第10話 これはいいお薬ですね
シンはマックスとリリサの家の扉を叩く。
トタトタトタと中で扉に近づく小さな足音と共に幼い声で返事がした。
「合言葉」
「グレイトホーンブルのお肉はとってもジューシー」
シンがマックスと決めた合言葉、次来るときにはグレイトホーンブルの肉を持ってくる約束と共に決めた合言葉だ。
スラムの治安はあまりよくない。
母親と幼い少年二人で暮らすには少なくとも扉だけでも頑丈にし、不用心に扉を開けることは控えなければならない。
扉が開けられマックスがシンに飛びつく。
「シン兄、また来てくれたんだな」
シンは嬉しそうに飛びついてきたマックスの頭を撫で、家の中に入った。
外からはボロい外観が目立つが、家の中は意外に掃除がされている。
マックスがリリサの体調が少しでも良くなるよう、小まめに掃除をしているからだ。
初めてシンと会った時、魔素欠乏症で体内の魔力が著しく欠乏し、髪や肌がボロボロだったリリサだが、老婆の作った薬を飲むようになってからは体調も改善し、7歳の子供がいる母親とは思えない元の若々しさを取り戻しつつある。
あと3か月ほど薬を飲み続ければ、魔素欠乏症は完治すると言うのが老婆の見込みだ。
今日は特に体調がいいらしく、リリサは椅子に座って縫物の内職を行っていた。
マックスとよく似た淡い緑色の髪が窓から差し込んだ日差しでキラキラと輝いている。
「シンさん、またいらっしゃってくれたんですね。あら、やだ。私ったら、はしたない格好ですね」
外から差し込む日差しで今日は暖かいせいか、リリサは少しばかり薄着で身体のラインがわかる服装だった。
リリサは少し恥ずかしそうにし、一枚上に羽織る。
リリサは芯の強い女性だ。
行商人だった夫をマックスの出産したすぐ後に亡くしたものの、女手一つでマックスを育ててきた。
早くに夫を亡くし、絶世の美女と言うほどではないものの優しげな雰囲気とそれなりの美貌を兼ね備えたリリサを彼女の家族はとある商人の後妻に押し付けようとした。
それもマックスと引き離して。
マックスと引き離されるのを嫌ったリリサはまだ乳飲み子くらいだったマックスを連れ、スラムで子育てを始めた。
その暮らしは貧しく、それが幸せかどうかは見る人によって意見が異なるかもしれないが、少なくとも母の愛を一身に受け、すくすくと育ったマックスを見る限り、二人にとって最善の選択だったとシンは思う。
シンが魔素欠乏症の薬と共に金銭的な援助をしたいと申し出たとき、
「あの子が大きくなるまで一緒にいてあげられるように、薬は感謝していただきます」
と感謝の言葉を述べたものの、いずれ薬代は何年かけてでもお返しすると言い、金銭的な援助については断った。
スラムでの暮らしで衰えたとはいえ、少しは自分の容姿に自信を持っていたリリサは、病気が治れば、シンが自分やマックスによからぬことを思い浮かべないという保証はないと考えたからだ。
「お金なんていりません。あなた達に危害を加えるようなことはしません。ただ、俺に感謝をしてください」
薬をリリサ達に渡し、その命を救った恩人であるのに頭を下げ、感謝してくださいと言うシンを見て、リリサは不謹慎ながら噴きだしてしまった。
そして、シンをよく見ると歳は15を超え、ジルドガルドの成人年齢に達しているにもかかわらず、まるで親元から離され、行き場を失い救いを求める幼子のようにも見えた。
リリサにはそんなシンを不埒なことを考えるような者ではないと理解できた。
「ありがとうございます。あなたの申し出をありがたく受け取らせていただきます」
そう言って、マックスと二人で食べる最低限の金銭だけはありがたく受け取ることにしたのだった。
シンから魔素欠乏症の薬を受け取ったリリサはいつものように感謝を口にする。
「シンさん、いつもありがとう。これはいいお薬ですね」
綺麗なお姉さんからの気持ちのこもった感謝の言葉にシンは少しばかり照れる。
「いえ、別にそんな。それとこれ、マックスと一緒に召し上がってください。リリサさんも滋養の良いものをしっかり食べないと」
赤くなった顔を見られるのが恥ずかしかったシンは魔力袋からグレイトホーンブルの肉を一塊取り出し、台所の上に置いた。
その横にマックスとリリサに渡す金袋も一緒に置く。
「おっぱいですね、おっぱいの大きな女性がシンさんは好きなのですね」
(ジルは黙れ)
先ほどリリサが薄着だったため、その膨らみに意識をしてしまったシンは、黙ってジルの頭を小突く。
「先週おっしゃってたグレイトホーンブルですか?私も食べるのは久しぶりですね、マックスは初めてだったかしら?」
「そうだぞ母ちゃん、俺は初めて食うぞ。そうだ、兄ちゃんもお昼一緒に食べてけよ」
「そうね、良かったらシンさんもお昼一緒にどうですか?」
そろそろ6の刻の鐘が鳴ってもおかしくない。
ジルの正確な腹時計がまだ鳴らないところを見るともう少しは時間があるだろうが。
シンは小突かれ、痛そうに頭を抱えたジルをちらりと見る。
「なんですか?なんなのですか?」
頭を押さえたジルはシンの視線に気づき首を傾げる。
(俺が一緒に食べるってことはジルも一緒に食べるんだよなあ……どうするかな。以前誘われた時も断っちまったけど……リリサさんの手料理一度くらいは食べてみたいよな)
ジルと一緒に食べるってことは2人前以上食べるということだ。
しかも、ジルを見えない者からすれば、気づけば目の前から料理が次々に消えていくことになる。
「ジルがお邪魔虫と言うことなのですね。仕方がないです。シンさん、大銅貨5枚ほど頂いていくのですよ」
ジルはシンの腰につけた袋の中をごそごそと漁る。
(ちょっといきなり何すんだ?)
「ジルに気を遣ってくれてるようなので、ジルはお外で食べてくるのですよ。大銅貨5枚もあれば、ジルもお腹いっぱいになるのです。ジルは泥棒しない子なのです」
大銅貨1枚で一般的な屋台の大串の焼肉が2本買える。
大人でも3本食べれば腹が膨れるボリュームだ。
ジルは時々シンからお小遣いをもらい、屋台での買い食いを楽しんでいる。
お金は置かれているが、いつのまにやら品物が消えているということで屋台の連中は面白がって、うちの味は精霊がこっそり買い食いにくる美味さだと客に自慢しているが、なかなかに鋭い意見だ。
「孤児院でのバーベキューではジルがシンさんの分までいただくので覚悟するといいですよ」
そう言ってジルは窓から外へと飛び出していく。
「忘れちゃ嫌なのですよ。約束なのですよ」
ジルはシンの方を振り向き、手を振るとパタパタと市場の方へと飛んで行った。
「せっかくなので頂いていきます。それじゃあ肉の塊って切るのに力いるし、良かったら俺が切りますよ」
シンはリリサ達との昼食を楽しむことに決めた。
リリサはシンに対して、肉の塊を半分に切り、それをさらに三枚に薄く切った後に軽く叩いて肉を引き延ばすように頼んだ。
力のいる作業以外はリリサ自身が行う。
昨日から作っておいた屑野菜をたっぷり煮込んだスープにもう一度火をかける。
グレイトホーンブルの肉はシンプルに調味料をさっと振り、強火で肉の表面を炒め、肉の風味を高めた後、弱火でじっくりと焼き上げたステーキにする。
付け合せはマックスが朝早くから銅貨を握りしめ、市場で購入したライ麦パンだ。
マックスはリリサの周りをうろうろとして、肉が焼き上がるのを楽しみにしている。
シンはその光景を見て、幼いころに母の周りで料理が出来上がるのを楽しみにしていた自分の姿を思い出した。
日頃から安い食材でもマックスに栄養と味を楽しんでもらおうと心がけていたリリサの料理だけあって、そのスープはじっくりと野菜のエキスをしみこませた優しい味がし、焼き上がったステーキも非常に美味かった。