(早く逃げないとマックス君に追いつかれちゃう)
焦ったビアーナは細い路地の中に入る。
そこから先はスラムだが、スラムという言葉は聞いていても、スラムに入ったこともないビアーナにはわからなかった。
沢山ゴミが落ちていたり、薄汚れた人が寝転んでいたりしていて、ここを通って行くのは怖いが、今はマックスに怒られる方が嫌だ。
この中でちょっと隠れて、マックスがいなくなれば、また元の道に戻ればいい。
ビアーナがスラムに入ると迷路のような細い道を走る。
(やっぱり怖くて嫌!)
ビアーナはそろそろ大きな道に戻りたいと考えたが、どの道を辿れば元にいた場所に戻れるのかわからない。
泣きべそをかきそうなのを我慢して、この道だと選ぶ。
その選んだ路地に入ると何かを足で踏んづけた感触がした。
大きな野良犬の尻尾だ。
ビアーナは慌てて逃げたが、野良犬はビアーナに尻尾を踏まれたことで怒り、涎を垂らし大きな声で吠えながらビアーナを追いかけてきた。
ビアーナは悲鳴を上げながら必死になって逃げる。
だが、ビアーナが走るより野良犬の走る速度の方がはるかに速い。
(誰か助けて!)
ビアーナに噛みつこうとする野良犬を見て、ビアーナは声にならない叫び声を上げた。
(ビアのやつがいた!)
大人の人に話しかけているビアーナを見つけたマックスは近づいて、さっさと謝ろうとしたが、マックスに気づいたビアーナが走って逃げ出した。
マックスが声をかけても立ち止まろうとしない。
だが、6歳の男の子と3歳の女の子だ。
マックスの足の方が速いに決まっている。
マックスが走ってビアーナを追うとどんどん距離が縮まった。
だが、後ろを振り向き、距離が縮まったことを確認したビアーナがあろうことか細い路地に入ってしまった。
「馬鹿!そこに入るな!」
マックスは慌てて細い路地に入る。
その先はスラムだ。
スラムで生活をしていても、リリサに言われて一人であまり出ないため、マックスにとってもここは知らない道だった。
細い道がいくつもあって、ビアーナがどこに行ったのかわからなくなる。
いくつかの細い路地を確認していくとビアーナが走ってまた別の路地に入るのが見えた。
マックスがすぐさまビアーナの後を追うとビアーナの悲鳴が聞こえてきた。
(……なんかあったんだ。俺が助けてやらないと)
マックスは路地に落ちていた木の棒と石を手に持つと、悲鳴の聞こえる方へと走る。
ビアーナが入った路地に入るとビアーナは野良犬に追いかけられていた。
大きな野良犬だ。
あんな大きな犬に噛まれるのを想像すると怖くて足が震える。
(……だけどシン兄ちゃんも母ちゃんも年下の子には優しくしてあげなさいって言ってた。今、ビアを助けられるのは俺だけなんだ!)
マックスは勇気を振り絞り、ビアーナに噛みつこうとしていた野良犬に石を投げつけた。
投げつけた石はマックスの狙い通り野良犬の後頭部に当たった。
そして、頭に石をぶつけられマックスの方向に振り返った野良犬に向かって、木の棒を振り下ろす。
野良犬はキャンッと悲鳴を上げた。
マックスは犬が蹲っているのを確認するとビアーナの手を握って走り出す。
「ついて来い!逃げるぞ!」
「あ、あのね」
「話は後だ。あの犬から早く逃げるぞ」
犬は蹲ったのはほんのわずかな時間に過ぎない。
すぐにマックスたちの後を吠えながら追いかけてきた。
マックス達は必死になって逃げるが、野良犬の足にかなうはずがない。
袋小路に追い込まれてしまったマックスはビアーナの前に立ち、木の棒を振り回して、野良犬を近づけまいとした。
野良犬はマックスの振り回す木の棒に警戒していたが、やがてタイミング良くその木の棒に噛みついた。
そして、木の棒を咥えたままマックスから奪い取ると首を振り、木の棒を放り捨てた。
もうマックスに野良犬の相手をするための武器はない。
ガルルルルゥ!
野良犬はマックスたちに吠え、大きく口を開いた。
鋭い牙がまだ幼いマックスたちの柔肌に噛みつこうとしている。
マックスは後ろを振り向き、ビアーナを抱きしめて覆いかぶさった。
(俺は男の子だ!俺が守ってやんなきゃ。これならビアーナは噛まれないはずだ)
痛みを覚悟し、ビアーナに覆いかぶさり目を瞑ったマックスだが、いつまで経っても噛まれた痛みは襲ってこない。
「マックス、よく頑張ったな」
聞きなれた声がして、マックスが目を開けて振り向くとそこには野良犬の首を片手で掴んだシンが立っていた。
(本当に危なかった)
あともう少し駆けつけるのが遅れれば、マックスは野良犬に噛みつかれ、大怪我をしていたことだろう。
間に合って、ほっとしたシンは首を掴んだままだった野良犬をポイッと投げ捨てる。
野良犬にも野生の本能がある。
怒り狂ってようが、どうあがいても勝てそうにない者に対しては逃げれるのであれば、牙を向けずに逃げる。
野良犬はキャインッと一声上げるとその場から慌てて立ち去った。
「シン兄ちゃん」
マックスはビアーナを抱きしめながら、目に涙を浮かべている。
「よくやったぞ、マックス。よくビアを守ったな」
シンは笑顔でマックスの頭を撫でた。
その後、拳を握り、軽く頭をグリグリとする。
「ただし、黙って孤児院を抜け出したことは、ちゃんとロベルド先生やリリサさんに謝れよ。二人だけじゃなく、孤児院の皆も心配していたんだ。俺も一緒にいてやるから、ちゃんとな」
「うん!そうだ、ビア……」
マックスはシンに頷くと、ビアーナを放して、頭を下げた。
「よく憶えてないけど、俺、酷いことを言っちゃったと思う。ごめん」
謝られたビアーナはきょとんとした顔をしている。
「どうして謝るの?ビアの方こそ、お外を勝手に出てごめんなさい」
首を傾げてマックスに尋ねた後、ビアーナの方も孤児院から抜け出したことを謝る。
シンはこれで少しは二人の仲も縮まりそうだなと感じていた。
(何とかこれで二人も上手く行くだろうな。野良犬から必死になって守ってくれたマックスに対してビアも悪い感情を抱くはずがないし、マックスもビアのことを心の底から嫌ってるなら助けなかっただろうしな)
だが、その後マックスに言ったビアーナの感謝の言葉がマックスとシンを混乱の渦に叩き込む。
「王子様、ビアを助けてくれてありがとう」
ビアーナはそう言って、マックスに抱きついた。
『王子様~!?』
マックスとシンは揃って素っ頓狂な声をあげた。
「ビア、どうしてマックスが王子様なんだ?」
「あのね、おっきい犬さんがビアにガーッと来てね。それでね、ビアが助けてって思ったら王子様が来てくれたの」
ビアーナから事情を聞いたシンには一つだけ思い当たる節があった。
以前シンがビアーナたちに読んであげた子供向けの本の話だ。
悪い魔物に食べられそうになった姫を他国の王子が救うという物語。
ビアーナはその物語をとても気に入っていた。
おかげでシンは少なくともこれまでに5回は同じ物語を読まされた。
ビアは3歳程度ということもあり、夢見がちな幼女だ。
そのビアが自分のピンチに真っ先に駆け付けてくれたマックスのことを王子様と思ってしまうのも、ある意味、仕方がないことかもしれない。
シンは笑いを堪える。今自分が笑えば、マックスが臍を曲げるかもしれない。
「王子様とかやめろよ!」
マックスは顔を真っ赤にして叫んだ。
いったい何の冗談だ。
こんなの孤児院に戻ってからもビアに王子様と呼ばれ続けることを考えると堪ったもんじゃない。
絶対に皆から笑われる。
「え~っ?どうして?どうしてダメなの?」
「どうしてじゃないよ。王子様はやめろよ!」
ついにシンはこらえきれなくなって、笑い出した。
マックスとビアーナは急に笑い出したシンを見つめる。
「悪い、悪い。つい、ちょっとな。なあ、ビア、王子様はやめておいてやれ。マックスに嫌われてもいいのか?」
「む~、いいもん。じゃあ、お兄ちゃんって呼ぶから」
ビアーナは自分がいい子だと思っている。
言いつけを破って、外には出たが、それはそれ。これはこれだ。
マックスが嫌がる、マックスから嫌われるくらいなら、呼び方を変えよう。
ビアーナが心の中でマックスを王子様と呼んでいればいいだけの話なのだ。
「……お兄ちゃんか。うん、それでいいぞ」
マックスは頭をかきながら、少し照れて許可を出す。
マックスは一人っ子だ。
シンに普段から可愛がられ、孤児院でもアルバート、シャナルから弟分のような扱いを受けているが、お兄ちゃん扱いされるのはこれが初めてだ。
野良犬から命がけで守ったビアーナをいつの間にかマックスは庇護対象として見ていた。
「うん、お兄ちゃん!」
マックスの許可を得たことでビアーナは大きく返事をした。
「シン兄ちゃん、そろそろ帰ろ。ロベルド先生や母ちゃんが心配してるだろうし」
「そうだな。ビア、走ったりして疲れてないか?おぶろうか?」
「うう~ん、いい。ビア、歩けるから。マックスお兄ちゃん、手」
ビアはそう言って、マックスの手を握った。マックスもビアの手を握り返した。
マックスから見ても小さな、そして暖かい手だ。
そして3人は孤児院へと戻った。
ロベルド達もシン達が孤児院に戻ってしばらくすると帰ってきた。
自分たちは見つけられなかったが、自力で戻って来るか、シンが見つけたかもしれないと考え、一度孤児院に戻ってきたのだ。
ビアはロベルドから普段よりきつめに叱られた。
一歩間違えれば大怪我をしたり、人さらいに遭う可能性すらあったのだ。
ロベルドに叱られているビアをマックスが庇った。
「俺も悪かったんだ。ビアだけを叱らないで」
ロベルドはそれを見て、叱るのを止め、笑顔でマックスとビアーナの頭を撫でる。
「二人とも随分仲良くなったようですね。素晴らしいことです。ですが、ビアはきちんと反省しなければダメです。どれだけの人に、どれだけの家族に心配をかけたと思っているのですか。……私の方からはもうありません。シン君がお菓子を持ってきてくれたので、手を洗ったら、他の子達と一緒に食べなさい。みんな、あなたたちが帰ってくるのを待ってくれていたようですよ。それとちゃんと二人でみんなにお礼を言いなさい。皆、心配してたんですからね」
マックスとビアーナは孤児院の子どもたちにお礼と謝罪をした後、皆一緒にシンが買ってきたお菓子を食べた。
マックスとビアーナが仲良くなったことで、他の子どもたちは少し驚いたようだった。
その後、ビアーナがリリサを母と慕い、懐いているのは変わらない。
だが、マックスの後ろを雛鳥が親鳥の後を追いかけるかのように付いて回る姿もよく見かけるようになった。
マックスはリリサの一番の子どもは自分であり、その立場を誰かに譲ろうとは思わないが、年下の子どもがリリサに懐くのを見ても、不快感を表に出さなくなった。
弟分、妹分ができたのだ。
自分がお兄ちゃんなのだ。
マックスはそんな風に考えるようになった。
それにマックスがリリサのことを一番に思うように、リリサもマックスのことを一番に考えているのがなんとなくマックスにも理解できた。
一番が自分であるなら自分の弟分や妹分が多少母に甘えてもかまわない。
マックスが悩んだ末に出した答えだ。
マックスと孤児院の子どもたちはどんどん仲良くなっていった。
マックスに新しく兄や姉、弟や妹ができたのだ。
それからマックスは時折孤児院から帰るのを寂しがる素振りを見せるようになった。
リリサもいつまでもスラムで生活をするよりもこの孤児院に引っ越した方が安全で、マックスのためになると考えた。
ロベルドはリリサの孤児院に住み込みで働きたいという願いを「こちらの方こそよろしくお願いします。大変助かります」と喜んだ。
リリサがこの孤児院で働きだして、ひと月ほど経った日、リリサとマックスはスラムにあった家から大切な物や多少の必需品を持って孤児院の空いている一室に引っ越してくることになった。
その日、シンが狩ってきた獲物をメインに、リリサとマックスの歓迎会が孤児院で盛大に開かれた。
皆、笑顔で食事をし、会話を楽しむ。
そしてジルも歓迎会では料理が大量にあり、立食方式のため、あまり周りを気にせず食べられるということで大満足なひと時だった。




