8 結界 願いごと 光の欠片
午後からも、竹流は一心不乱に仕事を続けていた。
昼食の後、竹流は住職に、今日の夜行で北陸に行くことを伝えていた。早く幽霊の掛軸の下を見たいと思っていること、そのために協力してくれる人が福井にいること、夜行は十二時三分の京都駅発で、それまでできる限り修復作業をしておきたいことを、手短に住職に話した。
真は、竹流が仕事に勤しんでいる間に、寺を出て裏手の杉林の中に行ってみた。寺の勝手口のような潜り戸を出ればすぐに裏に出ることができる、と住職に言われて行ってみると、果たして、潜り戸を開けるともう杉林だった。潜り戸から踏みしだかれた硬い地面が、小高く盛り上がった杉林の奥へと繋がっていた。
ゆっくりとその道を辿った。
さっき竹流は真の目を見つめたまま、淡々と語った。
最早誰が旱魃で死のうと構わない、逆に降るなら、この世の全てを押し流し、病と餓えをもたらし、人の一人も残らないまでに滅び尽くしてしまえばいい。
声の調子はむしろ穏やかだった。彼は何を語っていたのだろう。あるいは、真が二年前に死にかけたことを思い出したのだろうか。
本当に、この世の全てを滅び尽くしてとまで思ってくれていたのだろうか。それともそれは真の自惚れなのだろうか。ただ、あれは殺されようとしたわけではなく、事故だった。
大和君がな、ずっとお前の横に坐っとった。何も食わずに、何日もな。
あまり表情を変えない祖父の長一郎が、目に涙を浮かべてそう言っていたのを思い出す。思えば長一郎の竹流への信頼は、まさにあの事故の時に永久不滅のものになった気がする。
それならば、何故ずっと側にいてくれないのだろう。何故、実家とあんなに喧嘩をしながらも、あの家との契約の印だという指輪を捨ててしまわないのだろう。
頼りない子どものように、そう思った。
大学を辞めるとき、なんの迷いもなかったといえば嘘になる。研究は自分の性格に向いていると思ったからだけではなく、実際に面白かったのだ。以前に竹流が言っていた通り、学問というものは、自分の力で考え答えを出そうとして、始めて意味のあるものになった。いつか宇宙へ飛ぶ飛行船のエネルギーを自分の力で作りだす、それは人生を賭けるに値しそうなことだった。
それなのに、時々現実とテレビドラマの夢物語の距離に呆然とし、科学の発達は人間が越えてはならない別の領域への侵入と感じることが多くなった。それでも、時に湧き上がる疑問を抱えながらも、一年は迷いつつ大学を続けた。
だが、研究室に残された事故報告書が、真の疑問に一瞬で答えを出してしまった。
東西冷戦は否応なしに軍事目的としての宇宙開発に金と人知を注ぎ込んでいた。まさに巨大な映画のセット作りのようなものだった。互いの力を示すために推し進められる開発は、人の制御の枠を越えていた。だから事故に対しては誰も、予測することも対処することもできない。それでも研究者は宇宙にロケットを飛ばし、夢見がちな飛行士たちは、明らかに現実のものではない疑似空間の中で行われる訓練を信じ、空に飛び立ち、帰らぬ人となった。死亡したのはわずかに三人。交通事故に比べたら数のうちではないが、命の重さは測り知れない。
未来という言葉や、開発という希望を信じるべきだとは思っていた。科学はその希望を支える礎だと信じた。それでも、何かの拍子に、空気が失われる帰還カプセルの中に自分が閉じ込められているような夢を見る。
もしも、竹流がずっと近くにいてくれたら、そして、どうしようもなくなった恐怖を慰めてくれたら、あのまま大学を続けていくことができたのだろうか。あるいは、何か他の方法や道を、彼が考えてくれたのだろうか。
俺、何を甘えてるんかな。
口では二十歳を越えたと言っている。けれども、不安や恐怖への対応能力は小学生の時とほとんど変わっていない。むしろ高校生の頃のほうがずっと人生の先を考えていたかもしれない。少なくとも、不安が見えないほどの希望を抱き、答えを求めて前を見ていた。側で語りかけてくれていた人がいたからだった。
それなのに、大学に入った年に突然放り出された。蜜月のような時間があったことがかえって真を苦しめた。
自分は結局、彼に頼りきっていれば安心していられたのだ。どこかで、いつも彼が助けてくれると思っていた。
大学に入ったとき、これからはひとりでやっていけるだろうと言われた。
道はちゃんと前に繋がっていたはずだった。彼が側にいて、語るための言葉を教えてくれた。歴史の中にも世界の様々な現象の中にも学ぶべき多くのことがあり、世界はそれまで真が思っていたよりもずっと素敵なことで満たされていると、道を教え示してくれた。その道を外れないように歩こうと思ったのに、一度踏み外すと元に戻りにくくなっていた。宇宙に飛びたいと思ったのは嘘ではなかった。だが支えてくれる手がなくては、飛び立つ土台がわからない。混乱して空を見上げても、東京からは宇宙が見えなかった。
北海道の牧場に帰った後からの記憶がない。逆行性健忘というものだと後で説明を受けた。自分の人生の中にはっきりしない時間がある。だから時々、自分自身の過去と現在の連続性が失われているような気がする。その不確かな自分には、行き場所がない。
あの事故の後から、時々、学業や研究に差し支えるほどの頭痛に悩まされた。美沙子と抱き合っている時間とバイトをしている時間だけは、その不可解な恐怖から解き放たれたが、紙の上で宇宙ロケットの推力を計算しながら、じっとりと手掌に汗をかいていることが多くなっていた。
そして、教授の部屋で文献を探していた時、ソ連で起こった事故報告書を見つけたのだ。写真入りの報告書だった。
真は二日間吐き続けた。妹には消化管の風邪みたいだとごまかした。言い訳ができるという点では、以前よりも大人になったのかもしれない。
幼いころにアンデルセンの人魚姫を読んだときも、幾日か吐き続けた。真の曽祖父はもともと帯広の人間ではなく、クリスチャンであり、国内外の蔵書をずいぶん多く残していた。装丁の美しい本ばかりで、それが曽祖父の唯一の道楽だったと聞いている。幼い真はその格調高い背表紙に惹かれて手に取ったのだろう。内容をよく理解できていたわけではなかったはずだが、その物語は真を怯えさせた。出された食事を吐き出し、そのまま水分も受け付けなくなった。
あの時は何が恐ろしかったのか、今でもよく分からない。だが、愛するもののため、美しい声と穏やかな海の底での暮らしを捨てて人間の姿を手に入れながらも、やがては愛を成就できずに海の泡となってしまう物語の哀しい残虐性を、真は自分の運命のように受け止めてしまった。幾晩もその物語が頭の中を巡って眠れず、怯えて夢の中でも泣きじゃくっている子供を、長一郎も奏重もどうしたものか持て余していたのだろう。
親しい友人であったアイヌの老人が訪ねてきてくれた。それから彼とどんな話をしたのか、真自身は覚えていないが、彼は暫くの間真の側にいてくれた。だが、彼が帰っていく日に言った言葉だけは、今も耳の奥に残っている。
カント オロワ ヤクサクノ アランケプ シネプ カ イサム
真は口の中で、今でもその言葉を正確に発音することができた。
自分はこれからどこへ行こうとしているのだろう。渡しそこなった指輪を美沙子に届け、あの日のことを謝り、やり直そうと言えばいいのか。あるいは、退学届を取り消してもらってもう一度宇宙への夢を繋ぎ止めたいのか。今更何ができるだろう。自分の願いは何なのだろう。もしも願いをかなえてくれるランプの精が現れたら、一体何を願うだろう。
知らずに随分歩いたようだった。今は杉林となっているが、この小高い山のような姿は、あるいは神の宿る場所として祭礼に用いられていたものかもしれない。
実際に小山を登りきると、木が幾分か切られていて開けた平地になっていた。もともとは立派な杜だったのだろう。杜も社も怒りの炎で焼かれて、いつの間にか雑木林のようになっている。
その多少開けた場所には、低い石の囲いが四角に地面を区切ってあり、四隅に植えられた細い木に、やはり四角く注連縄が掛けられていた。注連縄は真の頭を少し越えるくらいの高さだった。囲いの内側は周囲の地面より僅かに高くなっていて、端には低い草が生えていたが、中心部は地面がむき出しで焦げたような跡が残っている。
古いものではない。今でも、誰かがここを祈りの場としているような気配だった。
ここに来てよかったのだろうか。ふ、と注連縄で囲まれた結界に足を踏み入れようとして、足を止めた。
結界というものは、何かを封じ込めるために作られたものだ。それは聖なるものでもあるし、場合によっては祟りをなすものであったりもする。いずれにしても、人が立ち入ることを拒む禁足地だ。注連縄はそこから続く異界との境界線のはずだ。
もちろん冷静に考えてみれば、この注連縄の中に入ったからといって、すぐに祟りに触れたりするわけではないはずだった。それでも、ここには入ってはいけないような気がした。
俺、今敏感になっているからな、と思った。
そこから向こうでは丘は下っていて、樫や椎の木が茂っていた。
ここに着いたときは夕方でよく見えなかったが、昼間に見ると僅かに拓き始めた芽吹きが木々を輝かせていた。この世にある限りの緑の種類を織り込んだタペストリーのように木々が輝く光景は、意識をしなくても畏怖の念を湧き起こさせた。自然の美しさの中に神を見いだしてきた民族の末裔である真も、その畏怖の念の中で、既にここが神の宿るところ、本来人間が足を踏み入れてはならないところだということに気がついていた。
結界を避けても同じだったな。
ぴったりと身体に霊気が纏わりついてきた。その霊気に縛られるように、道なき道を歩いていた。杉林の登りにあったような踏みしだかれた道ではなかった。人のためではない、霊魂の通る道だ。そう考えながらも、足は止まらなかった。木々の枝、湿り気を含んだ地面を踏みながら歩いていくと、向こうに洞窟のようなものが見えた。
ここ、東山の北の端かな。本当にこんなところがあるんだろうか。それとも既に異界に迷い込んでいるのだろうか。
引き寄せられるように洞窟の入口に立った。洞窟は真の背丈の何倍もの高さがあって、内側から湿度の高い、冷えた空気が流れ出していた。朽ちかけた二重の鳥居が、それぞれの右端と左端を重ねるように入口に立っている。近付くと木にかすかに朱の色合いが残っているのがわかったが、木は半ば腐りかけて、地震でもあれば簡単に崩れてしまいそうに見える。その上を見ると、やはり注連繩が渡されていた。
なぜ、鳥居は中心部を重ねているのだろう。あたかも外界からの侵入を拒むようだ。そう考えると、ふと、いつか竹流が教えてくれた高名な歴史学者の法隆寺論を思い出した。建物の門の中心に柱を立てるのは、外界から入り込むことを拒むのではなく、中から怨霊が出て行こうとするのを止めるためである、と。
周囲を見渡すと、足下の岩のあちこちに、まるで賽の河原のように小さな石が積み重ねられていた。
ひとりで来るのではなかったと思ったが、もう遅かった。どこからか強い風が吹いて、真の背中を押した。
魅せられたように二つの鳥居をくぐっていた。一歩、窟の中へ踏み込むと、周囲から急速に明るさが失われる。足元はもちろん、自分の進む先も定かではない。視覚は全く役に立たないのに、冷たく湿った空気の流れが、行く先を示すように体を引っ張り込んでいく。
意志の力は消えてしまっていた。
どれほど歩いたのかしれなかった。あるいは歩いてもいないのに引き込まれているのか、真はいつの間にか窟の奥へと入り込んでいるようだった。現実感のない足の下で、時々何かが壊れたような感触があった。体に様々な意思が触れ、取り囲み、纏わりつき、そして完全に真を呑み込んでいる。視野には何もなかった。記憶の中にあるどのようなものも、ここには存在していない。ただ漆黒だった。真の体の周囲にあるものは、善悪ではなく、感情でもなく、ただ古い時代からこの土地の空気に滲みこんでいる念だけだった。
いつか、アイヌ人の年老いた友人が言っていた。
たとえ月のない夜であっても、完全な闇ではない。木々はわずかな星明りをはね返し、足元の草は、昼間のうちに溜め込んでいた太陽の温度をかすかに放っている。頭の上の木から梟の鳴き声、彼方に高く舞い上がる馬たちの微かな嘶き、それはお前を守り導くカムイの声だ。だから森の中でも山の中でも、お前は何も恐れることはない。だが、ただひとつ、完全な闇が存在する場所がある。それは人の心のうちなのだ。
人の心のうち。今自分は、肉を失った骸の洞穴のような眼窩を覗き込んでいるのか。あるいはその瞳のない黒い内側に吸い込まれているのか。真の視野をいっぱいにしているのは、その真っ暗な眼窩なのか。
窟というのは、時間空間を問わない異界への入口だというが、この異界はすでに現実のものかどうかよくわからなかった。微かに薄い白いぼんやりとしたものが二つ、真の前に浮いている。揺れているのか、浮かんでいるのか、輪郭も距離感もはっきりしない。少しずつ、薄い光は溶け出すように広がっていき、追いかけていくと輪郭が僅かに浮かび上がる。暗闇の中の黒い輪郭だった。そこだけ、空気の温度や湿度が異なっている。
真の体は冷たく、血管は血液を流すことをやめてしまったように縮んでいた。
何かに体をはね返されたような気配で、一瞬、真はぞくっとして足を止めた。いや、はね返されたのではない。息ができない。
体に何かが巻きついていた。首にも体にも顔自体にも、長く太く、締め付けるほどの強さでもなく、ただ真の呼吸だけを止めるかのように、ぐるりを取り囲んでいる。何とか息を吸おうとすると、口の中、鼻の中の粘膜に嫌な味がしみこんできた。何か、得体の知れないものを吸い込んだ気がした。吐き出すにも吐き出せず、骨格のない寄生虫のようなずるりとしたものは、じっくりと確かめるように真の肺の中、胃の中へ侵入し、そして神経の束をねっとりと螺旋状に辿り、脳の内側へ入り込んでいく。
自分自身の眼窩の奥、網膜の内側で火花が散った。
フラッシュに焚きつけられた光景が蘇る。
白く翻る薄い衣。シャン、という音が頭の上を過ぎる。燃やされている木々。注連縄を巡らせた地面の上に祭壇が浮かぶ。祭壇の上には炎をはね返した劔と水晶の珠。襲い掛かる津波のような詔。
突然、馬の嘶きが詔を裂いた。
幾つもの目が真の意識のほうへ向けられる。黒い、瞳のない落ち窪んだ目だ。脳の内側に黒い目が現れてはひとつずつ網膜に貼り付き、やがて頭の中のスクリーンは真っ黒になった。馬の嘶きは真の手を離れて結界を破り、踏み荒らされた祭壇から水晶の珠は放り出され、脳の中で大反響を放って、割れ落ちた。
劔が、そのものが意思を持ったかのように視界の限界から飛び込んでくる。あらゆる光を吸い込んで、真の二つの目の間にゆっくりと迫り来る。体は全く動かなかった。永遠なのか、一瞬なのか、劔は目の間を裂いて頭の内を通り抜け、ずん、という衝撃は頭のはるか後ろにまで響いた。だっと垂れ幕が落ちてきたように全てが赤く染まった。
その赤の背景の中に黒々とした塊が浮き上がってきた。現れたのは、ほとんど原形を留めていないような荒ぶる神の顔だった。手には剣を握り、目を閉じたまま座している。
突然、神はかっと目を見開いた。
二つの眼は黒々と光を放ち、途端に髪は逆立つ。口が大きく開かれた。口の内側は、何かを食い殺したように真っ赤に染められている。
振り乱したような忿怒の形相は、不動明王にもあの龍にも通じるものだった。しかし、そこには内に秘められた慈悲の心など片鱗もない。血が滴る口の奥からは、生臭い臭気と黒い煙が這い出してくる。これは人間が掘り出した神の像なのか。だとすれば、このような顔を創造し鑿で掘り出す人間の頭のうちには、これと同じ臭気を放つ怒りと哀しみのエネルギーがあるということか。
脳の内側には、さっき侵入してきた寄生虫のようなものが這いずり回り、真の頭の中で急速に増殖し細胞を食い荒らし始めていた。急に意識が定まらなくなり、体は痙攣を起こしたように固くなった。途端に突風が吹き、目を開けるとさっきの杉林の中の結界に戻されていた。もう、これが現実なのか幻なのか、分からなくなっていた。
辺りは薄暗く、松明の明りだけが不安げな陰影を作っていた。声のような声でないような詔が、辺りに振動として響いていた。耳からではなく、体に直接響いてくる。
自分が立っている位置の周囲に、茣蓙のようなものがいくつも敷かれて、その上に幾人もの白装束の男たちが座っていた。顔は靄がかかっているのか、何か布のようなもので覆われているのか、それとも存在していないのか、数十人はいるはずなのに表情がわからない。四角く注連縄で囲われた結界の中には、祭壇が設けられ、奥に劔が置かれていて、その前に捧げ物と思しき野菜や魚、酒や餅といったものが、ある秩序のもとに並べられていた。
それら捧げ物の前に白木の小さな唐櫃が置かれている。
真は全身の毛が逆立つような不快感を覚えた。
唐櫃の底から、地面に血が滴っている。
色彩のない景色の中で、その赤だけが生き物のように立体感を持ち、蠕き、広がり、やがて真の足元まで這ってこようとしている。闇の中で蛆が屍体を食うような音ばかりが、しゃかしゃかと響いている。
赤い軟体動物のような血はやがて真の足元に辿り着き、そのまま足を這い上がり、真の体を血色に染めていく。身体は全く動かなかった。やがてそれは首を這い上がり、目に到達すると、ずるり、と目の内側に入り込んだ。
視界に劔を振り上げた男の顔が浮かび上がる。それはまさにさっき目にした荒ぶる神の顔だった。真の目から脳の内側に入り込んだ子どもの神経細胞は、最後に彼が見たはずの光景を真の網膜に浮かび上がらせた。
ちち様。
真の頭の中で、子どもの口が動いていた。
思わず声を上げて、何か叫んだような気がした。
その瞬間、真に一切構わずに祈祷を続けていた影のような男たちが、本来ならば次元の違うところにいるはずの真を認めたようだった。男たちは何十もの顔を真に向けたが、顔があるべきはずのところは暗い穴蔵のようで、目はさらに黒く、光の欠片も認めなかった。
あ、と思ったときには、目に見えない繩のようなもので身体を縛りあげられていた。まさに、一瞬の出来事だった。
目に見えない縄はじりりと体に食い込んでくる。真を取り囲む男たちはほとんど動かず、ただ目の位置だけが穴蔵の底へ引き込むように感情もなくより黒く、沈み込んでいる。その目が幾つも重なりながら真に近付いてくる。
何もない闇に吸い込まれる。完全な闇。
このまま無になっていく、と思ったその瞬間。
頭上から突風と共に何か大きな黒いものが真の身体に迫ってきた。風に掴まれ、体が浮き上がる。
次の瞬間には、さっきまでいた地面は足下のずっと下だった。
浮いている。
真の身体を掴んでいるのは、鱗と鋭い爪のある大きな手のようだった。見上げると、僅かな光を跳ね返す巨大な身体がうねっている。瑞々しく、同時に生臭く重い空気が真の身体を撫でていた。
空は一瞬に暗くなり、雷鳴が轟いた。
龍?
真は、自分の身体を掴んで遠くへ運ぼうとしている巨大な手と、黒く光る鱗を持つ大きなうねる身体を呆然と見ていた。
そして、何が何だかよく解らないうちに、次の瞬間には落下する空気の動きを感じたが、もうその時には意識はなかった。
揺り起こされたのは、どのくらい後だったのか分からない。
「和尚さん」
住職の手に触れられて、身体が金縛りから解かれたように動いた。
「戻られないので心配になりましてな」
真は支えられて立ち上がった。小柄な住職は、思ったよりも力があった。
「大丈夫ですかな」
頷いて起き上がると、そこはあの注連縄が張られた結界の中だった。
避けたように思ったが、実際には中に入り込んでいたのかと思った。真は住職の手に摑まれるようにして、その結界から出た。まるで何か特別な仕掛けでもあるように、身体がふわりと一旦浮き上がり、また沈んだ。沈んだときには結界から出ていた。
ふと、登りきった杉林の先を見やると、向こうは急に下った切り立った斜面で、ほんの少し下は車の通る道路だった。頭の上を渡っていく風の音、鳥の声、幾つもの森を通り抜け山にぶつかって跳ね返っている微かな車の音。耳が現実の音を認識し始めた。
「どうかなさいましたかな」
真は首を横に振った。
竹流が妙なことを言ったので、夢を見たのだろうと思った。
考えごとをしながら歩いていたのでわからなかったが、帰りの道を辿りながら、それほど遠い道ではなかったことに気がついた。
妙なことを考えていたので、また心に隙があって、変な気に取り憑かれたのだろうと思った。ふ、とポケットに手を入れて、その手が何かを掴んだ。取り出してみると、祠の中で見つけた光る欠片だった。住職に見つからないようにと、すぐにポケットに戻した。