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政略結婚

さよならの選択

作者: もり

「グレンはわたしの騎士だからね。ずっとずっとそばにいてね!」


 まだ騎士見習いだったグレンにしがみついて、メルヴィナが何度もせがんだのはもう十年も前のこと。

 幼い子供のわがままを周囲は笑って見ていたが、メルヴィナは本気だった。

 だから成人を祝うために両親が催した舞踏会でも父親の次にグレンと踊り、彼が近衛騎士として王宮に上がった後も、もうすぐ求婚に来てくれるのだと信じていた。

 厳しい花嫁修業もグレンの妻になるためだと、頑張って耐えてきたのだ。

 だが、それはすべて夢だった。



「――いやっ! 触らないで!」


 メルヴィナは自分に向かって伸ばされた手を振り払い、叫んだ。

 拒むつもりなどなかったが、勝手に体が動いてしまったのだ。

 後悔に唇を噛みしめるメルヴィナを前にして、男は驚き動きを止めた。

 それも当然だろう。

 男は今日の午前中に、メルヴィナの夫となったばかりなのだから。

 しかし、それだけではない。

 銀色の髪を柔らかく揺らして軽く首を傾げた夫は、この国の王太子なのだ。


「なぜだ?」


 静かな、それでいて嘲りを含んだ問いかけに、メルヴィナは身を震わせた。

 寝所で夫を拒む妻など、殴られても文句は言えない。

 しかも、これは初夜なのだ。

 だがここで引いては、母のようになってしまう。

 その思いからメルヴィナは覚悟を決め、夫となった王太子に強い眼差しを向けて、沈黙でもって応えた。


「……この婚姻は、そなたの父の強い望みで成されたものだ。それほどの気概があるのならば、なぜ父親に言わなかった?」


 王太子の声は先ほどよりも優しげに聞こえたが、それでもメルヴィナは怖かった。

 凛々しく美しいその容姿だけでなく、穏やかで温かな性格の王太子を城の者達は褒め称えている。

 そのことを考えれば恐れる必要などないのかもしれない。

 それでも、長年あの父に耐えてきたメルヴィナは楽観できなかった。

 王太子は彼女の父親と、その取り巻き達から教育を受けて育ち、現在も彼らを要職に就けた国王に苦言を呈することなく、この国の政務の大半を委ねているのだ。


「……なるほど。他に好いた男がいるのだな。その男の命を盾に迫られでもしたか?」


 はっと息をのんだメルヴィナの表情がその通りだと伝える。

 王太子は面白そうに唇を歪めた。


「では、私がその男を殺せば、そなたの未練も消えるな」

「まさか、そんな……」


 あっさりと告げられた残酷な言葉は、父の脅し以上に絶望をもたらした。

 やはり王太子は考えていた通りの人物なのだ。

 メルヴィナは立っていることができず、ふらふらと後ろに下がり、そのままベッドに座り込んだ。


「……殿下、お願いです。わたしが愚かでした。ですから――」


 碧色の瞳を涙で潤ませたメルヴィナはか細い声で訴えようとした。

 そんな彼女の言葉を、王太子は片手を上げただけでぞんざいに退けてしまう。


「私は他の男に心を寄せている女を抱くつもりはない。とはいえ、そなたは私の妃となったのだ」


 言いながら、王太子は懐から小剣を取り出した。

 いつも数人の騎士に守られている彼がそんなものを持っていることに、しかも寝所にまで持ち込んでいることに驚くメルヴィナの膝の上に、王太子は小剣を放った。

 その顔には誰もが感嘆の息を洩らすほどの慈愛に満ちた笑みが浮かんでいる。


「さあ、選べ。そなたの死か、男の死か」


 温かな声で優しく迫られた選択に、メルヴィナは信じられない思いで何度か瞬きを繰り返した。

 しばらく続く沈黙の中でも、王太子は未だに笑みを浮かべたまま。

 やがてメルヴィナは膝の上の小剣に視線を落とし、恐る恐るその柄を握った。

 小剣は意外なほどにずしりと重い。

 その重みが、不思議とメルヴィナの心を静めた。

 自分が死ねば、彼は助かる。勝手に想いを寄せているだけの幼馴染のグレンに迷惑をかけずにすむ。

 そう思うと、選択は簡単だった。

 剣の切っ先を心臓の辺りに向け、メルヴィナはすうっと大きく息を吸い込んだ。


「殿下、お願いです。どうか、彼と家族にご慈悲を――」


 自分が死ぬことによって、父がどうなろうとかまわない。

 ただ、グレンや母と弟が咎められることのないよう、王太子へと懇願の言葉を向けた。

 ぎゅっと目をつぶり、柄を握りしめた両手に力を入れ、メルヴィナはえいやと心臓を突いた。……つもりだったが、王太子の大きな手が小剣を掴んだメルヴィナの両手を力強く握って止めた。


「すまない。悪ふざけが過ぎた」


 もう笑いなどない、王太子の真剣な声の響きに、メルヴィナは目を開けた。

 だが固く閉じていたせいで、視界がはっきりしない。


「わたしは……」


 何か言わなければと口を開いたものの、何も言えなかった。

 王太子はメルヴィナの手から小剣をそっと取り上げ、深いため息を吐く。


「そなたが心を寄せている相手は、グレンだろう?」

「違います!」


 王太子の静かな問いかけは、靄のかかったようなメルヴィナの頭をはっきりさせた。


「そなたは、本当にわかりやすい。顔にすぐ出るのだな」


 すぐさま反応した彼女を目にして、楽しげに笑いながら王太子は呟いた。

 その笑顔はいつも浮かべている作り物のような笑みとは違う。

 メルヴィナは青ざめたまま王太子を見上げた。


「今朝の式から宴の間も、そなたは何度もグレンへと視線を向けていた。あのように気持ちをさらしていては、すぐ皆に気付かれてしまう。これからは気をつけてくれ」


 さらりと命じた王太子は、まだ意味を飲み込めないでいる彼女をそのままベッドに押し倒した。


「っ、やめて下さい! いや!」


 あまりにも急な展開についていけず、メルヴィナはまた無意識に抗った。

 掛布を蹴飛ばし、敷布をぎゅっと握りくしゃくしゃにする。

 どれくらい続いたのかわからない。

 ほんの一瞬だったのかもしれないが、圧し掛かっていた重みが消えた時、メルヴィナは大きなベッドの上で、できる限り王太子から離れた。


「そこまで拒まれると、傷つくな」


 王太子は苦笑を洩らして先ほどの小剣を再び手にすると、その冷たい輝きに怯えを見せるメルヴィナへ、真摯な眼差しを向けた。


「メルヴィナ、取り引きをしないか?」

「……取り引き?」


 訊き返すメルヴィナの碧色の瞳は困惑に揺れている。

 だが、王太子はかまわず続けた。


「私達は今日、夫婦となった。それはもうどうしようもないことだ。だからこの先、私達は仲睦まじいふりをする。誰にも実情は告げない。もちろん、グレンにもだ」

「彼は……グレンは、関係ありません。ずっと、わたしが勝手に……」

「そうか?」

「え?」


 王太子はやはりメルヴィナの戸惑いなど気にもとめず視線を手元に落とすと、小剣で自分の左親指を傷つけた。

 赤い血が数滴、敷布の上に落ちる。

 メルヴィナは言葉もなく、ただ見ているしかなかった。


「これで私達は本物の夫婦となった。――と、思われるだろう。では、私が部屋に戻るまで、もうしばらく話でもしようか」



 それから始まった、偽りの夫婦生活。

 メルヴィナは夫である王太子をいつも見つめていた。

 側に控えているグレンに目を向けることは決してない。

 約束を守り続ける彼女に応えるように、王太子も優しくメルヴィナを見つめ返す。

 そして数日に一度、寝室に訪れる王太子とは他愛もない話をした。


 そんな穏やかで不毛な日々ももう三年。

 一向に懐妊の兆しが見えないメルヴィナを、父である宰相は執拗に責め立てるようになった。

 また、力ある宰相を恐れているのか、王太子妃を表立って非難する者はいなかったが、最近ではあからさまな目的を持った女性達が王太子へと近づくようになっていた。

 その姿になぜだか苛立ちが募る。

 だからメルヴィナは王太子から目をそむけるようになってしまった。

 そして、ため息の数だけ増えていく。


 今夜は南の隣国を治める国王の歓迎晩餐会と舞踏会が開かれていたが、メルヴィナはまだ夫と踊っていなかった。

 王太子は隣国の王や政務官達とずっと話し込んでいる。

 その周囲を美しく着飾った華やかな女性達が立ち、メルヴィナをわざと寄せ付けないようにしていた。


「妃殿下、あまりお気になさらぬよう。殿下は妃殿下しか見ていらっしゃらないのですから」

「グレン……」

「いつも殿下のお側でお仕えしている私の言葉に間違いはないですよ」


 昔と何一つ変わらないグレンの優しい声、笑顔に触れて、メルヴィナはたまらず泣きそうになってしまった。

 自分の気持ちがわからない。この苦しみの理由がわからない。

 それでもメルヴィナはどうにか微笑んで、グレンに応えた。

 その時、視線を感じて目を向けると、王太子の藍色の瞳とぶつかった。

 とたんに、やましさを覚えて顔が赤くなる。

 別に裏切っているわけではないのに。

 動揺したメルヴィナは、すぐにでもこの場を逃げ出したくなった。

 しかし、国王の同伴者として出席していた義妹――我が儘で有名な王女が早々に退席してしまったばかりに、メルヴィナは王太子妃として最後まで笑顔のまま会場にいなければならなかった。


 この日から、王太子の様子は変わってしまった。

 その変化は些細なもので、おそらくほとんどの者が気付いていないだろう。

 だが、いつものようにメルヴィナの寝所に訪れて話をする間も、王太子は何か別のことにとらわれているようだった。

 その理由がわかったのは、ふた月ほど過ぎた頃。


「メルヴィナ、私は戦に出ることになった。よって、明日には少数の兵と共に出立する」


 突然の言葉にメルヴィナは色を失った。


「なぜ……殿下がなぜ、御自らご出陣なさるのですか? 誰か、他の者でも――」

「いや、今度の戦は間違いなく勝ち戦になる。私は後方で指揮を執るだけで剣を握るわけではない。それに、グレンはそなたの護衛として残していく。案ずる必要もない」


 なだめるような優しい声にも安心することなどできず、メルヴィナはうつむいた。

 金色の髪が青ざめた顔を柔らかく覆い隠す。

 王太子はメルヴィナへと手を伸ばしかけ、ぎゅっと握りしめて拳に変え、脇へと下ろした。


「――しばらくはこのような時間も必要ないゆえ、そなたの負担も軽くなるだろう。では、ゆっくり休んでくれ」


 そう言い残して立ち去る王太子を、メルヴィナは下唇をきつく噛んで見送った。

 違うのに。そうではないのに。

 口から飛び出してしまいそうになる言葉を必死に飲み込む。

 自分でも理解できない気持ちを伝えることなどできはしないのだから。


 そして戦が始まると、メルヴィナはグレンや侍女達が心配するほどに心を痛め、王太子の身を案じて毎日を過ごした。

 また、楽観的な国王や宰相達には腹も立てていた。

 国の大事に、なぜこの人達は笑っていられるのだろうと懸念も募る。

 本当にこの国は大丈夫なのだろうか、と。

 やがて訪れた吉報に傲慢なほど歓喜する国王達を見ていると、その思いはますます強くなっていった。

 だがやはり、王太子の無事な姿での凱旋には、メルヴィナも心から喜んだ。


「殿下! よくご無事で!」

「メルヴィナ……」


 頬を紅潮させ、嬉しそうに駆け寄るメルヴィナを見て、王太子は眩しそうに目を細めた。

 それから少しやせてしまった彼女に気付き、表情を曇らせる。


「心配をかけたようで、すまなかったな。だが、これで全て終わりにできる。あともう少しだけ、待っていてくれ」


 これで長い間続いた東の隣国との諍いも終わりを迎えたのだ。

 それによって生じる処理が数多くあるのだろう。

 メルヴィナは嬉しさのあまりこの時の王太子の言葉をそう受け止めただけだった。

 しかし、王太子が城に帰還してからの慌ただしい日々が過ぎても、メルヴィナの寝室に彼が訪れることはなかった。


 人々は噂した。

 ついに、王太子殿下の御心が、妃殿下より離れたのだ、と。

 メルヴィナは人々に陰で笑われていようが、父親に罵られようが気にはならなかった。

 ただ何かがおかしい。

 そんないやな予感にメルヴィナが怯えていたある夜、それは起こった。

 そろそろ寝支度をという頃になって、城内の騒がしさに気付いたメルヴィナは、侍女の一人に様子を見に行かせたのだ。

 そして戻って来た侍女は顔色がなく、今にも倒れてしまいそうなほどに震えていた。


「た、たい……大変でございます! で、殿下が……殿下が……」

「大丈夫よ、ゆっくりでいいから。殿下がいかがなされたの?」


 焦れる気持ちを抑えて、メルヴィナは舌をもつれさせる侍女を落ち着かせようとした。

 侍女は何度か深呼吸を繰り返し、別の侍女が持って来た水を飲む。

 いったい王太子に何があったのか、無事なのだろうかと不安に思いながらも、メルヴィナはじっと待った。


「殿下は……殿下がこ、国王陛下を……む、謀反でございます」


 侍女が再び発した言葉はたどたどしかったが、その意味は十分に伝わった。

 皆が息をのみ、声にならない悲鳴を上げる。

 その中で、メルヴィナは崩れそうになる体にぐっと力を入れ、できるだけ冷静な声でさらに問いかけた。


「殿下はご無事なの?」

「それは――」

「私は大丈夫だ」


 突如割り込んだ声に、答えかけていた侍女は飛び上がり、他の者達の中には腰を抜かす者もいた。

 王太子がグレン一人を従え、血に濡れた剣を持って現れたのだ。

 その表情は険しく、衣服は血で汚れている。


「殿下……」


 震えながらもメルヴィナは安堵の吐息を洩らした。

 そんな彼女を見ても王太子は表情を和らげることなく、冷やかに侍女達へ命じる。


「そなた達は席を外せ」


 怯えながらもためらう侍女に、メルヴィナは従うようにと頷いてみせた。

 侍女達は不安げな表情のまま退室していく。

 メルヴィナは王太子の後ろに控えるグレンにちらりと視線をやった。

 顔を伏せたままのグレンの剣は鞘に納められているが、王太子のものと同じように血に染まっているのかもしれない。

 そんなことをぼんやり考えていたメルヴィナの耳に、王太子の重々しい声が聞こえた。


「すでに耳に入っているようだが、先ほど私は国王と宰相をこの手で殺めた。この国の未来のため、大義のためだと言えば聞こえは良いが、これはただの殺戮でしかない」

「殿下……」


 苦しげに吐き出す王太子に、慰めの言葉ひとつ言えない。

 そんな自分がもどかしくて唇を噛むメルヴィナを見つめながら、王太子は続けた。


「十二年前、私の母が流行病で亡くなってから、父は――陛下はすっかり変わってしまった。だが、母は……宰相の指示により毒を盛られたのだ」


 初めて知った驚くべき真実に、メルヴィナは目を見張った。

 身分の差など気にせず誰にでも優しく慈悲深い王妃は民の人気が高く、亡くなった時には国中が嘆き悲しんでいたことを覚えている。

 まさかそれが、父の手によるものだったとは、思いもよらなかった。

 だが確かに、あの頃から父は権力をほしいままにしてきたのだ。

 メルヴィナはもう立っていることができず、ふらりとよろけてその場に座り込んだ。

 グレンが一歩前へと足を踏み出したが、王太子がそれ以上を阻む。


「母を亡くした父は心の安定を失い、そこに宰相が付け込んだのだ。私も……生きるためには従順でなければならなかった。王位継承者など、どうとでもできる存在だからな」


 小さく自嘲した王太子は、メルヴィナへと近づいた。

 その足音が静かな室内に大きく響く。


「私は力を蓄えながら、どうか陛下が正気を取り戻してくれないかと願っていた。だがもう待てない。このままでは、この国は欲にまみれたじじい共に食いつくされてしまう。これ以上この国を腐らせないためにも、私は責任を取らなければならないのだ。そなたも今の地位を望んだわけではないだろう。それでも、王太子妃としての責はある」

「――はい」


 メルヴィナは全てを悟って、静かに頷いた。

 今はもう、あの宰相の娘というだけで罪なのだ。

 だから王太子妃であるメルヴィナには、果たさなければならない役割がある。


「では、すまないが……死んでくれ」

「わかりました」


 応えた声はかすれていたが、剣を向けられてもなお、メルヴィナは目を逸らすことなく、王太子を見つめた。

 そこに、血相を変えたグレンが今度こそ強引に進み出て、メルヴィナを背で庇う。


「お待ち下さい、殿下!」

「邪魔だ、グレン。どけ!」

「いいえ! このように理不尽な仕打ち、許されるわけがありません!」


 膝をついたグレンの訴えるその瞳は叛意に満ちている。

 今まで従ってきた主君に逆らってでも、メルヴィナを守るつもりなのだ。

 王太子は面白そうに唇をゆがめた。


「何を今さら。このような殺戮に許しが与えられるなど、誰が思うのだ?」

「ですが、わたしは許します」


 王太子の問いに応えて、今までになくきっぱりと言い切ったメルヴィナを、二人は驚いたように見た。

 メルヴィナはぎゅっと両手を握りしめながら、グレンに微笑みかける。


「グレン、ありがとう。でも、これが一番良いのよ」


 ここで宰相の娘である王太子妃が討たれれば、積りに積もった民の不満も多少は晴れるだろう。

 母と弟のことは、きっと王太子が上手く取り成してくれるはずだ。

 だから、メルヴィナに迷いなどなかった。

 ただ、王太子に新たな罪を背負わせてしまうことが心残りだった。

 そして、グレンがここで自分をかばったために、咎められることのないようにと願う。


「メルヴィナ様、ここであなたが犠牲になる必要などないのです」

「犠牲などではないのよ。これでわたしは――」

「確かに、妃を手にかけるのは私も忍びない。だが、そうだな……」


 王太子はメルヴィナの言葉を遮ると、グレンをじっと見据えたまま懐から小剣を取り出した。

 それををグレンへと放った王太子の顔には、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいる。

 まるであの夜の再現のような状況に、メルヴィナははっとして青ざめた。


「では、選べ。そなたの死か、妃の死か」


 優しく残酷な選択に、グレンは喜んで目を輝かせた。


「殿下、ありがとうございます」


 深々と頭を下げたグレンはすばやく小剣を掴んだ。

 そのまま、ためらいを一切見せず自身に剣を突き立てようとしたその手を、急ぎ王太子が蹴って止めた。


「冗談だ、馬鹿が」


 呆れと安堵を滲ませて呟いた王太子は、大きくため息を吐いた。

 それからメルヴィナをちらりと見やり、グレンへと視線を戻す。

 その眼差しはとても鋭い。


「そなたの命で妃の罪は贖えぬ」

「それでも、どうか――」


 グレンの訴えを王太子は片手を上げて制し、冷やかに続けた。


「そなたには生涯、メルヴィナを監視下に置くことを命じる」


 予想外の命令に、メルヴィナは目を見開いた。

 何か聞き間違えたのかもしれない。

 そう考えて戸惑う彼女に向けて、王太子は厳しい声で告げた。


「メルヴィナ、今よりそなたは我が妃にあらず。王太子妃の地位をはく奪し、西の果てにあるストウへの流刑を申し渡す。王領であるストウはグレンに下げ渡すゆえ、そなたは一生をその地で過ごすのだ」

「殿下、それでは……」


 罰にはならないのではないか、とメルヴィナは言いかけた。

 ストウは西の果てとはいえ、海からの温かい風によって年間を通じて過ごしやすく、大地の実りも豊かな地だ。

 グレンがストウの領主になるのは嬉しい。

 だが、その代償に自分を押し付けられるのではグレンが気の毒すぎる。

 メルヴィナは床に両手をついて頭を下げた。


「殿下のご温情には深く感謝しております。ですが、私の罪にどうかグレンを巻きこまないで下さい。わたしは国外追放にでも――」

「いいえ! 殿下よりのご下命、有り難くお受け致します」


 片膝をついて騎士として拝命するグレンの腕に、メルヴィナは思わず縋った。


「グレン、ダメよ!」

「黙れ、メルヴィナ。もう決めたのだ。この決定を覆すつもりはない」


 悲痛な声を上げたメルヴィナを、王太子が叱責する。

 碧色の瞳を潤ませてびくりと肩を揺らした彼女を、王太子は長い間じっと見つめ、やがて穏やかに微笑んだ。


「メル、達者でな」


 王太子から初めて呼ばれた愛称は別れを告げるもの。

 その声の温かさに、メルヴィナはついに涙をこぼした。

 この三年間、王太子はずっとメルヴィナを守ってくれていたのだ。


「――ルバート様」


 立ち去ろうとする王太子を、メルヴィナもまた初めてその名を呼んで引き止めた。

 しかし、王太子は足を止めたものの、振り返ろうとはしない。

 その大きな背中に向けて、メルヴィナは深く頭を下げた。


「今まで、本当にありがとうございました」

「殿下、ありがとうございます」


 グレンも改めて礼を述べたが、王太子は軽く頷いただけで部屋から出て行った。

 室外に控えていた騎士達の声が聞こえる。

 その声は足音とともに次第に遠のき、王妃の間は静けさに包まれた。


「……ねえ、グレン。殿下はあのようにおっしゃったけど、どうかわたしのことは誰か代理の者に任せてちょうだい。ストウのどこか邪魔にならない地で、母と弟と暮らすわ。逃げるつもりもないし、迷惑はかけない。だからグレンはこのまま、殿下にお仕えするべきよ。せっかく近衛騎士になったんですもの」


 グレンにはいつも迷惑ばかりかけていた。

 それなのに、これから一生の重荷を背負わせてしまうことなどできず、メルヴィナは微笑んで伝えた。

 きっと王太子ならば理解してくれる。

 そう確信するメルヴィナの両手をそっと包み込み、グレンは首を振った。


「いいえ、メルヴィナ様。私はあなたのお傍を離れたりはしません。幼い頃に約束したではありませんか、ずっと傍にいると。それなのに私はもっと近づきたいと欲を出し、そのためには御父上に認められるほどの地位を得たいと近衛騎士になることを志願しました。それがどれほど愚かで、身の程知らずだったのかは十分に痛感しております。私はこの三年間、ずっとおそばにおりましたから、お二人のお気持ちもわかっています。ですが、メルヴィナ様……どうか、私と共にストウへ参りましょう」

「グレン……」


 このままグレンに甘えてしまいたい。

 でもそれはとても卑怯なことではないのか。

 迷い、ためらうメルヴィナの両手を強く握りしめ、グレンは立ち上がった。

 つられてメルヴィナも立ち上がる。


「メルヴィナ様、迷っている時間はありません。すぐにでも荷物をまとめて旅立つべきです。今晩中には王宮を発たなければ、後々面倒なことになりかねません」


 メルヴィナが決断する間もなく、グレンは行動を開始した。

 気がつけば侍女達に別れを告げ、混乱する王宮から抜け出て、街外れにある宿屋に向かう。

 そこで母と弟と落ち合うのだ。

 全てが順調に進んだのは、どうやら王太子のお陰らしい。


「殿下ははじめから、何もかもお見通しだったようですね」


 苦笑するグレンに、メルヴィナも困惑しながら微笑んで応えた。

 それからしばらく、馬車の中は沈黙に包まれたが、やがてメルヴィナが口を開いた。


「ねえ、グレン。ひとつだけお願いがあるの」

「はい、何でしょう?」

「もう……わたしに敬語は使わないで。名前も呼び捨てにして」

「メルヴィナ様……」


 驚いたグレンは思わず呟き、はっとして口を閉ざした。

 もう王太子妃でもなければ、罪人として裁かれるであろう父を亡くしたメルヴィナには何の身分もない。

 立場をはっきりさせるためのお願いに、グレンは頷いた。


「……すぐには無理かもしれませんが、努力します」


 曖昧ではあるがひとまずは納得して、メルヴィナは車窓から外を眺めた。

 暗闇の中にうっすらと浮かび上がる王宮がどんどん遠ざかっていく。

 あそこで過ごした三年間はつらかったわけではないが、こうして今は逃げ出している。

 だが、彼は――王太子は一生逃げ出すことができないのだ。

 メルヴィナは祈ることしかできなかった。

 どうか彼が幸せになれますように、と。



 この騒乱の日から三年後、王位に就いたルバートの治世下で王国は大きく変わっていた。

 暴利をむさぼる政務官達が消え、貧困に喘ぐ者達がいなくなり、国中の者達が心から笑えるようになったのだ。

 そんな中、元王太子妃が流刑の地で亡くなったという知らせが王宮に届いた。

 宰相であった父親の罪を贖うために刑を受けた王太子妃の死を、城に仕える者達の多くが嘆き悲しんだ。


 さらにそれから一年後、国王の信厚いストウ領主が結婚の許可を求めて送った使者が王宮に到着した。

 国王は使者を歓待し、ストウ領主の結婚を喜び、数多くの祝いの品を贈った。

 それに対し、ストウ領主の幼馴染である花嫁は大変喜び、添えられていた手紙を読んで、感激に涙したそうだ。

 その後、ストウ領主夫妻は誰もが羨むほどに仲睦まじく、末長く幸せに暮らしたと伝えられている。




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― 新着の感想 ―
[一言] ルバートが切なすぎて泣きました。本当に幸せなってほしい。
[良い点] そういう裏事情があったのですね。 王太子、いい奴。 彼に幸せになって欲しいな。
[一言] ルバートは、潔くて格好いい人ですねー こんな人が多ければ、世の中も違うんでしょうか…今の世は自分さえ、自分の家族さえよければいいという風潮があって、切ないときがあります 国の中枢でさえね ほ…
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