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7 祠 雨降のご神体 不動明王と龍

 夢の中で夢を見ていた。

 記憶の引き出しの奥深く、二度と目に入らないようにと幾重にも包んで奥の方においてあったのに、他の探し物をしているときにその引き出しを間違えて開けてしまった。何だろうと包みを開けてみると、思い出したくもなかった光景の中に立っている自分を見出した。

 明るい朝の光景だった。父は前の夜、戻ってこなかった。脳外科医である功が、急患や重症患者のために戻ってこないということは珍しいことではなかったが、精神状態の不安定な息子を家に残しているために、戻れない日には息子が心配しないようにと連絡をくれた。功自身でなくても、看護師や秘書が必ず連絡をくれていた。それが、その夜は初めて、連絡がなかった。

 私立の学校に転校してからは、何とか学校を休まずに通うことができていた。これまでの学校と違って、苛められることがなかったからだけではなく、院長が功の親友であり、功に『息子をよろしく』と頼まれた律儀な級長はお節介で、気を使ってもらっていることがわかっていたからだった。今度こそ、父の息子に対する失望を払拭し、期待に応えたいと考えていた。

 功の書斎は十二畳ほどの部屋だった。光が高い窓から射し込むと、部屋の隅の机の上にだけ照明が灯されたようになる。部屋の大部分は図書館並みの書棚の列だった。薄暗い書棚と書棚の間は、真の絶好の隠れ場で、功なりに定めた秩序に基づいて並べられた本は、いつも真を慰めて包み込んだ。

 書斎の机の上には、功が前の夜まで読んでいたらしい『宇宙力学論』が広げられていた。高い窓から射し込む陽は、部屋に舞う塵を光色に染めていた。真は広げられた本のページに挟み込まれた栞を黙って見つめていた。カリフォルニアに住んでいる時、アウタースクールの先生が、大切な人に手作りの贈り物をしましょう、と言って鉱石を薄く剥がす方法を教えてくれた。それで栞を作ったのだが、功はこんなものを大事に使ってくれていたのだ。雲母の欠片は窓から落ちる光を受けて、内側に密やかに持っている色彩を微かに放っている。

 その日、そのまま学校に行った。帰宅すると、書斎の机に『宇宙力学論』も栞もなく、そのまま功も戻らなかった。

 真は本が置かれていた場所に手で触れた。温度はなく指先に感触はなかった。そのまま陽は暮れて、書斎はゆっくりと光を失っていった。

 目を閉じると、どこか別の次元で微かに鈴が鳴っていた。

 卵城伝説の鈴の音だ。

 不意にそう思い、真はふと身体を起こした。東京の家の書斎ではなく、ここは確かに今いるはずの寺だった。空気はしん、と息を潜めるようで、その無音の空間にぽつんと座っている。部屋は真っ暗ではなく、あらゆる物が、自分自身も含めて、内に持っている光を微かに萌出しているために、ぼんやりと浮かび上がって見えている。

 自分以外の生きたものの気配がなく、孤独で、不安で、そして穏やかだった。こうして誰かの手をずっと待っていた。そして、ただ一人のままで、今も待ち続けている。

 しばらく座っていると、また庭の方から鈴の音が聞こえてきた。鈴、というよりも、何か硝子の玉のようなものが当たる音で、土鈴の響きを澄ませたような印象だった。

 その音以外、何も聞こえなかった。まだ夢の中なのだろうと思った。それで、何やら怖い気もしなかったので、そっと障子を開けて縁側に出た。

 今日も月が出ていた。形を見るとまだまん丸ではなかったが、まるで満月のように明るく、空に瞬くはずの他の星々の光を消してしまっていた。

 鈴の音にふと庭の先の方を見ると、さすがにそこばかりは暗く沈んでいくような枯山水の庭の奥の片隅が、ぼんやりと浮かび上がっているように見えた。魅かれるように縁側から庭に降り、草履を履いてその庭の奥へ歩いた。

 草履は誰かがたった今、真のために形を整え暖めていてくれたようで、足にしっくり馴染んだ。

 ぼんやりとした光は、近づくとだんだんとはっきりしなくなっていった。足が砂利を踏む感触はあったが、音もしなかったので、やはりこれは夢なのだろうと思った。

 そこには木々に隠れるように小さな祠があった。その向こうは、もう人の歩く余地のなさそうに木々が茂っていて、すぐに塀だった。塀の向こうは杉林のようだった。

 祠が光ってたんだろうか?

 ちょっとばかりそこに立ちすくんでいたが、もう鈴の音は聞こえなかった。



 朝真が目を覚ますと、竹流はもう起きていて、やはり隣で書物を広げていた。それは昨日の日誌の続きのようだった。

「寝てなかったのか?」

「いや、さっき起きたところだ」

 とは言うが、顔を見るとほとんど寝ていなかったようだった。普通の人間ならこの書物は睡眠薬以外の何ものでもないだろうに、竹流には逆に興奮剤のようだった。

「続き?」

「うん、室町時代ってのは、結構、災害も多かったんだな。雨が降って堤防が決壊したり、逆に日照りが続いたり。それにこの日誌、ぷつん、と終わっている感じだ」

「ぷつんと終わる?」

「これだけの記録魔なら、辞世の句まで書いてそうだけど、最後はここ数週間の日照りのために田が心配だというようなことと、あとは息子が五歳になったので馬を贈った、って話だけだ」

「ぷつん、と終わるってのは、その、急に何かあったってことか?」

「そうかもな」

「記録魔なら、いつどんな絵を描いただとか、書いてないのか」

「日誌を書いている間に描いた絵の事は、しつこいくらい詳しく記してある。龍の絵は息子が死んでから描いたんだろう。この日誌ではまだ息子は生きている。もっとも、息子が死んだのだと仮定して、だけど」

「馬を贈るってのは、結構裕福な家だったのかな」

 真がそう呟いたところへ、襖の向こうから、お目覚めですか、という声が聞こえた。

 彼らが朝食を食べていると、住職がやって来た。

「よく眠られましたかな」

「お陰様で」

 眠れませんでした、とまでは竹流は言わなかった。

「ところで、和尚、この寺の縁起を聞いていませんでしたね」

 朝食時の話題として竹流がたまたま言い出したのか、それとも何か確信があって言ったのか、真には区別がつかなかった。

「縁起、ですかの。実はあまりはっきりしておりませんのじゃ」

「普通、お寺にはそういう記録があるのでは?」

「言い伝えでは、定信という名の僧が龍に乗って何処からか現れて、この寺を開いたといいますがな。はっきりした記録が残っておらぬのは、言い伝えが多少おとぎ話のようだからですかな」

「ていしん、とはどういう字を?」

「定めるに信じると書きますのじゃ」

 真は急に気になって、和尚に尋ねた。

「この庭にある祠は?」

「さて、まぁ、よく祠に気がつかれましたな」

 確かに、縁側から見ただけでは、木々の向こうに隠れて、祠があるとは気がつかない位置だった。竹流が自分のほうを不可思議に見つめている視線を避けて、真は返事をしなかった。

「この寺の前身は神社だったと聞いております。今は小さな祠しか残っておりませんが、何でも平安時代には霊験あらたかな祈祷所であったとか。京都の東の守りですな。今の敷地よりもずっと広く、向こうの杉林まで続いておったそうで、それが火事で燃えたとか」

 住職は、詳しいことは分からないと言った。

「霊験あらたか、というと、どんな御利益が?」

「御神体は、剣と水晶の珠であったと聞いております」

 真は思わず竹流と顔を見合わせた。

雨降劔あめふらしのつるぎ雨降珠あめふらしのたま、と申しましてな、何でも、劔を鞘から抜けば水が迸り、珠は乍ち龍を呼ぶ、と伝えられていたとか」

 重ねて龍という言葉が出て、真は今一度竹流を見た。竹流は真の顔を見返しながら、住職に答えた。

「雨乞いの祈祷所、ですか。なるほど、それで龍とは繋がったわけだ。その御開祖が龍に乗ってきたという話も、偶然ではないのでしょうね」

「さて、そこまでは」

「で、今、その御神体は?」

「この寺のどこかに埋められているとも、伝えられてはおりますがな」

「でも、珠がなくなったのは比較的最近じゃないんですか?」

『彼ら』は、珠がなくなったので、龍が翔べなくなったと言っていた。

「はて、私もこの寺に来て何十年も過ぎますが、御神体らしきものなど見たことはございませんでしたがな」

 住職の細い目の奥はよく見えなかった。



 竹流はその日もものすごい勢いで仕事をしていた。真は、彼の邪魔にならないようにその辺を散歩してこようと思ったが、ここはそもそも千年の昔には魑魅魍魎が当たり前に闊歩していたという古都だ。ひとりで道を歩いていて変なものに出くわしても困るな、と思って、取り敢えず昨日夢の中で見た祠に行ってみることにした。

 枯山水の庭の奥に歩くと、昨日の景色がそのまま現実に存在した。そして、やはり夢のままに、祠がそこにあった。祠は苔むした石の上に据えられ、大人の腕が目一杯で抱えられるかどうかの大きさで、小さいが流れ造りを模してあった。随分古いもののようだが、とても平安時代や室町時代からあるものとも思えなかった。

 真はしばらく前に立ってじっと見つめていたが、意を決して、祠の扉を開いた。

 とたん、ふわっと何かの気配がしたが、すぐに消えた。中には石の器か台のようなものがあるだけで、御神体の代わりも何もなかった。しかし、その向こうで何かがきらりと光った。何だろうと思って、祠の奥に手を延ばして、その光るものを取り上げた。

 それは、小指の爪ほどの光る薄い石の欠片のようだった。ちょっと考えたが、それをポケットに忍ばせて祠の扉を締めた。それからさらに奥の浅い林の方に足を向けた。林と言っても綺麗に手が入れられていて、うっそうと繁るというような感じではない。

 塀は真の背丈ほどの高さで、向こうの杉林から、風が時折舞い込んだ。

 雨乞い、か。きっと、当時は大変な問題だったろうし、この寺の前身だったという神社が霊験あらたかなら、さぞかし信仰を集めていたことだろう。

 雨降劔、雨降珠。その雨乞いの祈祷のためのご神体は何処かにあるんだろうか。子どもが落としてしまったという水晶の珠は、そのご神体と何か関係があるのか。

「どうかなさいましたかな」

 真が立ちすくんでいるところに、声がかかった。真は慌てて振り返った。

 住職が例の穏やかな小さな目を真に向けて立っていた。

「いえ、昔は、どんなところだったのだろう、と」

「昔と言いますと?」

「このお寺が建つ前、さぞかし立派な神社が建っていたんでしょうね」

「そうでしょうな。平安時代は、魑魅魍魎と人間とが混在して生きていた時代ですからの。天災も多く、人びとの不安はどれほどのものだったでしょう」

「応仁の乱で燃えたのですか?」

「さて、昔のことゆえ、どのようなことだったのやら」

「御神体は何処へ行ったのでしょうか?」

「あなたはどうお考えですかな」

「このお寺のどこかにあるのでは。あなたは、本当は御存知なのではありませんか?」

 住職は小さな目で真を見上げた。

「いやいや、知っていれば目の前にお出ししましょう。しかし、あなたにお見せしたいものがある」

 住職は真をもう一度蔵へ案内した。彼は、昨日見た書物の棚の桐の箱をしばらくごそごそと探していたが、掛軸をひとつ、引っ張り出した。そして、蔵の天井近くの高い窓から落ちる光の中でそれを広げた。

「これは」

 真は息を飲んだ。

 竹流は始めにこう言った。不動明王を捜しに行こう、と。しかし、彼が言っていたものが、ここに描かれている絵なのかどうか、それはわからなかった。

「不動明王でしょうかな。普通の姿とはやや異なりますが」

 古い掛軸のようだ。しかも、よく見ると普通の不動明王とはどこか違っている。しかし、背には迦楼羅炎が描かれていて、まだ紅の色を失ってはいなかった。

「表に激しい忿怒を、そして内には慈悲のこころを抱く姿です」

 真はしばらくその不動明王像を見つめていた。そして、ふと、その右手に握られた剣を目に留めた。

確かにこの不動明王は常とは異なる姿だった。剣を持つ手とは逆の手には普通は繩を持っているものだが、この不動明王はその手の平の上に宝塔、あるいは函のようなものを持っていた。

 真は住職を見た。

「雨降劔?」

「そして、雨降珠」

 真はもう一度絵を見つめた。

「珠? この宝塔の中ですか?」

 左手にあるものは、丸いものではなく四角い。住職はその問いには答えなかった。

「仏像は様々な持物を手にしておりましてな、不動明王は普通、剣と繩を手にしておりますのじゃ。このような宝塔を持っているのは、弥勒菩薩が禅定印を結んでいる手の上か、または多聞天、つまり毘沙門天ですな。宝塔の中には通常、仏舎利、つまり釈迦の骨が納められていると言いますが」

 真はしばらく不動明王を見つめていた。心を見透かすような忿怒の形相、しかし、内には深い慈悲を持つという。

「この不動明王像は、この寺の縁起よりも古いものだと、伝え聞いておりますのじゃ」

 真は住職に、この掛軸を借りてもいいか尋ねた。

「無論ですとも」

 真は礼を言って、掛軸を丸めてもらって受け取り、竹流が仕事をしている本堂に行った。竹流は相も変わらず、熱心に仕事をしていた。

 本当は龍のことを調べたいのだろうが、目の前の自分の仕事をこなさずにはおれないのだろう。何処までも律義な男だった。

「少し、休めないのか」

 竹流は顔を上げた。

「もう昼か?」

「いや、まだだけど。見せたいものがあるんだ」

 真は竹流の前に不動明王の掛軸を広げた。竹流はそれを見て、それから真の方に顔を向けた。

「これ、どうしたんだ」

「和尚さんが出してくれた」

「伝説の不動明王の写しかな」

 しばらく竹流はその掛軸を見つめていた。それから、急に何を思い立ったのか、ちょっと電話を掛けてくると言って立ち上がった。ずいぶんたって戻って来たかと思うと、真に告げた。

「今日の夜、福井に行こう」

「福井?」

「幽霊の下を覗かせてもらったほうが早いかもしれん。不動明王も龍も、もしかしたら同じ出所かもしれない。ついでにあの巻物も、下を見てみよう」

 竹流はそう言って、畳の上に胡座をかいて座り、改めて掛軸の不動明王を見つめた。

「不思議な持物だな。普通、不動明王は剣と繩を持っているものだが、しかも和尚の話では、伝説では鈴を持っているという話だったが、これは宝塔みたいに見えるな。宝塔は弥勒菩薩が持っていることもあるが、通常は毘沙門天の持ち物だ。鈴というから、てっきり五大明王繋がりで金剛夜叉明王の金剛鈴かと思っていたが、四天王とはどういう関係だろうか。しかも、普通、抜いた剣を持っているが、これはどう見ても鞘に納まっている」

 そうか、何となく感じた違和感は剣の方にもあったのだろう。この不動明王は、抜かれた剣ではなく、鞘に収まったままの剣を突き上げて持っているのだ。

「和尚さんは、この不動明王は寺の縁起よりも古い、って言ってたけど」

「案外、簡単な理由かもしれないな」

「簡単?」

 竹流はご飯に呼びに来た小僧に返事をしてから、掛軸を丁寧に巻いた。

「忿怒の形相さ。何を連想する?」

 彼らは昼食を頂くために、奥の広間に移動した。

 広間に入ってすぐに、真の目には天井の龍が飛び込んできた。

「龍」

 竹流は座敷机の前に座って、龍の絵を見上げている真に語りかけた。

「表には忿怒、しかし心に慈悲を抱く。龍が実際どうかは知らないが、仏教では龍は仏法を守る聖獣で、少なくともその絵を描いた御仁は、龍が我が子を守ると思っていた。だから、下絵みたいな巻物には雛鳥を守る鶴の句が添えられていた」

 真は、取り敢えず彼の向かいに座り、ご飯の入った茶碗を小僧から受け取った。

「何か、分かったような分からないような」

「この寺の縁起のコンセプトさ。今の御本尊は大日如来だが、あの仏像は江戸時代のものだ。もともとはもう少し違うコンセプトがあったんだろう」

「縁起のコンセプト?」

 竹流が味噌汁の蓋を開けた。白味噌仕立で里芋と人参、結蒟蒻に絹さやが入っている。真も味噌汁の蓋を取った。科学の道を選んでいた真にも、こういう料理は丁寧で緻密な計算の元に成立していることが分かる。その日の気温や湿度に微妙に左右される結果を、過程の中で掴み取り、アレンジする能力が必要なのだ。その全てを放り出してしまった自分とは違い、この料理を作った僧は雑念のない心で、業のひとつとして米を炊き、里芋の皮を剥き、だしの味を調えたのだろう。

蕗と梅の信田巻に添えられた蓬蓮草の緑も鮮やかだった。

「ところで、お前、いつ祠があるなんて気がついたんだ?」

「祠?」

 鸚鵡返しに言ってから、また怒らせるな、と思った。

「また、夢の中か?」

 真は返事をしなかった。

「まぁいいけどな。つまり、この寺の敷地はもともと神社だった。それもかなり立派な、霊験あらたかな神社だ。御神体は劔と水晶の珠。剣を抜けば乍ち水が迸り、水晶の珠は龍を呼ぶ。事情はともかく神社は焼失し、何故か再建されずにその上にこの寺が建った。祠だけが残っているというわけだな。この寺は、もはや世の中のために、剣を抜くことも龍を呼ぶこともしない」

 竹流は雀皿に盛られた大根の浅漬けを食べて、これは甘くて美味いな、と呟いた。

「この寺を起こしたという、龍に乗ってきた定信という僧、誰だったと思ってる?」

「あの記録魔の絵師?」

「そうだろうな。兼定、一文字重なって定信。つまり、あの絵の龍は、この寺の本当の御本尊かもしれないぞ。寺を建立する際に、もともとの御神体は不動明王の持ち物になった。もう雨を降らせる必要もない、剣は鞘に納められ、水晶の珠は仏舎利、いや愛する息子の骨と共に宝塔に納められた。もしかしたら、神社を焼いたのは不動明王の怒りの炎だったかもしれないな。つまり、不動明王も龍も、同じコンセプトのもとに描かれ作られたんだろう。幽霊の掛軸の下に記された不動明王の在り処と、消える龍の謎は、もしかしたらある同じキーワードで繋がっているかもしれない」

 少し間を置いて、竹流は続けた。

「怒り、という感情だ。呪い、とでも言ったほうが正しいかな?」

 真はしばらく竹流を見つめていた。

「何か、出てきたのか?」

 真が突っ込むと、竹流は満足そうに笑った。

「相変わらず勘だけはいいな。昨日の弥勒菩薩、背板に墨で書き込みがあったんだ。それが、板が半分腐っていてよく読めないんだが、読める文字からだけ判断すると、かなりひどい旱魃があって、この神社は雨降の祈祷をしていた。日誌によると、あの記録魔の絵師は、その旱魃対策の幕府もしくは天皇家の責任者だったようだ。ところが珠が砕け、子どもが殺された」

 真は驚いて竹流を見た。住職の話では、その弥勒菩薩はどこかを補修したときに掘り出されたという。怨念を込めて土中に埋めたということなのか。

「それしか書いてない。と言うか、それ以上は読めない。あの弥勒菩薩自体は平安初期のもののようだが、背板の板は後に嵌め替えられているようだった。弥勒菩薩の背板に書き込んだってところが、何かを物語っている気がするな」

「どういう意味だ?」

「弥勒菩薩は釈迦の次に仏位につくと約束された菩薩だ。仏滅後五十六億七千万年後にこの世に下生して、釈迦の時代に救済から漏れた人々を救うと言われている。殺された子どもの救済を、次の世の仏に託したのかもしれない」

 真はしばらく黙って竹流を見つめていた。箸を持っていた指先から、血の気が引いて痺れるような感じになっていた。

「何で、殺されたんだ?」

「さぁな。だが、子どもを殺すんだ、山賊の仕業でもなければ、ある程度身分のありそうな家の子どもを殺すのには、それなりのわけがあるんだろう。あるいは、室町時代に流行った家同士の確執で、敵方の子孫を根絶やしにするためかしかもしれないけどな。しかし、父親が生き残って龍の絵を描いているんだから、そういう話ではないか。でもいずれにしても、それは記録魔の絵師が日誌をぷっつりとやめるほどの出来事だった」

「珠が砕けた、と言うのは?」

「例えば、悪戯だったかもしれない」

「子どもの?」

「うん、子どもは父がちっとも帰ってこないので淋しかった。父は旱魃対策委員として忙しかったしな。日誌から伺い知るには、大概子煩悩な父親だったようだ。たまたま、何かの事情で珠が割れたか、壊れたか、神社に父を探しに来た子どもが誤って壊してしまったか。雨乞いが続けられている深刻な状況だぞ。珠が割れたら、子どもの命でも生け贄に捧げるか。橋を架けるときに、橋が流されないように、龍神に生娘を捧げるようなものだな。人柱と逆の発想だ。龍神を誘い出し、雨を降らせるために、活きのいい男児を差し出したか」

 真は竹流の顔を見ていられなくて、机の上のどこでもないところに視線を落とした。指先に感覚がなく、箸を持っている感じがなかった。嫌な言葉が耳に入ると、耳鳴が響いて何も聞こえなくしようとするのもいつものことだった。それでも、よく通る竹流の声は雑音の中でも、まるで違う周波数を持って真の脳の内にまでちゃんと届いてしまう。

「お前が親なら、どうする?」

 自分の親は、自分の危機にどうしてくれることもないと思った。生まれて直ぐ真を捨てていった実の両親も、赤ん坊の首を絞めた育ての母親も、失踪してしまった育ての父親も。

「あんたは?」

 真の問い掛けに、竹流は穏やかな表情のまま答えた。

「俺か? 俺は子どもなど持つ気もないしな。しかも、俺の親は俺が死んだらこれ幸いと思うだけだろう」

 真は黙って竹流を見つめた。竹流の家の事情はあまりよく知らなかったが、彼自身が子供の頃に叔父の家に引き取られていることを思えば、彼の家庭事情も決して真より良いというわけではないのかもしれない。

「だが、想像してみることはできるな。たとえば、俺にとって大事な人間が殺されて、この世からいなくなったら」

 竹流は言葉を切った。真は自分に向けられた深い青灰色の瞳に、惹き付けられるように見つめ返した。

「この世を焼き捨ててやろうと思うかもしれないな。大事な人間以外の他のものは、在っても無くても同じだ。雨も降らなくていい、旱魃で誰が死のうと最早構わない。逆に降るなら、この世の全てを押し流し、病と餓えをもたらし、人の一人も残らないまでに滅び尽くしてしまえばいい。神社を焼き捨て、怒りをどこかに封じ込め、そしてその上に座して沈黙するか、いや、いっそ自分もその炎で焼け死んで、末代まで祟ってやるって思うか」

 真は黙って俯いてしまった。そのような激しさは自分にはないものだと思ったし、そういう直接的な感情は真を怯えさせた。


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