第1話 便所の香りは善行の香り
みすぼらしい私服姿の少年は便所掃除をしながら溜め息をついた。
民家のトイレにこもった糞尿の匂いを深く吸い込みかけて、少年は慌てて息を止めた。
「もう少しドバっと貯めれないものかな」
シンは冒険者になって2年、ようやく7級になれた若手の冒険者だ。
2年で7級は決して遅くない。
しかし才能のある若手冒険者の多くが1年以内に7級になっていることを考えれば、シンが7級になった速度は並みの冒険者より少し早い程度だろう。
便所掃除はもっとも階級の低い10級の冒険者でも受けられる依頼の一つだが、報酬も安く仕事もきついと言う理由から装備を揃えた冒険者が受けることはほとんどない。
冒険者に成り立ての10級冒険者でも、魔物を退治せずに済む他の街中の依頼を受けるので便所掃除の依頼は常にギルド内に残っている。
シンは一人前と見なされる7級冒険者になっているため、本来であれば街中の依頼を受注することはギルドから注意を受け、なおかつ他の冒険者から白眼視される行為ではあったが、便所掃除だけは別だ。
その依頼を受ける者がほとんどいないからだ。
受けるとするなら魔物を退治する装備を所持しておらず、街中のクエストが品切れで日銭をなんとか稼ごうとする9級10級の冒険者くらいしかいないのだから咎められる恐れはない。
ギルドとしては7級になりながら常に受理されずに残ってる便所掃除こなすシンはある意味ではありがたい冒険者である。
一方、冒険者の立場に立つと一人前とされる7級になっておきながら、便所掃除の依頼を受けるシンは情けない存在であった。
特に才能を有し早くに階級をあげた冒険者の中にはほとんど週1でしかモンスターを退治せず、便所掃除ばかりしているシンを人前で嘲笑う者すらいる始末である。
誰が言い始めたのかは知らないが、いつからか一部の冒険者の間でシンを馬鹿にする渾名ができていた。
「お花摘みのシン」
女性がトイレに行くという隠語であり、討伐できる能力があるにもかかわらず魔物討伐をあまり行わないシンを女々しい臆病者だという見方から名づけられた渾名だ。
シンも9級や10級の頃はほとんど便所掃除依頼を受けることはなかった。
清掃作業や孤児院での子どもの面倒といった街中の依頼を多く受け、ときどき魔物退治をこなし、金銭を稼ぎだし、それを孤児院などに寄付するという変わった行為を続けた。
スラムで炊き出し行為を行うこともあった。
もっとも炊き出し行為は神殿の職分を侵害しているとの苦情が入ったことから数回限りであったが。
神殿の炊き出しボランティアにも参加したこともあったが、それは一度きりのことだった。
おかしなことをする冒険者
シンの名前が少しばかり売れるようになるとガラの悪い冒険者に絡まれるようになった。
「孤児院やスラムの連中に回すくらいなら先輩に酒でも奢りやがれ」
「最近、冒険者になったばかりの若造の癖に先輩に対する礼儀がなっちゃいねえよな」
ギルドの中でも鼻つまみ者扱いされる、魔物討伐も貯蓄なども行わない低階級の冒険者たちだ。
10級から9級にあがるには街中の依頼をこなせば上がれるため、10級の間に運悪く死亡でもしない限りはほとんどの冒険者が9級に上がる。
死亡せずに9級に上がらなかった者は何らかのコネを持って他の仕事につくことになった冒険者くらいだろう。
そして8級以上に上がるには同階級以上の魔物を一定数討伐してギルドから認められることが必要となる。
シンに絡んだ冒険者は8級だったが、年齢から予測するに長い時間をかけてようやく8級になったほとんど討伐をこなしてこなかった冒険者。
なるべく、割のいい街中の依頼をこなし、仕事がなければ仕方なく10級9級の魔物を討伐していた冒険者と言ったところだろうか。
一方シンは当時まだ10級から9級にあがったばかりであったが、時折7級以上の魔物を討伐してくるため、その実力は未知数ながらそれなりの腕前のある冒険者と評価されていた。
そんなシンであれば無視をするなり、調子に乗った先輩冒険者を叩きのめすなりできたはずだったが、シンが行ったのはそのどちらでもなく、笑顔での揉み手だった。
「いやー先輩、そんなこと言ってもちょっと今、金銭的に厳しいんで安酒でもいいっすか?」
安酒であっても絡んできたガラの悪い冒険者に奢るという行為に周囲はぎょっとした。
シンが何秒で叩きのめすか賭けをしているギルド職員もいたが、胴元だったギルド長の総取りである。
それから数日後、同じ冒険者達がまたシンに絡んできた。
安酒ならまた奢ってくれるだろうと味を占めた先輩冒険者だけあって、厚かましいことこの上ない。
「人に感謝もできないような糞野郎共に奢る金なんてない」
シンは男たちを一瞥するなり、見下すような視線で吐き捨てた。
断られるどころか罵倒されるとは思ってなかった男たちは逆上して腰からナイフを抜き、シンに襲いかかったが、シンは低階級の冒険者では目で追うことすらできない速度でかわし、男たちを叩きのめした。
「マジで損したな。使わなくてもいい金を使わされただけじゃなく、こんなやつらに貯めてたのを使わされるとかマジでありえねえ」
叩きのめした男たちの腹の上でステップを踏むシン。
鳩尾の上で華麗なダンスを踊るシンの姿を見て、次は自分もお零れに預かろうとでも考えていた他の冒険者の顔は青ざめていた。
「すんません。こいつらナイフで人を刺そうとしたんだからこれって正当防衛ですよね?懐から慰謝料としてこの前に奢った酒代とか回収していいですか?」
ギルド職員は冒険者同士のトラブルには介入しない。
さすがに殺しなどが行われた場合には官憲につきだすこともあるが、今回の場合刃物を出した側が一方的に叩きのめされてるので通報などの対象には当たらない。
そして非のある相手から慰謝料代わりに少額の金銭を回収することくらいはギルドの許容範囲内である。
こくりこくり
笑顔で鳩尾にジャンプを続けるシンに対し、まだ冒険者同士のトラブルになれていない新人受付嬢は少し怯えながらも笑顔で頷いた。
シンはギルドの罰則の対象にならないかを確認すると男達から身ぐるみを剥がし始めた。
「うわ、しけてやがんなあ。ほとんど小銭しか持ってないじゃん」
金の入った革袋を漁ると溜め息交じりに呟いた。
そしてナイフなどの装備品もついでと言わんばかりに回収する。
「ボロいけど昼飯代くらいにはなるかな」
誰がどう見ても一晩の酒代よりも多く回収していることは疑う余地もない。
孤児院に寄付をしたりスラムで炊きだしを行ってきた善良(と思われる)な冒険者が豹変したのだ。
相手に非があり、ナイフまで出されたとはいえ、危なげなく叩きのめしたのに追い打ちをかけ、さらには金品まで回収する。
新人受付嬢がおびえるのも無理はない。
そういったことが何度かあり、シンに直接絡む冒険者はいなくなった。
いくら相手が8級の中でも能力の低い冒険者だったとは言え、見事な動きを見せたシンをパーティに誘う冒険者グループが何人かいたが、シンは少し困った顔をして首を振る。
「誘ってもらえたのは嬉しいんですけど、やっぱり自分はソロで続けることにします」
説得しようと試みても、シンはあまり討伐には行きたがらないタイプらしく、週に1度程度しか魔物を討伐に行かないこともあり、次第にシンを誘う冒険者はいなくなった。
「きちんと貯めていかないとサナダムシとか嫌だもんなあ」
周囲の者にはサナダムシが何なのかはわからないが、シンはよくサナダムシは嫌だと口にした。
ギョウチュウも嫌らしい。
シンは9級から8級に上がっても週の多くを街中の依頼で過ごし、時折大物を狩ってギルドへと持ってくる。
「もったいない」
少なくとも7級の魔物を狩れる力があるのに、あまり魔物退治に積極的でないシンを見てそう感じるギルド職員や冒険者からもっと討伐に出るように勧められることもあった。
「魔物退治してもあんまり人から感謝されないし」
街の外の魔物を退治しようとそれが街道を封鎖していたり、村や街に被害を加えるようなモンスターでもなければ人から感謝されることは少ない。
だから嫌だとシンは言う。
「近くの村とかに魔物が住み着いたとか、盗賊が荒らしまわってるっていうようなやつなら何時でもどんと来いってところなんですけど」
シンは人から感謝されたいらしい。
だから孤児院に週に1度の割合で寄付を行っている。
スラムでの炊き出しを行ったこともあった。
8級から7級に上がった頃には、シンは街中の依頼で便所掃除をすすんで受けるようになった。
顔見知りの冒険者から、どうして便所掃除を受けるのかと尋ねられると
「いや、この仕事正直きついんですけど、実はギルドからも依頼人からも感謝されるんである意味自分にとっては美味しい仕事だったみたいなんすよ」
と嬉しそうに答えた。
7級以上になると周辺の村の近くに住処を作ったり、村人を襲った魔物を退治する依頼も受けられる。
ある程度の実力があるとギルドから認められるからだ。
シンはその依頼の中でも不作や貧しいといった事情があれば、十分な報酬を支払えない依頼であっても好んで受けるようになった。
「金には替えられない価値がある、プライスレス」
機嫌の良い時のシンがよく口にする口癖だ。
もっとも魔物を退治してもあまり感謝してくれない村もあるらしく
「あいつら皆強欲過ぎ、きちんと感謝くらいしろっての。人に助けてもらったらありがとうって言うのが常識だろ。親はいったい何を教えてんだよ」
と吐き捨てるようにぐちぐちとぼやいてることもあった。
他の冒険者たちからは「偽善者のシン」、悪意ある冒険者たちからは「お花摘みのシン」
そう呼ばれる少年はようやく本日の依頼の便所掃除を終わらせ、依頼人の老夫婦に依頼完了のサインを書いてもらうと笑顔で言った。
「またの依頼をお待ちします。ついでに他にお困りのことあったら、言ってくれりゃできる範囲でやってみますよ」
どうやら今日の依頼人は感じのいい老夫婦らしく、シンの機嫌も悪くない。
仕事が終わったシンに対し、お茶を勧めてくれさえする。
「また何時でも頼んでくださいね。なんなら指名依頼でもいいですよ」
玄関で何度も頭を下げる老夫婦に対し、笑顔で手を振るシン。
「今日の依頼人は正解だな。みんながあのくらい感謝してくれれば、俺も助かるんだけどなあ」
依頼札を革袋にしまい、ギルドへの帰路でシンはそう呟いた。